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第二章:狂愛執事は優雅に主君を誘う
お嬢ハン、お待っとさん。
しおりを挟むメテオから出ている、国内運行バスがあった。
バスには様々なモノが乗っていた、子供から老人までまさに多種多様と言ったところか。しかし、乗客に一つだけ共通点があった。それは、全員大荷物で乗車していた。
メテオから追い出された者、挫折を味わい故郷に帰る者、メテオが嫌になり逃げだす者。理由こそ多種多様だったが、そう言う人達が乗り合わせるバスだった。だからと言って良いのか、このバスの運賃は安く、自動運転で運転手なる者は乗り合わせて居なかった。そんなバスの中ではしゃいでいる、五才位の女の子がいた。両親とみられる男女は疲れ切った顔をしながら、座席に座っていた。誰が見ても、この親子がメテオから追い出されてきた事は一目瞭然だった。
その時バスが大きく揺れ、はしゃいでいた女の子は目の前に立っていた、体格が良く、見るからに怖いそうな男二人に当ってしまった。すると、車内に一瞬緊張が走る。そして、男の一人が女の子の方を振り向くと、女の子は怖さのあまり動けなくなってしまった。
「オイッ!コンノ!ガキッ!さっきからウロチョロしやがって!目障りなんだよ!!」
と言う男は完全に逆上していた。それに気付いた母親と父親が、駆け寄って来て頭を下げる。
「すいません!この子は昔から落ち着きがなくて、後でよく言い聞かせますから」
「そーか、そーか。そんなら、今俺がそのガキを躾けてやるよ!」
と言って男が母親から女の子を引き離し、首根っこを持ち宙に浮かせた。その時、女の子の目から大粒の涙が零れおちて来た。それを見ていたもう一人の男は、両親に向けて刃物を突き付けていた。
「すいませんね、コイツ頭に血が上ると手がつけられないタイプでして、娘さんは悪い様にはしませんよ。
少なくとも俺達はね。な!」
「あぁ、金と引き替えになるからなガキは」
と言う男の目は女の子を人として見ていなかった。その時、首根っこを掴んでいた女の子が目の前から消えた。男は目を疑った。その時、背後から女の子と誰かの話し声が聞こえて来た。
「怖かったねー、でも、もう大丈夫だよ。バスの中で走るのは止めようね、転んじゃうから。
お兄さんとの約束守れる人―」
「はーい」
「偉い、偉い」
と言う会話の方に目をやると、先程まで大粒の涙を流していた女の子が、謎の赤毛の男性に抱っこされて、既に笑顔になっていた。すると、男は大声でこう言う。
「なっ、何だ!テメー!そのガキを渡せ!」
と言われていたのは、たまたま乗り合わせていたニキだった。そして、ニキは逆上している男にこう言った。
「だって、このお嬢ちゃん泣いてたし、僕、可愛い子の涙に弱いからさっ。ねっ、八椥君」
そう言うニキは、両親に刃物を向けていた男の後ろを見ていた。刃物を持った男が手に違和感を感じて手元を見ると、持っていた筈の刃物が無くなっていた。すると、真横から持っていた刃物が自分に突き付けられていた。刃物を持っていたのは八椥だった。
「ニキさんが可愛い子の涙に弱いかどうかは知りませんが、子供相手に良い大人がやり過ぎだ。その子には両親が注意をすると言っているだろう!」
と言う八椥は語尾の最後を強め、男二人を睨みつけた。すると、男二人は一瞬怯んだが直ぐに立ち直り、強気な口調でこう言った。
「オイッオイッ!兄ちゃん達、偽善者ぶるのはよせよ。兄ちゃん達も、メテオで職なくした口だろ。
言っちゃなんだが、俺達は元警備員だったんだぜッ!しかも、あのホーシック家のクリスマス会場の門番!」
「おっ、おい、止めておけ!」
と何か必死に止める八椥、そんな事お構いなしに男達は続けた。
「兄ちゃん達もチットは出来る様だが、元ホーシック家の会場の門番の俺等にタテ付いたのが運のつきだな」
「そんな俺達に立て付いて、タダで済むと思ってんの?」
とひけらかす男達の狙いはビックネームを言えば相手が退くと思っていた。事実、この男達はホーシック家の警備員だった。だが、あまりの不真面目さに辞めさせられたのも、また事実。それを聞いたニキと八椥は、少しヤバいと言う顔をして、女の子と両親を庇う様に一歩ずつ後退りする。それを見た男達は声高らかに笑おうとした瞬間、後から背中に激痛が走り前に倒れた。男達が倒れた後、誰かと誰かの声が一緒に聞こえて来た。
