大和―YAMATO― 第一部

良治堂 馬琴

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第70章『負け犬』

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第70章『負け犬』

 明かりは点けずにタカコの部屋に入り横になった筈なのに随分と明るい、まさかそのまま眠ってしまい朝になったか、色々と片付けないといけない事が溜まっているのに。寝起きの鈍い頭でそんな事を考えて跳ね起きた敦賀、その彼の目に映ったものは窓の外の暗闇、時計を見れば時刻は七時を指していて、夜は越さなかった様だがそれでも少し寝過ぎたな、明かりが点いている様だが誰か様子でも見に来たのかと考えつつ仕事に戻るかと扉の方へと向き直った。
「……いつの間に……」
 靴を履こうとした敦賀の前には床に座り寝台に頭を預けるタカコの姿、規則的な静かな呼吸に眠っているのだと窺えるが、こんなところで何を、いつ帰って来たのかと思い至る。ほんの一時間程仮眠をとるだけのつもりだったから暖房も入れていない、そんな中で床に座り布団も被らずではさぞかし寒いだろう。そう思って彼女の頬に触れてみれば冷え切っていて、自分はもう出るから布団に入れ、そう促す様に肩に触れて優しく揺すってみる。
「おい、起きろ、風邪ひくぞ馬鹿女、布団に入れ」
 そう声を掛けても肩が少し揺れるだけで覚醒には至らず、しょうがないなと溜息を吐いて寝台を降り、代わりにタカコを抱き上げて今迄自分がいたところへと寝かせてやった。
「……悪かったな、勝手に使って」
 もう少し寝顔を見ていたい、タカコの代わりに今度は敦賀が寝台の脇に腰を下ろし、すっかり冷えてしまった頬へと再度そっと触れてみる。
 昨日自分が仕事に掛かり切りになっている間に黒川がやって来て、彼がタカコを連れ出して行ったと知ったのは、二人が出て行ってから既に小一時間は経過した頃だったらしい、いつもの店だろうか、迎えに行くかと出ようとした敦賀を止めたのは高根。
「お前よぉ、迎えに行ってどうすんだよ?龍興はタカコに対して本気だぜ?自分がどうしたいのかもはっきりしねぇお前が邪魔すんのはどうよ?」
 彼のその言葉にどう返すか一瞬動きを止めれば
「それに、あいつ今日は帰す気無ぇって言ってたぜ、多分いつもの店にはいねぇよ、お前の邪魔が入るのを一番嫌うだろうからよ。奴も言ってたが男女の間の事なんて動いたもん勝ちだ、おめぇがはっきりしねぇから龍興が先に動いた、それだけの話だぜ?ま、奴に渡したくねぇってのなら今からでも動くこったな。但し今回は諦めろ、今日は奴の勝ちだよ」
 止めの様にそう言って高根は立ち去って行った。
 帰すつもりが無い、そう言ったのであれば高根の言う通りいつもの店には行かないだろう、馴染みの料亭か旅館か、一見が入り込む事は難しいような、そんなところを押さえてから連れ出している筈だ。
 後手に回った上に相手はあの黒川、これではどうにもなるまいと諦める他は無く、それでも未練たらしく帰って来る事を期待してこの寝台で一夜を過ごしたが、結局部屋の主が戻って来る事は無く、一睡もしないままに今日の仕事に出るしか無かった。
 斥候の潜入が確定となってからこちらその対策に掛かり切りで疲れは蓄積するばかり、機密にも関わるからとタカコと言葉を交わす事も減り、彼女の方もそれは分かっているのか距離をとってくれていた。それもそろそろ限界でタカコに触れたいという気持ちは大きくなるばかり、そんな矢先にあの男に掻っ攫われ、心境は最悪という表現すら生ぬるい。
 そんな心持ちで仕事をしても捗る筈も無く、睡眠をとっていないという追い打ちが仕事の進捗を更に遅らせた。
 遂には見かねた高根に仮眠をとって来いと追い出され、足が向かったのは自室ではなくその隣。前夜と同じ様に寝台へと横になれば睡眠不足と蓄積した疲れで流石に眠りへと落ちて行った。
 そして今、目が覚めて見れば部屋の主は漸く帰って来て夢の中、一晩を男と二人きりで共にしたというのなら、そこで何が有ったのかは今更考える迄も無いだろう。鼻先に漂って来るのは彼女の髪の香り、営舎の風呂場のものとは違う上等そうな石鹸の香りに胸が痛くなる。
 高根の言う通り黒川が先んじた、それだけの事だ、彼やタカコを責める資格は自分には無い。それでも今からでも間に合うだろうか、受け入れてもらえるのだろうか、そんな事を考えつつ彼女の頬へと口付けた敦賀、その彼の鼻腔に石鹸とは違う、嗅ぎ覚えの有る微かな香りが静かに入って来た。
「――――!」
 その正体に思い至った瞬間弾かれる様にして立ち上がり部屋を出て自室へと戻る。そのまま寝台へと身を投げ出し、拳を一つ叩き込んだ。
 香ったのは白檀香、あれは、普段黒川から漂っているものだ。彼がそう強い香りを纏っているわけではないが特徴が有るからよく覚えている、強い香りではないのにそれがタカコへと移る程の交わりが有った、それを突き付けられた衝撃とそれによって生じた激情、それをどう処理して良いかも分からず、再度寝台へと拳を叩き込む。
 情交の証として首筋に鬱血痕でも残されていた方がマシだった、香りだけで濃密な交わりが有ったのだと突き付けられる方がどれ程残酷か、惨めな気持ちになるか。然りげ無く、それでいてしっかりと主張して来るとは、如何にもあの男らしいと乾いた笑いすら漏れて来そうになる。
「……完敗だな、今回は」
 吐き捨てる様にそう言って天井を仰ぐ。惨めな負け犬、それは認めよう、しかしこのままでは終わらせない、そう思いながら。
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