犬と子猫

良治堂 馬琴

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第86章『男の矜持』

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第86章『男の矜持』

 島津宅へ――、正確にはそこに身を寄せているへと、高根の無事の解放を知らせる小此木からの連絡が入ったのは、夜が完全に明け昼近くになってからの事だった。発電所付近は完全に封鎖されていたもののその封鎖線の外側に押し寄せていた報道陣や野次馬により
『どうやら敵の制圧に成功したらしい』
 との報は夜明けと共に地元博多だけではなく全国へと伝わってはいたものの、凛や義姉敦子はそれだけで動く事はせず、ただ海兵隊基地からの連絡を待ち続けていた。
 そんな中小此木により齎された解決の報、夫の無事に安堵して泣き出してしまった凛に代わり敦子が電話へと出て小此木へと礼を伝え高根の所在を確認し、電話を切った後は二人で抱き合い無事を喜んだ。
「じゃあ凛ちゃん、陸軍病院行こうか」
「はい」
 怪我はしていないらしいが念の為に精密検査を受け、異常が無ければ明日には退院出来るらしい。着替えも無いだろうからと病院に向かう前に一度自宅へと寄る事にし、凛は甥姪の支度をする敦子を手伝いつつ車を呼び、四人揃って車へと乗り込んだ。
 自分が調子を崩しては帰って来た高根を心配させるだけだからと半ば無理矢理に食べ寝る様にはしていたものの、実際気が休まる事は一瞬として無く、夫の無事を祈り続けた。しかしそれももう終わるとまた滲んで来た涙を拭えば、甥姪を挟んでに座っていた敦子に
「泣き虫なんだから……でも、良かったね」
 と、そっと頭を撫でられる。敦子の言っていた通りなら彼女の夫である兄も現場へと赴き危険に身を晒していた筈で、彼女自身も家族の身の安全を祈っていたに違い無いのに、そんな義姉に心配を掛けてばかりだった事を胸中で詫びつつ凛は自宅の前で車を降りて中に入り、二階へと上がり引き出しの中から高根の着替えを取り出して纏め始めた。
「制服は家に無いから、戦闘服の予備で良いかな……あ、でも、明日一日は休めるなら私服でも良いのか……どっちなんだろ」
 普段から汚損する可能性の高い戦闘服は自宅にも職場にも予備を置いてあるが、制服に関しては職場には有るらしいが自宅には置いていない。高根が着て出勤し着て帰宅するから夜の間に手入れはするものの、それだけだ。退院からそのまま出勤するのであればいつも制服を着ているからその方が良いのだろうが、職場である基地に取りに行かなければそれは不可能。だとすれば戦闘服が妥当なのだろうが、明日一日は休みで自宅へと帰って来るのであればそれもまた大仰な、と考え込み、最終的に両方持って行く事にしてそれを鞄へと詰め始める。
「後は……と、多分制服汚してるだろうし、それを入れる袋も無いと……あ、でも病院で洗いに出してるかな。でも念の為に持って行った方が良いよね」
 祖父も兄も出来るだけ他者の目に触れないようにしてはいたものの、出撃の後の酷く汚れた戦闘服を実家にいた時分に何度か目にした事は有る。泥汚れだけではなく活骸や殉職した仲間の体液や糞尿、それ等がこびりついた戦闘服の臭いを思い出し、高根が丸二日に渡って置かれていたであろう環境を思い浮かべた。
 人質に等なった事は無いから分からないが、行きたい時に自由に便所へと行ける状態ではなかったであろう事は想像に難くない。出撃の時もどうしても時機悪く用足しに行けない時には思い切って漏らしてしまうものだと祖父も兄も言っていたから、今回の高根もそうなのかも知れない。だとすればきっと赤の他人に汚れた制服を渡すのは高根も躊躇うだろうし、自分に持って帰らせるつもりで洗いには出さずに置いてあるだろう。それを受け取って帰って来るのだからやはり汚れ物用の袋は必要だと思い、荷物を纏めた後は階下へと降り台所へ入り、買い物の時に貰うビニールの袋を収納から取り出してそれも荷物の中へと入れて車へと戻った。
「お待たせしました」
「着替え、持って来た?」
「はい、汚れ物用の袋も一応」
 そう言って鞄を少し持ち上げて見せれば、一瞬敦子の動きが止まり、そして何とも言い表し様の無い苦笑いを浮かべて
「あー……そうだよねぇ……海兵の孫で妹だもんねぇ……でも、大隊長にはどうなのかな……」
