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第352章『黒川龍興』
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第352章『黒川龍興』
「熊谷、敦賀海兵隊最先任上級曹長にお帰り頂いてくれ」
「なっ……どいつもこいつもどういう――」
「そういう事ですので、敦賀上級曹長、すみませんが」
「おい!アリサ!」
「……私は貴方に名前を呼び捨てされる様な関係ではないんですが。さ、早くお帰りを」
場所は太宰府駐屯地内の西部方面旅団総監部棟、その一角に在る総監執務室。そこの主である黒川を訪ねて扉を叩いたのは大和海兵隊最先任上級曹長の敦賀。太宰府駐屯地で行われた教導隊の会議の為に来ていた彼が、数日前から求めている答え、タカコが口にしていた言葉の意味を求め、色々と知識の多い黒川であればもしやと執務室を訪れ質問を口にした。
珍しい訪問者に驚き、直ぐにいつもの笑顔を浮かべ杖を手に立ち上がろうとした黒川だったが、その表情は敦賀の言葉を聞いた瞬間に豹変し、直ぐ脇にいたマクギャレットへと低い声で吐き捨てた。表向きは自身の忠実な秘書官であるマクギャレットは眉一つ動かさず、敦賀の身体を廊下へと押し出し扉を閉め、それから黒川へと向き直り口を開く。
「ワシントン語を勉強されてるんですか」
「え?」
「『Stand by me』の意味を御存知の様子ですので」
「ああ、その事か。うん、これから先どんな形でも接触する事になりそうだからね、相手の事は一つでも多く知っておいた方が良い。まぁ、旧時代の教本や辞書や他の書籍でだから、今のワシントン語とはだいぶ違うのかも知れないけどね」
「無駄ではないと思いますよ、旧時代の英語、イングリッシュと現代のワシントン語は殆ど変化が無いそうですから」
「そうなのかい?」
「はい、他の様々な情報を残す事を徹底した結果だそうです」
「そうなのか」
そう言えば大和語も旧時代の日本語から殆ど変化が無いと聞いた事が有る、時代や文明が連続していた平時とは違い情報を失わない事を徹底すれば自然とそうなるものなのだろうか、黒川はそんな事を考えつつ再び椅子へと腰を下ろし、先程敦賀が口にしていた言葉を思い出してみる。
Stand by me――、今迄学んだ事が間違っていないのであれば、恐らくは『そんな間柄』で交わす言葉としては一般的ではない。しかし、彼女と、そして新たな関係へと歩き出した敦賀、その二人が今後辿るであろう道筋を考えれば、在り来たりな言葉よりもずっと、タカコの願いを痛切な迄に表しているのだろう。
自分はもうあの夜に突き放され、彼女の心と身体と手を手放した、今更どうこう出来るとは思っていない。それでも、否、自分が守ってやれなくなった今だからこそ余計に彼女の幸せを願っているし、タカコの言葉、願いを、敦賀が叶えてやって欲しい、そう思う。
「しかしそれとこれとは話が別だ……何でよりによって俺のところに話を持って来るかね……何、何なのアレ、勝者が敗者のところにノコノコやって来て『スタンドバイミーって言葉の意味を知らないか』とか、それどんな嫌味だよ、勝利宣言だよ」
「引き摺ってますね、まだ」
「当り前だろうよ、君の上官にフられてからまだ二週間も経ってないのよ、俺」
「お気の毒です。御愁傷様ですでしたっけ、それともお悔やみ申し上げ――」
「最初ので合ってるからそれ、最後のとか俺に止め刺してるから」
タカコとの関係を終えた事について、翌朝出勤して来た時に自分を見たマクギャレットには直ぐに気付かれた。タカコの部下として選ばれた、その点のみに於いても有能な事は明らかで、その上恐らくは黒川の監視と迄は言わずとも観察し上官であるタカコへと報告する事は、マクギャレットに与えられた任務なのだろう。有能な人間が役目を与えられて観察しているのだ、対象の心理的な変化に気付かない道理は無い。
「ボスと何か有りましたね?」
率直で端的なその言葉を否定する事は出来ず、課業明けにはマクギャレットを誘い、初めて二人きりで食事へと出掛けた。ぽつりぽつりと経緯や心中を話し、彼女は否定するでも肯定するでもなく黙ったままそれを聞いていた。
