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第230章『術野』
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第230章『術野』
真っ赤な液体で満たされた袋を二つ手にしたジュリアーニが手術室へと戻って来たのは出て行って十分程経った後、液体の鮮やかな赤に静脈血ではなく動脈血を抜いたか、なかなか無茶をする、大和田はそんな事を考えつつ手袋をして戻って来た彼に場所を明け渡した。
「指示を出して下さい、貴方達の上官だ、全てお任せします、全力で補助させてもらいますよ」
「有り難う、直ぐに開腹に入ります!」
その声と共に始まった迷いの無い捌き、拷問の際の手技に有能な外科医なのだろうとは思っていたが予想以上だ、自らの指揮官を失う危機に際していれば当然かと思いつつ、ともすれば突き放されそうな凄まじい速度に必死で合わせて処置を進めて行く。
(……妙だ……術野が何故こんなに狭いんだ……?)
そんな疑問を感じたのは、予想通りに損傷した肝臓の止血へと入った時、切断された血管を手早く探し出し吻合に入るジュリアーニの手元に覗く切り開かれた術野が酷く狭い事に気が付いた時だった。これだけの大手術なら些細な見落としが有っては深刻な事態になりかねない、その為にも肝臓を外に取り出せる程に大きく切り開く筈なのに、彼が切開したのは通常の半分以下。切開の大きさが小さければ小さい程身体への負担は軽くなる、患者の、タカコの術後の事を考えての判断だろうか、しかし如何に有能な外科医でも危険過ぎる、一言言うべきか。僅かの間にそれ等の事を考えた大和田、彼はその直後、と或る事に気が付いた。
(……無い……今迄殆ど目にする事が無かったから気が付かなかったが……そういう事なのか?)
一部分とは言え視界に曝された腹腔内、それがあまりにも見慣れた絵だったから気が付かなかった。海兵隊の医官という立場柄、医学部を卒業して以来見る事も無かったが、本来有るべき筈のものが、そこには無い事実に思い至り、それがジュリアーニがこれ程に術野を狭くしている理由なのかと思い至る。
周囲で助手を務める医療班の人間はまだ誰も気が付いていないらしい、もしいよいよ危険だとなれば彼自身が判断するだろう、それ迄は今の状況を尊重しよう、と、大和田は医療班が術野へと向ける視線を自分の身体でそっと遮った。
しかし大した判断力と胆力と腕を持っている、肝臓がこれだけ酷く損傷すれば吻合と縫合の後に肝臓全体を布で包み止血し、その後状態が安定してから再度回復して布を除去して閉腹するのが定石だ。しかしジュリアーニが止血に使ったのは、肝臓から垂れ下がる、血管が張り巡らされた脂肪の膜。これでガッチリと肝臓の損傷部を包み込み縫合すれば再手術の手間は掛からず、その上膜に張り巡らされた血管からの酸素と栄養分の供給が治癒を早めてくれる。自分達よりも余程厳しい状況を数多く経験しているのだろう、年齢は自分よりも一つ下だと言っていたがそんな熟練者に口を出すべきではない、自分には理解出来ない理由も有るのだろうから、その結論に行き着いた大和田、自らに与えられた役目へと意識を引き戻して行く彼の前で、ジュリアーニは益々処置の速度を上げて行った。
殆ど切断され掛かった肝臓の再建に掛かった時間は四時間、その間十袋もの血液が届けられ、それは点滴によって全てタカコの身体へと入れられた。途中脈が途切れそうになったり微弱になったりと何度か厳しい状態に陥りそうになったものの彼女は何とか持ち堪え、命への執着と運の強さも兵士として指揮官として必要不可欠の要素なのだと思わせた。
「そう言えば、血液型はどうやって適合を確かめたんです?シミズさんの血液を持って行った様子も無かったですけど、患者の血液が無くても適合を調べられる技術が有るんですか?」