「「五月蠅い!お前達がホーシック家の名を語るな、虫唾が走る。」」
と言うドスの利いた声で言ったのは、座席に座りながら片足ずつを伸ばしていたランドネルトとニコルだった。すると、八椥があぁっと言いたそうな表情をして、のびている男達の方を見てこう言った。
「だから、止めておけって言ったのにな。あの二人、バカだ」
「よりによって、この二人の目の前で犯罪紛いの事をしただけじゃなくて、ホーシック家の名前を出すとはね。
これじゃ、僕達が折角出て来た意味なかったね、八椥君」
そう、ニキと八椥はランドネルトとニコルの代わりに、あの場を収集しようと、出て来たのだったが、男達がホーシック家の名前を言った時、制裁が下されるのは目に見えていた。一人は石頭で曲がった事は嫌いな熱血系の執事、もう一人は、クリスマス会場で大切なお嬢様を攫われた執事。どうやら、運が尽いていたのは男達の方だったらしい。
「ありゃ、目が覚める頃には一周して、またメテオに着いてんじゃない?ね、八椥君」
「はい、あの二人の蹴りをまともに食らったら、二、三日は目覚めないと思う」
八椥とニキが男達に哀れみの視線を送っていると、ランドネルトが座席から立ち女の子の視線まで腰を落とし、片手で女の子の頭を優しく撫でた。ランドネルトの大きい手は女の子の頭をすっぽり、包み込むほどに大きかった。撫でられていた女の子も次第に表情が柔らかくなる。
「怖い思いをさせてしまったな。だが、公共の乗り物では静かにするのが常識だ。さっきの様な連中も多いしな」
と言うランドネルトは相変わらずの無表情。子供相手だと言うのに普段と変わらず堅い、ランドネルトは少々、否、かなり真面目でプライベートでも仕事でも笑う事は珍しい。そんなランドネルトが子供に話しかけるなんて、貴重だ。そして、ランドネルトに頭を撫でられている女の子はこう言った。
「大きな手だね~、おじさん」
それを聞いたランドネルトは、手を止め眉毛をビクビクと動かしていた。すると周りに居た、ニキと八椥が笑いを堪えていたのが見受けられた。それにも腹が立っていたランドネルトであったが、何も言わず座席に座っているニコルに一番腹が立っていた。何故なら、こう言う時一番にからかいに来るニコルが黙っていたからだ。ランドネルトは立ち上がり、座っているニコルに向かってこう言った。
「おいっ、狐、何を黙っている!」
「いやー、子供は正直だなっと思っていただけですよ」
とニヤリと笑みを浮かべたニコルに対し、ランドネルトは眉間にしわを寄せながらこう怒鳴った。
「お前は、大人なのだから言葉を慎め!」
「そんな事言われても、慎んだら慎んだで怒るでしょう?」
「そうだ、お前に遠慮されると腹が立つ!」
「どっちでも、僕怒られるんじゃないですか」
その言い合いを見ていた夫婦は、冷や汗を額にうっすらと浮かばせながら、呆れて見ていた八椥とニキにこう尋ねた。
「あのー、止めなくて良いんですか?」
「あ、良いんです、良いんです。いつもの事ですから、それに止めなくても、気が収まれば止まりますから」
と言う会話をしていると、次のバス停に止まり、親子はバスから降りて行った。そして女の子は四人に向かって、バスが発進した後も手を大きく振っていた。それに応える様に、ニキと八椥は最後尾まで行って手を振っていた。そんな時、やっと落ち着いたランドネルトは座席に座り、一息吐いていた。ニコルは溜息を吐き、流れて行く窓の外の景色を見上げた。
「大丈夫だ、ノークス様なら。あの方が誰より強いのは、お前が知っているだろう?」
顔を背けながらニコルに話しかけて来たランドネルト。今のニコルが、ランドネルトには落ち込んで見えたのか、それとも、ニコルの気持ちを察してなのかは分からないが、その言葉はニコルにとっては別の意味にとれた。
確かに、ノークスは強い。それは誰もが認めている。だが、本当のノークスはガラスの様に脆い、それを知っているニコルだからこそ、ファントムのフードの中が気になっていた。ノークスは敵意を示す者には強いが、逆を言うと、味方だと思っている者には弱い。