火発内で与えられた傷が或る程度回復し、退院後に困ったのは日常の細かな作業。手の十指を全て折られその治癒は完全ではなく、食事は全て外食で済ませ箸ではなく匙を使う事で何とかしたものの、服の釦一つ自分では留められない有り様で、その事で困り果てていた彼が助けを求めたのはマクギャレットだった。表面的には単なる秘書官、実際のところは他国の軍人、そんな相手に助けを求める事に躊躇が無かったわけではない。それでも背に腹は代えられないと頭を下げれば、意外にも彼女は二つ返事で身辺の世話を引き受けてくれ、送迎とその前後の身支度を手伝ってくれるようになった。
それからこちら多少はこんな風に個人的な事も話す様になり、黒川にとってはまだまだ扱い辛い相手とは言え関係は幾分は改善したのだが、黒川のマクギャレットへの働きかけに激怒したのは、それを後から知らされたタカコだった。
未婚のお嬢さんに何をやらせているのかと、眦を決し口角泡飛ばす勢いで怒鳴りつけるタカコ、あれは自分が知っている個人としてのタカコではなく、マクギャレットを守るべき上官としての彼女だった。確かに上官を無視して直接マクギャレットへと話を持って行ったのは軽率だったと頭を下げ、そこで改めて協力を要請したものの、タカコが納得する迄に多少の時間を要した事は記憶にも未だ新しい。
それでも何とか納得してもらい、送迎と身支度の手伝いは今でも続いている。そうして二人きりで過ごす時間が増えればそれと比例して会話も増え、心理的距離は多少なりとも近付くもので、まだまだ扱い辛い相手ではあるものの、黒川にとっては思わぬ収穫になっていた。
「なぁ、今日も夕飯付き合ってくれないか?奢るからさ」
「またですか?」
「駄目かい?」
「いえ、駄目ではないんですが、いつも私にばかり声を掛けていらっしゃる様子なので、友達がいないのかなとは思いました」
「……泣いて良いかな」
余りにも手厳しい物言い、やはり扱いこなすにはまだまだ掛かりそうだ、黒川はおどけて言ってみせながらそんな風に考えつつ、職務の続きをこなそうかと机上の書類へと手を伸ばした。
「熊谷、敦賀海兵隊最先任上級曹長にお帰り頂いてくれ」
「なっ……どいつもこいつもどういう――」
「そういう事ですので、敦賀上級曹長、すみませんが」
「おい!アリサ!」
「……私は貴方に名前を呼び捨てされる様な関係ではないんですが。さ、早くお帰りを」
場所は太宰府駐屯地内の西部方面旅団総監部棟、その一角に在る総監執務室。そこの主である黒川を訪ねて扉を叩いたのは大和海兵隊最先任上級曹長の敦賀。太宰府駐屯地で行われた教導隊の会議の為に来ていた彼が、数日前から求めている答え、タカコが口にしていた言葉の意味を求め、色々と知識の多い黒川であればもしやと執務室を訪れ質問を口にした。
珍しい訪問者に驚き、直ぐにいつもの笑顔を浮かべ杖を手に立ち上がろうとした黒川だったが、その表情は敦賀の言葉を聞いた瞬間に豹変し、直ぐ脇にいたマクギャレットへと低い声で吐き捨てた。表向きは自身の忠実な秘書官であるマクギャレットは眉一つ動かさず、敦賀の身体を廊下へと押し出し扉を閉め、それから黒川へと向き直り口を開く。
「ワシントン語を勉強されてるんですか」
「え?」
「『Stand by me』の意味を御存知の様子ですので」
「ああ、その事か。うん、これから先どんな形でも接触する事になりそうだからね、相手の事は一つでも多く知っておいた方が良い。まぁ、旧時代の教本や辞書や他の書籍でだから、今のワシントン語とはだいぶ違うのかも知れないけどね」
「無駄ではないと思いますよ、旧時代の英語、イングリッシュと現代のワシントン語は殆ど変化が無いそうですから」
「そうなのかい?」
「はい、他の様々な情報を残す事を徹底した結果だそうです」
「そうなのか」
そう言えば大和語も旧時代の日本語から殆ど変化が無いと聞いた事が有る、時代や文明が連続していた平時とは違い情報を失わない事を徹底すれば自然とそうなるものなのだろうか、黒川はそんな事を考えつつ再び椅子へと腰を下ろし、先程敦賀が口にしていた言葉を思い出してみる。