 そう言った。意味が分からずに小首を傾げれば、
「いや、凛ちゃんの行動は間違ってないんだけど、まだまだ新婚さんの大隊長的にはどうなのかなって思っただけだから」
 笑いながらそう言われ、その後に車は病院へと向かって走り出す。
 やがて到着した病院、正面玄関から中へと入り小此木から聞いていた病棟へと上がり高根の病室へと入れば、そこにいたのは夫である高根と初老の男性が一人。入院着を着ている事から入院患者である事は窺えたが、高根との関係性は見当が付かず、凛はそれでも男性へと向かって頭を下げる。
「……奥さんか、高根総司令」
「はい、凛です。凛、こちら、敦賀統幕副長だ、御挨拶を。敦子ちゃんも」
 寝ている必要も無かったのか部屋に備え付けの椅子へと腰掛けて何やら話していた夫と副長、その夫に促されて
「初めまして、高根の家内で御座います。夫がいつもお世話になっております」
 再度頭を下げつつそう言えば、相手が立ち上がった気配が伝わって来る。続いて
「統幕副長の敦賀です。御夫君にはいつもお世話になっております」
 そんな言葉が頭上から降って来て、それに頭を上げ見上げてみれば、随分と背が高い事に気が付いた。
(真吾さんよりも大きい……あ、敦賀って……顔も似てるし、この方、きっと敦賀さんのお父さんなんだ)
 今迄に何度も顔を合わせている海兵隊最先任上級曹長、敦賀貴之。あの彼と同じ苗字にそっくりの顔立ち、そしてこの高身長。ここ迄揃っているのであれば親子か、近い親族である事は間違い無いだろう。統幕に名を連ねる人間は高根と極少数の沿岸警備隊士官以外は陸軍で占められていると聞いているから、この副長も陸軍の高級士官なのだろう。陸軍高官の子弟が何故海兵隊の下士官なのかと思わないでもないが、そんな事は自分が気にする事ではないなと思い直し、再度頭を下げる。
「そんなに畏まらないで……高根さんのお見舞いに来たんでしょう?」
「あ、はい、明日には退院出来そうだと聞きましたもので、着替えを――」
 副長の問い掛けに出た凛のその言葉に、副長と高根、二人の動きが突然に停止する。
「……着替え?」
「はい、退院後そのまま基地に入るにしても自宅に戻るにしても、制服は汚れているでしょうし下着も……あの?」
 凛の言葉に段々と俯く高根、その高根を気の毒そうに見詰める副長、二人のその様子の意味が凛には理解出来ず、助けを求めて背後の敦子へと振り返れば、俯いて肩を震わせる敦子と、不思議そうに母を見上げている甥と姪。
「……あの、真吾さん、これ、着替えです。戦闘服と私服、両方持って来ました。後、下着と靴下も。制服は洗いに出すので持って帰ります、何処に有りますか?」
 その言葉に更にがっくりと項垂れる高根、その様子に益々困惑する凛に向かって、高根は絞り出す様にして言葉を吐き出した。

「……看護師の詰所で聞いて下さい……一応水洗いはして保管してくれてるそうです……」

 その後、帰りの車中で敦子から高根の心境を聞かされた凛は高根の帰宅後自分の気遣いが足りなかった事を謝罪し、更に彼を落ち込ませる事となった。
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感想 4

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みんなの感想(4件)

皆本マヤ
2017.07.27 皆本マヤ

感想をお伝えするのは初めてですが、シリーズ全て拝読しております(こちらのシリーズを拝読するために登録いたしました)。第70章、高根さんと島津さんのやりとりに、思わずにやにやしてしまいました。本編では描かれなかった視点をこうして順を追って確認させていただけること、とても嬉しいです。この先も楽しみにしております。

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2017.06.28 ユーザー名の登録がありません

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2017.06.10 ユーザー名の登録がありません

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