と不安を抱いたニコル。その時、ニキの携帯の着信が鳴った。ニキはニッと笑いながらポケットから携帯を取り出し、スムーズに耳に当た。
「はいはーい。電話って事は何か状況が変化したかな?」
と言うニキに視線を向ける3人、その中でも、ランドネルトの視線は鋭く冷たいモノだった。何故なら、ニキを信用していないからだ。ノークスが攫われた後に、ノークスの執事だと言って現れ、ずっと裏で動いていたなんて虫の良い話を持ち出したからだ。
だが、実際、現在”貴族狩“のアジトに道案内してくれているのも、ニキなのは間違いない。ランドネルトが信用していない最大の理由が、数ヶ月もニコルと八椥に気付かれずに、ノークスと手を組んでいたなんて考えにくい。と言う理由で、ランドネルトはニキを信用してはいない。
「うーん、それはちょーっと、予想外だな~。うん、分かった。こっちもそろそろ、そっちに着くよ」
と言うとニキは通話を切り、携帯を再びポケットに戻した。すると、ニキは三人の視線に気付き、ヘッ?と言うキョトンとした顔で三人を見る。
「何?僕の電話が気になるの?」
「当然だ。後からひょっこり出て来て信用されているとでも思っているのか?」
無表情で言うランドネルトに対し、ニキはそりゃそうだと言う顔をして、舌を出した。すると、バスは丁度、次のバス停に止まった。ニキは立ち上がりながらこう言った。
「まぁ、話しは降りてからにしましょう。ココから少し歩きますので、その道中にでもゆっくりと」
そう言うとニキを先頭にバスを降りる。それとは逆にバスに乗車する者が、複数いた。その者達を乗せるとバスは、今まで来た道を戻って行った。どうやら、ここが終点だったらしい。
バス停の看板には、『スタプ』と書かれてあった。それを見上げた八椥は、『スタプ』と言う街がバス停のすぐ前にあった。街に入らなくとも、一目見ればあまり良い街ではない事位分かる。人もあまりいなく、店を出していても商品を盗まれ、商売にもならない店が何件もある。生きるのにも必死な者が生きている街、ハッキリ言えば治安が悪い。
それを見ていた八椥は、顔を歪めた。日本町とメテオ以外を目にするのは初めてだった八椥にとっては、目の前に広がる光景とメテオはあまりにも違い過ぎていた。
「あれ~、もしかしてこう言う所見るの初めて、八椥君?」
と八椥の肩に腕を回して来るニキ。その言葉にハッとする八椥。
「ここはね、終わりの街と言われているんだよ。だから、人攫いはこの街を良く利用する」
と聞くと八椥は脳内にノークスの顔が浮かんだ。そんな八椥を見て、ニキはこう続けた。
「でも、ノークスお嬢様がいるのはこの街じゃないんだ。この街は今、ボク達が乗って来たバスで簡単に来れる。
そんな所にアジトを作ると思うかい?」
アジトは他の場所にあると言いたそうな口ぶりのニキに、八椥は横目で凝視する。その時、ランドネルトは腰からボーガンを抜き、スムーズな手付きでニキに照準を合わせた。それを見たニキはニコッと道化師が笑う様な笑みを浮かべ、八椥に腕を回しながら、ボーガンを向けてられる人とは思えない程、普段と変わらない口調でこう言った。
「何の真似ですか?ランドネルトさん」
「何故、”貴族狩“のアジトを知っているんだ。バスの中でも言ったが、俺はお前を信用していない」
と言うランドネルトの表情と口調は、完全にニキを疑っていた。それを表情一つ変えずに見守っていたのは、バスを降りてから一言も言葉を発していないニコル。状況は変化する事はなかった。するとニキは、こう言った。
「つまり、僕が”貴族狩“の一員で、ノークスお嬢様が攫われた事に乗じてホーシック家に潜り込み、貴方達3人をそそのかし、アジトに誘い込むように言われたスパイだと言いたいんですか?」
「あぁ、少なくとも俺はそう思っている。お前の登場と役目は、どれをとっても都合が良過ぎる」
と言うランドネルトの、ボーガンを引く人差し指には段々と力が入っていた。
「ノークスお嬢様が言った通りの堅物ですね、このままでは、僕の命が危なそうなので言っておきます。
僕は正真正銘ノークスお嬢様の執事ですよ。