手術室の隣に設置されている回復用の無菌室、そこの寝台へと寝かせられたタカコの顔を見下ろしそっと頬を撫でているジュリアーニに向かって、大和田は疑問に感じていた事を口に出して尋ねてみる。そんな技術が有るのであれば是非とも自分のものにしたい、そう思っての問い掛けに返された言葉は、驚愕の一語に尽きるもの。
「いや、ボスの血は少しでもボスの身体に留めておきたかったから、俺の血液を使って適合を確かめたんだ。俺、ボスと同じ血液型だから」
通常であれば如何に同じ血液型とは言っても間に第三者を挟む事はせず、本人の血液で直接適合を確かめる。特殊な不適合要素が無くて良かったと言って笑うジュリアーニの様子に、背筋が冷たいものを走りぬけた気がした。本来であれば決してそんな無謀な事はしないのだろう、それを敢えて決断したという事は、どれだけ状況が逼迫していたかという事の裏返しだ。
「いやいや……御見逸れしました、僕だったら決断出来なかったかも知れません」
「こんな事でボスを死なせちゃったら俺が他の連中に殺されるしね、一か八かでも賭けてみる価値は有ったよ」
そう言いながら再びタカコへと視線を戻すジュリアーニ、大した男だと溜息を吐く大和田に、幾分冷たくなった彼の言葉が向けられる。
「ところでドクター・オオワダ、この国には守秘義務、医者が患者の、仕事上で知りえた秘密を守るって概念は有るのかな?」
何を、とは言わない、それでもどの事を彼が指し示しているのかは分かる、何か話して来るかも知れないとは思っていたがやはり来たか、そう思いながら大和田はいつもの笑みを浮かべて言葉を返す。
「勿論です、気になる事は有りましたがシミズさんのこれから先の命に関わる事でもないですし、そもそも今回の手術とは全く無関係な部位についてです、僕が誰かに話す事は有り得ませんよ、清水さん自身にもね」
「……そっか、有り難うね。絶対に誰にも話したら駄目だよ?そんな事したら……俺がドクターを殺すからね?」
物騒な言葉には凡そ相応しくない軽い口調と笑顔、やはり危険を冒してでも隠しておきたい事なのだろう、それを尊重する以外に自分が採る道もその気も無い。、
「それじゃあ僕は司令に状況を伝えて来ます。皆手術が終わるのをずっと待っているでしょうし、まだまだ予断は許さない状況ですが、一応は無事に終わった事を早く伝えてあげないとね」
そう言って歩き出せば背後からジュリアーニが椅子へと腰を下ろした音と気配が伝わって来て、それに目を細めて小さく笑い部屋を出た。
真っ赤な液体で満たされた袋を二つ手にしたジュリアーニが手術室へと戻って来たのは出て行って十分程経った後、液体の鮮やかな赤に静脈血ではなく動脈血を抜いたか、なかなか無茶をする、大和田はそんな事を考えつつ手袋をして戻って来た彼に場所を明け渡した。
「指示を出して下さい、貴方達の上官だ、全てお任せします、全力で補助させてもらいますよ」
「有り難う、直ぐに開腹に入ります!」
その声と共に始まった迷いの無い捌き、拷問の際の手技に有能な外科医なのだろうとは思っていたが予想以上だ、自らの指揮官を失う危機に際していれば当然かと思いつつ、ともすれば突き放されそうな凄まじい速度に必死で合わせて処置を進めて行く。
(……妙だ……術野が何故こんなに狭いんだ……?)
そんな疑問を感じたのは、予想通りに損傷した肝臓の止血へと入った時、切断された血管を手早く探し出し吻合に入るジュリアーニの手元に覗く切り開かれた術野が酷く狭い事に気が付いた時だった。これだけの大手術なら些細な見落としが有っては深刻な事態になりかねない、その為にも肝臓を外に取り出せる程に大きく切り開く筈なのに、彼が切開したのは通常の半分以下。切開の大きさが小さければ小さい程身体への負担は軽くなる、患者の、タカコの術後の事を考えての判断だろうか、しかし如何に有能な外科医でも危険過ぎる、一言言うべきか。僅かの間にそれ等の事を考えた大和田、彼はその直後、と或る事に気が付いた。
(……無い……今迄殆ど目にする事が無かったから気が付かなかったが……そういう事なのか?)
