婚約破棄で追放された悪役令嬢ですが、前世知識で辺境生活を満喫中。無口な騎士様に溺愛されているので、今さら国に泣きつかれても知りません

カインズ

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第9話『無我夢中と、忘れていた時間』

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春が、その爛漫の笑みを辺境の地に振りまいていた。
長く続いたモノクロームの世界は、一夜にして極彩色の絵の具をぶちまけたかのように、鮮やかな生命の色で塗り替えられた。山々の木々は、萌えるような若緑色の葉を芽吹かせ、風が吹くたびに、きらきらと光の波を立てる。足元には、名も知らぬ紫や黄色の花が健気に咲き誇り、その甘い香りが、澄んだ空気の中に溶け込んでいた。

そして、その春の活気は、イザベラたちが拠点とする村の集会所にも満ち溢れていた。
かつては冬の寒さをしのぐためだけに存在した薄暗い小屋は、今や、一つの巨大な生命体のように、熱気と喧騒と、そして希望に満ちた香りで脈打っていた。
「熊イチゴジャム工房」——いつの間にか、誰が言うでもなくそう呼ばれるようになったその場所は、イザベラの想像を遥かに超える、活気ある生産拠点へと変貌を遂げていたのだ。

朝の光が差し込むと同時に、工房の一日は始まる。
工房の中には、村から持ち寄られた大きな銅鍋が三つ、常設の囲炉裏と、新たに作ったレンガの竈(かまど)の上で、休むことなく湯気を上げていた。壁際には、丁寧に磨き上げられたガラス瓶が、光を反射させながらずらりと並び、壮観ですらあった。
部屋に充満しているのは、熊イチゴが煮詰まる、甘酸っぱい香り。薪がはぜる乾いた音。瓶と瓶が触れ合う、カラン、コロンという涼しげな音。そして、何よりも、人々の声。

「おい、そっちの鍋、そろそろ火から下ろす頃合いじゃねえか!」
「こっちの選別は終わったよ! 次のイチゴを運んでおくれ!」
「アニエス! あんたのところの瓶、消毒は済んだのかい?」
「もうとっくに済んでるよ! それより、あんたこそラベルの糊が乾いてないじゃないか!」

そこには、驚くほど効率的で、流れるような共同作業の光景が広がっていた。
村の男衆で構成された「収穫・運搬班」が、早朝に山で摘んできたばかりの、朝露に濡れた熊イチゴを大きな麻袋に入れて運び込む。
それを、工房の入り口で待ち構える女たちの「洗浄・選別班」が受け取り、冷たい井戸水で手早く洗い、傷んだ実や葉っぱを丁寧に取り除いていく。
選りすぐられた真っ赤な果実は、中央の「煮込み班」へと渡される。そして、その「煮込み班」のチーフこそが、公爵令嬢イザベラ、その人であった。

もはや、彼女に以前のような気位の高さや、現実離れした計画を振りかざす愚かさはなかった。今の彼女は、一人の「職人」だった。
麻の頭巾で豊かな金髪をまとめ、袖をまくり、顔には尊敬するエルマおばあさまと同じように、うっすらと煤の跡がついている。その真剣な眼差しは、ただ一点、目の前の銅鍋に注がれていた。

「火、もう少し弱くしてくださいまし!」「蜂蜜、あと一さじ!」「ヘラを! こちらに!」

彼女の指示は、的確で、無駄がない。それは、これまでの数え切れないほどの失敗と、百回に及ぶ試行錯誤によって培われた、経験の賜物だった。
彼女は、鍋の中から立ち上る湯気の香り、ヘラから伝わるジャムの粘りの感触、そしてコトコトと煮える音の微妙な変化だけで、ジャムが今、最高の状態にあるかどうかを判断することができた。
それはもはや、科学や計算ではなく、五感を研ぎ澄ませた者だけが到達できる、一種の「対話」だった。

ジャムが完璧なルビー色と粘度になった瞬間、イザベラが「今ですわ!」と叫ぶ。すると、屈強な男たちが二人掛かりで熱い鍋を火から下ろし、「瓶詰め班」の女たちの元へ運ぶ。彼女たちは、熱いジャムを、見事な手つきで、煮沸消毒された瓶に次々と注いでいく。そして最後に、「冷却・ラベル貼り班」の老人たちが、出来上がった瓶を風通しの良い棚に並べ、イザベラがデザインした素朴なラベルを一枚一枚、丁寧に貼り付けていくのだ。

驚くべきことに、この一連の生産ラインは、イザベラが明確に指示したわけではなかった。
最初は皆、手探りだった。しかし、「どうすれば、もっと楽に、もっとうまくできるか」と、それぞれが自分の持ち場で工夫を重ねるうちに、自然とこのような役割分担が生まれ、淀みない流れが創発したのだ。
それは、誰か一人の優れた指導者が設計した機械的なシステムではなく、個々の生命が互いに作用し合いながら、全体として美しいハーモニーを奏でる、生きた共同体そのものだった。

イザベラは、その流れの中心にいながら、不思議な感覚に包まれていた。
目の前の鍋に、全神経を集中させる。
ジャムの色、香り、音、粘り。彼女の世界は、その四つの要素だけで構成されていた。
外で鳥が鳴いているのも、誰かが冗談を言って笑っているのも、もはや彼女の耳には入らない。時間という感覚さえ、どこかへ溶けて消えてしまったようだった。