それに、ランドネルトさんが言った事は、二週間前にもニコルからも聞かれました」
と言われたランドネルトは、今も沈黙を決め込んでいるニコルに片目を向けた。すると、ニコルは表情を変えずにこう言った。
「まぁ、確認を取った所ニキは確かにノークスお嬢様と契約を数か月前からしています。
”契約執事“ですから、その真意はどうか分かりません。
ノークスお嬢様を騙し、信用させるためにこれまで従順だったのかも知れません。
ですが、人それぞれと言いますし、一生”契約執事“のままと言う人も多いです。
ニキを疑うには判断材料が少なすぎます」
「で、結局、お前の中ではどうなったんだ、狐」
「何故知っているかは疑問ですが、今のこの状況で”貴族狩“のアジトを知っているのは、ニキだけです。
例え、スパイだったとしても現在の最優先事項は、ノークスお嬢様を奪還する事ですから、
ニキが味方か敵かは関係ありません」
と淡々とした口調で語り終えるニコルに、ランドネルトは目を丸めた。救出する為ならどんな手もいとわないと言っている様に聞こえたからだ。普通ならばこのような時こそ慎重になるものだが、今のニコルからはそれが感じられなかった。ランドネルトはそんな人間も初めてみたのだった。いつもは目立たなかった、ニコルのノークスへの執着心が今は恐ろしい程に感じる。
「ここで、内輪もめをするのは止めましょう、ただのロスタイムにしかなりません」
と言うとニコルは溜息を吐いて、ニキに道案内する様に指示を出した。それを見たニキは、少し呆れた顔つきでこう言いながら歩き出した。
「ニコルがこんなに仕事熱心だったなんて知らなかったよ」
と言うと後ろを歩いているニコルから、こんな言葉が飛んで来た。
「本当、自分でも驚いてる。
執事なんてただの仕事に過ぎなかったのに、この私をこんなにしたお嬢様には、どうしてもらいますかね」
と最後の方は声のボリュームを下げ、独り言の様に言った。流石のニキも最後の方は聞き取れなかった様だが、ニコルの方を見るとノークスの存在が偉大だと言う事を思い知らされる。ニコルの顔は怪しげな笑みを浮かべ、手袋をはめ直していた。その仕草が怪しげな笑みをより怪しく、そして、恐怖をも感じさせる。
それを感じ取っていたのは、ニキだけではないのは言うまでもない。
そして、三キロ程歩いていると、目の前に続いていた地面がある所で無くなっていた。言うまでもなく、そこは崖だった。そして、看板が寂しく荒野にポツンと建っていた、看板には黄色と赤で『危険区域』と乱雑に書いてあった。
「なんだ、ここは」
「『危険区域』って、どう言う事ですか?」
とランドネルト、八椥の順にニキに尋ねた。すると、ニキは両手を翻しオーバーリアクションを取り、溜息を吐いて説明し始める。
「”終わりの街“それがさっき見た、『スタプ』。
現在はそう表記されているんだけど、何十年か前までは違ったんだよ。
この崖の下にあるのが”終わりの街“だったんだ、今は住む者が居なくなり、
危険な道のりだからという理由で地図から外され、近付く者もいない。
ここが奴等にとって一番安全で効率が良い隠れ場と言う事」
「地図から抹消された街、という訳だな」
ランドネルトがしみじみとした口調で、真下に広がる廃墟の街を哀れみながら見下ろしていた。八椥は六椥との決着に執着は無いと言っていたが、いざ六椥が居る所にこれから乗り込むと思えば、自然と腰に下がっている刀の柄に手が伸びてしまう。そして、ニキはニコルの方へ歩み寄り、ただ真下に広がる街を見下ろしていた。
「ここからは、敵のテリトリーだよ。慎重に行くのがベストだね。まずは、仲間の所に行こう」
「やはり、我々より先にこの場所に来て、ノークスお嬢様の安否を確認している者が居ましたか。
先程の電話はその人との定期連絡、ニキ、あなたはノークスお嬢様が用意しておいた秘密裏執事と言っていましたね。でも、貴方の他にも居るんじゃないですか?秘密裏に行動していて、貴方にここの場所を教えた人」
「アハハハ、バレちゃった。そうだよ、いるよ。まぁ、着いておいでよ、結構やる人材だよ」