一部分とは言え視界に曝された腹腔内、それがあまりにも見慣れた絵だったから気が付かなかった。海兵隊の医官という立場柄、医学部を卒業して以来見る事も無かったが、本来有るべき筈のものが、そこには無い事実に思い至り、それがジュリアーニがこれ程に術野を狭くしている理由なのかと思い至る。
周囲で助手を務める医療班の人間はまだ誰も気が付いていないらしい、もしいよいよ危険だとなれば彼自身が判断するだろう、それ迄は今の状況を尊重しよう、と、大和田は医療班が術野へと向ける視線を自分の身体でそっと遮った。
しかし大した判断力と胆力と腕を持っている、肝臓がこれだけ酷く損傷すれば吻合と縫合の後に肝臓全体を布で包み止血し、その後状態が安定してから再度回復して布を除去して閉腹するのが定石だ。しかしジュリアーニが止血に使ったのは、肝臓から垂れ下がる、血管が張り巡らされた脂肪の膜。これでガッチリと肝臓の損傷部を包み込み縫合すれば再手術の手間は掛からず、その上膜に張り巡らされた血管からの酸素と栄養分の供給が治癒を早めてくれる。自分達よりも余程厳しい状況を数多く経験しているのだろう、年齢は自分よりも一つ下だと言っていたがそんな熟練者に口を出すべきではない、自分には理解出来ない理由も有るのだろうから、その結論に行き着いた大和田、自らに与えられた役目へと意識を引き戻して行く彼の前で、ジュリアーニは益々処置の速度を上げて行った。
殆ど切断され掛かった肝臓の再建に掛かった時間は四時間、その間十袋もの血液が届けられ、それは点滴によって全てタカコの身体へと入れられた。途中脈が途切れそうになったり微弱になったりと何度か厳しい状態に陥りそうになったものの彼女は何とか持ち堪え、命への執着と運の強さも兵士として指揮官として必要不可欠の要素なのだと思わせた。
「そう言えば、血液型はどうやって適合を確かめたんです?シミズさんの血液を持って行った様子も無かったですけど、患者の血液が無くても適合を調べられる技術が有るんですか?」
手術室の隣に設置されている回復用の無菌室、そこの寝台へと寝かせられたタカコの顔を見下ろしそっと頬を撫でているジュリアーニに向かって、大和田は疑問に感じていた事を口に出して尋ねてみる。そんな技術が有るのであれば是非とも自分のものにしたい、そう思っての問い掛けに返された言葉は、驚愕の一語に尽きるもの。
「いや、ボスの血は少しでもボスの身体に留めておきたかったから、俺の血液を使って適合を確かめたんだ。俺、ボスと同じ血液型だから」
通常であれば如何に同じ血液型とは言っても間に第三者を挟む事はせず、本人の血液で直接適合を確かめる。特殊な不適合要素が無くて良かったと言って笑うジュリアーニの様子に、背筋が冷たいものを走りぬけた気がした。本来であれば決してそんな無謀な事はしないのだろう、それを敢えて決断したという事は、どれだけ状況が逼迫していたかという事の裏返しだ。
「いやいや……御見逸れしました、僕だったら決断出来なかったかも知れません」
「こんな事でボスを死なせちゃったら俺が他の連中に殺されるしね、一か八かでも賭けてみる価値は有ったよ」
そう言いながら再びタカコへと視線を戻すジュリアーニ、大した男だと溜息を吐く大和田に、幾分冷たくなった彼の言葉が向けられる。
「ところでドクター・オオワダ、この国には守秘義務、医者が患者の、仕事上で知りえた秘密を守るって概念は有るのかな?」
何を、とは言わない、それでもどの事を彼が指し示しているのかは分かる、何か話して来るかも知れないとは思っていたがやはり来たか、そう思いながら大和田はいつもの笑みを浮かべて言葉を返す。
「勿論です、気になる事は有りましたがシミズさんのこれから先の命に関わる事でもないですし、そもそも今回の手術とは全く無関係な部位についてです、僕が誰かに話す事は有り得ませんよ、清水さん自身にもね」
「……そっか、有り難うね。絶対に誰にも話したら駄目だよ?そんな事したら……俺がドクターを殺すからね?」
物騒な言葉には凡そ相応しくない軽い口調と笑顔、やはり危険を冒してでも隠しておきたい事なのだろう、それを尊重する以外に自分が採る道もその気も無い。、
「それじゃあ僕は司令に状況を伝えて来ます。皆手術が終わるのをずっと待っているでしょうし、まだまだ予断は許さない状況ですが、一応は無事に終わった事を早く伝えてあげないとね」
そう言って歩き出せば背後からジュリアーニが椅子へと腰を下ろした音と気配が伝わって来て、それに目を細めて小さく笑い部屋を出た。
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