Stand by me――、今迄学んだ事が間違っていないのであれば、恐らくは『そんな間柄』で交わす言葉としては一般的ではない。しかし、彼女と、そして新たな関係へと歩き出した敦賀、その二人が今後辿るであろう道筋を考えれば、在り来たりな言葉よりもずっと、タカコの願いを痛切な迄に表しているのだろう。
自分はもうあの夜に突き放され、彼女の心と身体と手を手放した、今更どうこう出来るとは思っていない。それでも、否、自分が守ってやれなくなった今だからこそ余計に彼女の幸せを願っているし、タカコの言葉、願いを、敦賀が叶えてやって欲しい、そう思う。
「しかしそれとこれとは話が別だ……何でよりによって俺のところに話を持って来るかね……何、何なのアレ、勝者が敗者のところにノコノコやって来て『スタンドバイミーって言葉の意味を知らないか』とか、それどんな嫌味だよ、勝利宣言だよ」
「引き摺ってますね、まだ」
「当り前だろうよ、君の上官にフられてからまだ二週間も経ってないのよ、俺」
「お気の毒です。御愁傷様ですでしたっけ、それともお悔やみ申し上げ――」
「最初ので合ってるからそれ、最後のとか俺に止め刺してるから」
タカコとの関係を終えた事について、翌朝出勤して来た時に自分を見たマクギャレットには直ぐに気付かれた。タカコの部下として選ばれた、その点のみに於いても有能な事は明らかで、その上恐らくは黒川の監視と迄は言わずとも観察し上官であるタカコへと報告する事は、マクギャレットに与えられた任務なのだろう。有能な人間が役目を与えられて観察しているのだ、対象の心理的な変化に気付かない道理は無い。
「ボスと何か有りましたね?」
率直で端的なその言葉を否定する事は出来ず、課業明けにはマクギャレットを誘い、初めて二人きりで食事へと出掛けた。ぽつりぽつりと経緯や心中を話し、彼女は否定するでも肯定するでもなく黙ったままそれを聞いていた。
火発内で与えられた傷が或る程度回復し、退院後に困ったのは日常の細かな作業。手の十指を全て折られその治癒は完全ではなく、食事は全て外食で済ませ箸ではなく匙を使う事で何とかしたものの、服の釦一つ自分では留められない有り様で、その事で困り果てていた彼が助けを求めたのはマクギャレットだった。表面的には単なる秘書官、実際のところは他国の軍人、そんな相手に助けを求める事に躊躇が無かったわけではない。それでも背に腹は代えられないと頭を下げれば、意外にも彼女は二つ返事で身辺の世話を引き受けてくれ、送迎とその前後の身支度を手伝ってくれるようになった。
それからこちら多少はこんな風に個人的な事も話す様になり、黒川にとってはまだまだ扱い辛い相手とは言え関係は幾分は改善したのだが、黒川のマクギャレットへの働きかけに激怒したのは、それを後から知らされたタカコだった。
未婚のお嬢さんに何をやらせているのかと、眦を決し口角泡飛ばす勢いで怒鳴りつけるタカコ、あれは自分が知っている個人としてのタカコではなく、マクギャレットを守るべき上官としての彼女だった。確かに上官を無視して直接マクギャレットへと話を持って行ったのは軽率だったと頭を下げ、そこで改めて協力を要請したものの、タカコが納得する迄に多少の時間を要した事は記憶にも未だ新しい。
それでも何とか納得してもらい、送迎と身支度の手伝いは今でも続いている。そうして二人きりで過ごす時間が増えればそれと比例して会話も増え、心理的距離は多少なりとも近付くもので、まだまだ扱い辛い相手ではあるものの、黒川にとっては思わぬ収穫になっていた。
「なぁ、今日も夕飯付き合ってくれないか?奢るからさ」
「またですか?」
「駄目かい?」
「いえ、駄目ではないんですが、いつも私にばかり声を掛けていらっしゃる様子なので、友達がいないのかなとは思いました」
「……泣いて良いかな」
余りにも手厳しい物言い、やはり扱いこなすにはまだまだ掛かりそうだ、黒川はおどけて言ってみせながらそんな風に考えつつ、職務の続きをこなそうかと机上の書類へと手を伸ばした。
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