と言いながらニキは歩き出し、崖を降りる石階段を下って行った。それを見たニコル達はニキの後から慎重に一歩ずつ確実に、階段を下りて行った。大人一人が乗るとピシッと小さい亀裂が入りそうなむ階段はかなり古そうだった。それを静かに下りて行く四人。下に着いたのは1時間後の事だった。階段を降りてすぐの所に古ぼけた看板が地面に落ちていた。看板の上には土が溜まっていたが、薄っすらと下に書かれていた文字が見えた、『ハティ』と記載されていた。
そしてニキは迷いなく、街に足を踏み入れた。それに続く三人。
少し歩くと、街の中心部に当る広場が見えて来た。広場に近づいて行くと、さっきまで緊張の色など見せなかったニキが、歩幅を狭め足音を消して進んでいる。その事から、”貴族狩“のアジトは直ぐ側にある事が推察される。そして、ニキは周りを確認しながら、ある建物に素早く入った。それに続くニコル達、建物に入るとそこには一安心の表情をしていたニキが居た。
「ここが、拠点だよ。上に行こう、待ってるから」
そして、ニキに案内され二階に続いている階段を上ると、廃墟の一室の窓から広場を挟み、真正面に建っていた役所をジーッと見ている人物がいた。周辺にはその人物が食べたパンの袋と水分が入っていた空のペットボトルが、山積みにされて放置してあった。その後ろ姿を目にしたランドネルトと八椥は、驚きの色を隠せなかった。そんな事は二の次にしか思っていないニコルは、窓の方へ行き、役所をジロリと睨み、拳をギュッと強く握った。
***
その頃、役所の二階の一室では、ノークスがカップを片手に窓の外を見ていた。そして、何を思ったのかノークスはカップを持ちながら立ち上がり、窓の方に歩み寄って行った。後二歩で窓に手が届くと言う所で、後から誰かに抱きとめられてしまった。その腕は大きく優しく、まるで割れモノを包み込むようにノークスの肩を抱きしめる。
ノークスはいきなりの事で一瞬驚くが、直ぐその人物が誰なのかが分かった。その人物の腕、耳元で聞こえる呼吸の仕方、何よりノークスを優しく包み込む雰囲気。全てがノークスには心地よく感じられ、安心したように眼を閉じこう言う。
「紅茶が零れると思ったわ、イサミル」
抱き留めていた人物とは、他でもないイサミルだった。そしてイサミルは、ノークスの耳元で普段より優しく甘い声色で、愛しい者に言う口調でこう言う。
「それはすいません。
ですが、ノークスお嬢様、カップを持って立ち上がるなど、マナーが宜しくありませんし、
零れて掛かったら危険です」
「それは、ごめんなさい。少し、外が気になって」
「外?ですか?何も御座いませんよ、貴女を縛るルールも、気使いする相手も、傷付ける者も全ておりません」
と優しくゆっくりとその言葉をノークスの耳元で囁くイサミル。するとノークスは頬を真っ赤にして、猫の様に体を縮めた。どうやら相当恥ずかしかった様だ、縮めた小さい体が愛しく、イサミルはノークスからフワりと腕を離した。その時だった、ノークスがエッと言う表情をし、勢い良くイサミルの方を向いた時、手に持っていた紅茶がピシャリと手に撥ねてしまった。
「アツッ」
とノークスは片目を閉じて言うと、持っていたカップがふわりと浮いた。もちろん、カップを取り上げたのはイサミルだった。テーブルにカップを静かに置き、心配そうに紅茶が撥ねた手を見つめこう言う。
「大丈夫ですか?直ぐに拭きましょう、お座りになってください」
と言われたノークスは先程まで座っていた椅子に座る。すると、イサミルは自分のハンカチを濡らして、ノークスの前に跪きハンカチを持っていない方の手で、ノークスの手を優しく気品良くとり、少し赤くなっている所をハンカチで抑えた。するとノークスは少し痛そうな顔をしたが、何も言わなかった。それを前髪の隙間から見ていたイサミルは、ノークスの顔を見上げこう言った。
「私の言う事をお聞きにならないから、こう言う事になるんですよ」
と少し怒る様に言うと、ノークスはイサミルから目を反らし額に汗を掻きながら、か細い声でこう言った。
「ごめんなさい…」
「聞こえません!もっとハッキリと言って下さい」
と言うイサミルはいつもの優しいイサミルではなく、ノークスの執事兼教育係の口調になっていた。それを知り、観念する様にハッキリとこう言う。
「ごめんなさいっ」
「はい、結構です。ですが、今回はこれで終わりになんかして上げません」
