犬と子猫

良治堂 馬琴

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第54章『妊娠』

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第54章『妊娠』

「おめでとう御座います、九週目に入ったところですね」
 産婦人科の医師は中年の女性だった、その彼女から笑顔と共に向けられた言葉が凛の頭の中で木霊する。
 妊娠――、高根が避妊具を付けずに行為に及んだのは最初の時だけ、後は律儀に毎回装着していて、あの一晩でまさか、と大きく息を吐く。前回の結婚生活の三年間の中で元夫が避妊具を付けた事は一度も無かった、その結果妊娠に至った事は一度も無く、石女と罵られて叩き出され、自分自身でもこの身体に子を宿す能力は無いのかも知れないと思っていた。それがたった一晩の行為で妊娠に至ってしまうとは、冷遇された三年間は何だったのだろうか等とも考えてしまう。
 自分に子を宿す能力が有った、それは良い、どちらかと言えば喜ばしい事だ。しかし、子の父親である高根はこの妊娠をどう思うのだろうか。彼の口から子供が欲しいとかそういった話は聞いた事が無い、凛に対しては過保護で甘い高根、妊娠を知れば産んでくれと言うだろうし結婚もするのだろう。しかし、それが本意なのかは分からない。もし子供が好きでないのなら、子供を持ちたくないからきっちりと避妊をしているのだとしたら、その彼に、自らの行為の結果だとしても父親になる事を強いて良いのだろうか。
 幾ら考えても分からない、高根に妊娠の事実を伝えない事には話の進み様も無いが、万が一良い顔をされなかったらと思うと告げる事自体が怖くて堪らない。
「あ……多佳子さん待たせてる、戻らないと」
 支払いはもう済んだ、微熱も吐き気も悪阻の症状としては極一般的だそうで、辛いなら無理をしないで安静に、そう言われただけで薬も出ていない。ともかくタカコをいつ迄も待たせておくわけにはいくまい、彼女にも仕事が有る筈だ。
「あ、お帰りー……って、どうしたの?まだ調子悪い?」
「いえ、気分はもう楽になったんですけど……あの、多佳子さん、ちょっとお話する時間有りませんか?」
 顔色は良くなるどころか悪化しているだろう、心配してついて来てくれたタカコにまた更に心配をさせてしまう、それでも誰かに相談せずにはいられず、凛は運転席を倒してごろごろとしていたタカコへとそう話す。
「話って……私はさぼれるから良いけど、凛ちゃんは?身体、辛くないの?」
「はい、大丈夫です、ちょっと相談したい事が有って」
 男性には話せないし話したくない、知り合って間も無いが何かと可愛がり良くしてくれるタカコ、彼女になら話せる気がすると思いつつ持ち掛ければ、凛の様子に何か感じるところが有ったのか、タカコは深く事情を聞く事も無く頷き、
「とにかく乗って。何処か喫茶店でも入ってお茶にしようよ」
 と、そう言って凛を助手席へと座らせ来た道を戻り出す。道中凛から口を開く事は無く、タカコの方も同じ様に口を閉じたまま、車が止まり二人が外へと出たのは、高根の自宅もだいぶ近くなった所に在る一軒の喫茶店だった。
 店内へと入り紅茶を二つと店員に告げるタカコ、凛は促されて着席し、彼女はその向かいへとどかりと腰を下ろす。
「……で?話って……どうしたの?」
「…………」
 勢いで話が有ると言ってしまったがどう言ったら良いのか何も分からない、そもそもタカコの方だってこんな話をされても困るのではないだろうか、そんな事を考えれば更に口は重くなり、凛のその様子にタカコは困った様に頭を掻き、戦闘服のポケットから煙草を取り出して咥え、
「あ、煙草、吸っても良い?」
 そう聞いて来る。
「あ、はい」
 凛のその言葉を待って火を点けるタカコ、顔を背けて横の方へと煙を吐き出す様を見ながら、こうして付き合ってくれているのだから話さなければ、凛はそう胸中で呟き、一つ大きく息を吸ってから口を開いた。
「……さっき、病院で……妊娠してるって言われました、九週目だそうです」
 タカコが手にしていた煙草をお冷のグラスの中に突っ込んだのは凛が『妊娠』と口にした直後、目にも留まらない程の速さで煙草を吸い口迄全て水の中に突っ込み、勢いで跳ねた水滴がグラスの周囲に散らばりタカコの手を濡らす。
「ちょ!妊娠してるのに煙草とか駄目だから!」
「あ……そう言えばそうですね」
「早く言ってよ!言ってくれたら吸わなかったのに!」
「え、あの、はい、そうですよね……すみません」
「もう……で?その事で私に何を?」
 タカコのその言葉は尤もだ、本来であれば自分も真っ先に高根のところに行って知らせたい、喜んで欲しいと思っている、第三者のタカコにしても普通ならそうすると考えるだろう。
「……あの……真吾さんは、喜んでくれるでしょうか……」
 ぽつりと口にした言葉は凛の心情を表す様に小さく震え、タカコはその様子に溜息を吐き口を開こうとするが、店員が紅茶を運んで来たのを見てまた口を閉じ、店員が下がってから再度口を開いた。
「喜ぶと思うよ?あいつが家に女を住まわせてるなんて凛ちゃんが初めてだし、最近の真吾ってば周りが砂を吐く勢いでのろけまくってるからね?結婚とかも考えてると思うよ?私が聞いたら、『戦況が戦況だから今直ぐはなぁ、子供出来てもなかなか傍にいてやれない事も増えて来るだろうし、まだな』って言ってたから。だから、凛ちゃんを抱いたんだなってのは気付いてたけど、てっきり避妊してると思ってた」
「……あの、最初の時、その時だけ真吾さん付けなくて……次の日以降はずっと付けてたんですけど……」
「……あー……盛り上がっちゃって付けるの忘れてたんだね……その一回で命中しちゃったのか……」
 明け透けに直球で話すタカコ、それに思わず赤面しつつ紅茶に口を付ければ、その様子に気付いたタカコがごめんごめんと言って笑いながら頭を掻く。
「まぁ……さ、私はそう思うし心配しないで早く真吾に教えてあげなよって思うよ?そりゃ真吾の予定よりもだいぶ前倒しになるんだろうけど、考えてなかったわけじゃないみたいだし、出来ちゃったのは真吾が付けるもの付けないでいたからなんだから、そんなに凛ちゃんが背負う必要は無いんじゃない?二人の行動の結果なんだから、二人で決めて、二人で支え合えば良いんじゃないかな?」
 優しく笑いながらゆっくりと話すタカコ、その暖かな空気に思わず涙ぐめば、笑みを深くしたタカコが右手を伸ばして来て優しく頭を撫でる。
「おめでとう、私も嬉しいよ。生まれたら、抱っこさせてね?」
「……はいっ……あり、が……、ござい……ます……!」
 暖かで優しい感触、それに涙腺は決壊しぽろぽろと涙を零す凛を見てタカコは更に優しく微笑み、暫くの間、無言のままその様子を眺めていた。
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