という言葉を聞いたノークスは、驚きながらイサミルの方を向いた。すると、イサミルは優しくニヤリと笑うと甘い声でこう言った。
「以前から、あれ程注意していたのに、やってしまわれました。
昔、今度やったらお仕置きですと言いましたからね。お仕置きします」
「えっ、そんな事、覚えてなかった」
と必死に誤魔化そうとするノークス。それを見たイサミルは、サッと立ち上がり、ノークスの顔に近づいた。
「ウソはいけませんよ、ノークスお嬢様。嘘を吐いたのでお仕置き追加です」
「えー!」
「フフフッ、困った顔も相変わらず可愛いですよ。可愛いからと言って、許す程、私は甘くありませんけど。
さぁ、始めますよ」
と言うとイサミルはノークスの後ろに回り、していた手袋を外しその手でノークスの髪をまとめ、片耳を出しその綺麗な指で耳を触り始める。するとノークスはくすぐったいのか両肩を上げてしまう。それを見たイサミルは触ってない耳に口を近づけ囁く。
「相変わらず、耳を触られるのは苦手ですね。可愛いお仕置きが出来て、私も楽しいです」
と嬉しそうに言うイサミルを横目で、顔を赤らめながら見るノークスの瞳は潤んでいた。それを見たイサミルは、少し固まってしまうが、直ぐに我に返り頬を少し赤く染め、目をトロンとさせこう言った。
「私をそんな目で見るのはズルいです。もっと、貴女のそんな顔を見たくなります」
「イサミル…」
「シッ、お仕置きはまだ終わっておりません」
と言うとイサミルは、耳を触るのを辞め。触っていた耳の方に口を更に近づけ、耳朶をカプッと銜えた。それをやられたノークスは顔を真っ赤にして目を閉じて、終わるのを待っていた。その表情をみたイサミルは銜えながらこう言った。
「可愛い反応ですね、このままお耳から食べてしまいたい程です」
そう言うイサミルの声は妙に熱っぽかった。そして、ノークスはだんだん頭がボーとして来た。すると、イサミルは銜えていた耳を離し、ノークスの唇に口を近づけた瞬間。
窓がガシャッと外から割れ、誰かが一人、勢い良く飛び込んできた。その人物は上手く着地し、立ち上がりながらイサミルの方を見た。それを見たイサミルはノークスの顔から離れ、手袋をはめピシッと立ち上がり、その人物の方を向いた。
「知っていますか、ニコル君。人の恋路を邪魔する人は馬に蹴られるそうですよ?」
「知っていますよ。ですから、蹴りに来たんです。残念ながら馬ではありませんが」
と言う二人の会話は笑顔で行われていたが、両者とも目が笑っていなかった。そのやり取りの間、ノークスの視線はニコルに釘付けになった。その時、ノークスの脳裏に二週間ずっと、頭の隅に居て顔が思い出せなかった男性が目の前に居るニコルと微かに重なった。ノークスが目を丸くしていると、肩に優しくイサミルが手を置き、心配そうな顔で覗き込んで来た。
「大丈夫ですか?ノークスお嬢様?いきなりの事で、さぞや驚かれてしまいましたね、ここは危険区域な物で族が多いのですよ」
「族?」
という疑問を投げかけたノークスに、普段と変わらない笑顔でコクンッと相槌を打つイサミル。そのやり取りを目の前で見ていたニコルは、深く息を吸い一瞬でノークスの前に行き、跪きノークスの両手をすくい上げ両手を組み、まるでノークスを女神のように崇めながら、やや早口で一度も噛む事なくこう言った。
「族とは失礼やなぁ。僕はぁ、身長百八十四cm体重五十二k、趣味は特定の事を極める事、性格は大人しゅうて優しい物静ぁな、年齢二十四やぁ、好きなものは好きな人、嫌いなモノは人のモンとるヤツやぁ。得意な事は紅茶淹れッ」
と言うとイサミルはキョトンとした顔でニコルを見ていた。何故なら、先程、入って来た時に纏っていた殺気を全然出していなかった。それにも驚いたのだが一番驚いたのは、ノークスの異変に気付いているだろうに、落胆する態度を少しも見せずに、自己紹介を始めた事だ。そして、ニコルはニヤリと妖艶な笑みを浮かべ、背後に紫の薔薇を咲かせこう付け足した。
「名前はニコル・ファンジスタ、ノークスの旦那やぁ!」
ノークスとイサミルはその場でハッ?と言いたそうな顔で固まった。そして、ニコルの目の前にスッと細い剣の刃が現れた。それを見たニコルは微動だにしなかった。ノークスを見ながら微笑みを絶やさずにこう言った。
「お嬢ハンの前に武器出すなんてぇ、執事としてどうなんってぇ思うけどなぁ」
「緊急時はいた仕方ありませんよ、ニコル君。君こそ、ノークスお嬢様から離れてもらおう?」
と剣をニコルの首に当てるイサミル。すると、ニコルは突拍子もない事を言いだした。
「それはぁそうと、アンタがファントムかぁ?」
ニコルはこの部屋に飛び込んで来てから、抱いていた疑問をぶつけた。ニコルが知る、ファントム像は黒マントに目元まで隠れるフードを被っている男だった。ノークスといたイサミルが、ファントムと同一人物かどうかを判断するには材料が足らな過ぎた。すると、イサミルは納得した様な表情を浮かべ、自信溢れる口調でこう言った。
「僕の名前はイサミル・レンシーク、ノークスお嬢様の執事っ…」
とイサミルが言い終わる前に、顔面に痛みが走り、その痛みと供にイサミルの視界は、部屋の中から廊下へと一瞬で移動した。どうやら、ニコルの拳を右頬に見事に入れられたらしい。流石のイサミルも、先程の拳には反応できず、受け身を取るのが精一杯だった。その光景を見ていたノークスは一瞬固まり、椅子から立ち上がって目の前に居たニコルに向かって、平手打ちをしてこう言いながら睨んだ。
「私の執事に何するのよ!貴方!」
叩かれた方の頬がジンジンと赤くなっていくのが分かるニコル。そして、斜め下を向きながら悲しそうな表情をしてこう呟いた。
「…思うとったよりぃ、堪えるわぁ」
「何か言いたいの?なら、ハッキリ言いなさい!ファンジスタ!」
と勢い良く言われたニコルは、片目を細く開き赤い瞳でノークスを見つめた。すると、ノークスはその瞳に見覚えがある様な感じがした。ニコルは目を閉じ、顔を上げノークスの方を見て、先程までの飄々とした表情をしてこう言った。
「執事思いやねぇ?ホントッ。やけどぉ、その思いを向ける相手をぉ、間違うたらぁアカンよぉ」
「ハァ?なにそれっ、意味分かんないんだけど?」
強気にニコルに食ってかかって来たノークス。それを見ているニコルは、一瞬口元が歪みそうになるのを、ノークスに気付かれないように我慢する。
「あぁ、どないしよっ。僕の心ズタボロにする人ぉ、初めてやぁ」
と独り言の様に呟き、ノークスの頭に手を置きノークスの耳に口を近づけ、一トーン低い声で色っぽくこう囁いた。
「勝手に出て行ったお仕置きとぉ、心配させたお仕置きやでぇ」
その言葉とシチュエーションに覚えがあるノークスは、一瞬目を見開き固まってしまった。
それを見たニコルは、ノークスから顔を離し口角を上げて、部屋から出て行った。ノークスはそれをただ見つめる事しか出来なかった。覚えがある言葉やシチュエーションをやる、あの男は誰なのか?そして、ノークスはある疑問に辿り着いた。
「…あの眼、何であんなに悲しい色をしてたんだろう?」
ノークスは胸に手を当てながら、ある事を思い出そうとしていた。それはあの瞳を見た時から抱いていた、安心感の理由だった。
***
そして、廊下に出たニコルは先に廊下に殴り飛ばしていたイサミルと対峙していた。ニコルはノークスがいる部屋に背中越しで鍵を掛けた。それを見ていたイサミルはこう言った。
「君、私が名乗り終える前に殴ったのは何故かな?君が探しているのは、ファントムの筈。僕に敵意を向けるのはおかしくないかい?」
「可笑しい?可笑しくはありませんよ、イサミルさん」
と言いながら腰から赤い銃を一丁抜くニコル、その表情は何時も見せている笑顔でない事は、誰が見ても分かった。かと言って、怒っている表情でもない。いつもは閉じている目を細く開け、真顔でイサミルを睨んでいた。
「アンタがファントムであろうが、なかろうが別にどっちでも良い」
「八つ当たりって言う事かい?」
「違う」
「じゃあ、なんなんだい?」
「アンタが、イサミル・レンシークなのが頭にきた」
普段より低い声で喋り、無表情のニコルに威圧感を感じたイサミルは、剣を構えなおしこう言った。
「どう言う意味かな?」
「アンタがどういう経緯で、お嬢ハンの元を離れたのかは知っている。それは執事の鏡だと思う。
だが、その人が何でお嬢ハンを狙う立場になる!
お嬢ハンは、アンタの事を心配して泣いて、一人の時間を沢山過ごして、戦ってきた。
弱い自分を押し殺してまでも、強くあろうとした。それが何でだか分かるか?」
と問われたイサミルは、自信に満ちた表情でこう言う。
「それは、私以外を雇う気がなかったんじゃないんですか?」
と応えるといきなり、ニコルが銃の引き金を引いた。銃から放たれた赤外線はイサミルの右頬をかすった。そして、頬をかすられたと言うのに、全くと言っても良いほど動揺しないイサミル。
「何ですか、私、何か間違いましたか?」
「いいや、さっきの答えは正解だ。だが、分かっていながら何で、こんな事をする。少なくても執事室に残されていた文面からは、お嬢ハンを心配するアンタの想いと、お嬢ハンを敬うアンタの想いしか読みとれなかった」
と冷徹な口調で言うニコルに対し、イサミルは少し人を小馬鹿にした笑いを浮かべ、鼻を鳴らす。
「あぁ、あの文を書いた時は新しい執事がノークスお嬢様を理解してくれる様に、私の最後の仕事だと思い書いた。だが、ノークスお嬢様とはなれる度、強く思った事があった―」
と言葉の途中で一旦切ったイサミルは、ニコルとの間合いを一瞬で詰め、剣を振り下ろした。すると、ニコルはギリギリの所で剣を銃で受け止めた。二人はその体制で止まった。顔と顔が近い二人、イサミルは先程の言葉の続きを口にした。
「新しい執事に、ノークスお嬢様を奪われたくない。何故、私はノークスお嬢様の傍に居られないのかと!」
凄い気迫で怒鳴り散らすイサミルは、剣にも力が入りニコルの銃をギィギッと押す。ニコルも負けじと押し返す。そんな中、再びイサミルが真面目な顔でこう言う。
「執事として側にいられなくては、意味がない。元々この世界はどこかおかしいと思っていた。貴族と一般人の差別、貴族も失敗すれば後ろ指を指される世の中。だが、そんな事どうでも良い、ノークスお嬢様には貴族世界では世界が狭いのだ。私が広げて差し上げる!私は好きな人の為なら努力は惜しまない!」
と言うイサミルの勝手な言い分を聞いたニコルは、銃を握っていた手に力が入り、受け止めていた剣を弾き飛ばすと、イサミルも数歩、後ろに下がった。そして、イサミルに照準を合わせ、カッコよく役所中に響き渡る声量でこう言い切る。
「側に居られなくなっただけで、こんな事すんなやぁ!
世界云々言う前にィッ、お嬢ハンを悲しませンなやッ!
僕はお嬢ハンに貴族の世界が狭い思った事はあらへんッ、何故ならァ、お嬢ハン自身が飽きてないからやァッ!
それを勝手に決めんなァッ、ボケェ!
僕はお嬢ハンを深く知って行きながら広げるゥッ。
アンタが努力を惜しまん言うんなら、僕はただ、好いた相手の為に穿つだけやッ!」
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