ただ、「今、この瞬間」だけが存在する。
鍋の中のジャムと、それをかき混ぜる自分。その境界線すら、曖昧になっていく。
まるで、自分がジャムになり、ジャムが自分になるかのような、完全な一体感。
心地よい。
驚くほどに、心が静かで、満たされている。

これが、王宮で学んだどんな哲学書にも書かれていなかった、本当の「心の平和」なのかもしれない。
悩みも、不安も、怒りも、嫉妬も、入り込む隙間が、どこにもない。
なぜなら、彼女の心は、「今、やるべきこと」で、完全に満たされているからだ。

「お嬢様! 昼餉(ひるげ)の時間だぜ!」

木こりの男の野太い声に、イザベラははっと我に返った。
顔を上げると、いつの間にか太陽は真上に昇り、窓から明るい光が差し込んでいる。時計などないが、もう何時間も経っていることに、彼女は初めて気づいた。

工房の外に出ると、春の優しい風が、汗ばんだ額を心地よく撫でていった。村の女たちが、黒パンと、チーズと、温かい野菜スープを振る舞ってくれる。イザベラも、皆の輪に入り、丸太に腰掛けて、素朴な昼食を頬張った。
「いやあ、今日のジャムも最高の出来だったな!」
「これも、お嬢様の腕のおかげだ!」
「何言ってんだい、アニエスの瓶詰めだって、大したもんじゃないか!」
皆が、互いの仕事を讃え合い、笑い合っている。その輪の中にいることが、イザベラは、誇らしくて、たまらなかった。

午後の作業も、同じように夢中でこなした。
何度か鍋を火にかけ、何十もの瓶が、美しいジャムで満たされていく。
その一つ一つの瓶が、愛おしくてならなかった。それは、ただの商品ではない。自分と、ここにいる仲間たちの、汗と、知恵と、そして時間の結晶なのだ。

やがて、西の空が茜色に染まり始め、一日の作業の終わりを告げた。
人々は、疲れ切ってはいたが、その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。道具を片付け、工房の火を落とし、それぞれが家路につく。
「お嬢様、また明日な!」
「ええ、また明日!」
村人たちとそんな挨拶を交わす自分に、イザベラ自身が少し驚いていた。いつから、こんなにも自然に、この場所に溶け込めるようになったのだろう。

皆が去り、静けさを取り戻した工房に、イザベラは一人残った。
棚にずらりと並んだ、完成したばかりのジャムの瓶を、彼女は満足げに眺めていた。夕暮れの光を浴びて、一つ一つの瓶が、まるで宝石のように輝いている。

「……見事なものだな」

いつの間にか、カイルが後ろに立っていた。彼も、一日中、重い薪を運んだり、壊れた道具を修理したりと、黙々と働いてくれていた。
「ええ。皆の、おかげですわ」
イザベラは、素直にそう答えた。

彼女は、ふと、窓の外に広がる夕焼け空に目をやった。燃えるような茜色の空に、一番星が、小さく瞬いている。
その時、雷に打たれたような、衝撃的な事実に気づいた。

「……あれ?」

「どうした」

「わたくし……今日一日……」
イザベラは、自分の胸に手を当て、心の中を探るように、呟いた。
「あの男のこと……アルフォンス王子のことを、一度も、思い出さなかったわ……」

そうだった。
この一日、彼女の頭の中から、王子への憎しみも、リリアへの嫉妬も、完全に消え去っていたのだ。それだけではない。将来への漠然とした不安も、自分の境遇への嘆きも、何もかも。
ただの一度も、彼女の心をよぎることはなかった。

「……驚きましたわ」
彼女は、カイルに向き直って、心の底からの驚きを伝えた。
「わたくし、てっきり、あの憎しみは、わたくしの一部で、一生消えないものだと思っておりました。それがないと、自分を保てないとさえ……。でも、違ったのですね」

悩みや苦しみは、常にそこにある、不動のものではなかった。
それは、心が「暇」な時にこそ、忍び寄り、巣食い、増殖していく、厄介な寄生虫のようなものだったのかもしれない。
何かに夢中になっている時、無我夢中で「今」を生きている時、そんな寄生虫が入り込む余地は、どこにもないのだ。

「悩んでいる暇がないほど、何かに没頭することが、これほどまでに、心を楽にするとは……知りませんでしたわ」
それは、彼女にとって、大発見だった。
怒りを無理に抑えつけようとしたり、悲しみを忘れようと努力したりするのではない。
ただ、目の前の、為すべきことに、全身全霊で集中する。
そうすれば、結果として、心は自然と、静かで穏やかな場所へと導かれるのだ。

カイルは、そんな彼女の言葉を、静かに聞いていた。そして、いつものように、核心を突く、短い言葉を口にした。
「それが、お前が見つけた、お前だけの『祈り』の形なのかもしれないな」

「……祈り?」

「ああ。神に何かを願うだけが、祈りじゃない。心を一つのことに集中させ、雑念を払い、無心になる。それもまた、立派な祈りだ」
彼は、棚からジャムの瓶を一つ手に取ると、その出来栄えを確かめるように、光にかざした。
「お前のその手は、もう、誰かを攻撃するためでも、自分を飾るためでもない。何かを生み出し、誰かを喜ばせるための手になった。その手で、無心に作業をすること。それが、今のあんたにとって、一番の祈りなんだろう」

イザベラの胸に、カイルの言葉が、温かく染み込んでいった。
祈り。
そうだ、これは、祈りなのかもしれない。
この土地が豊かになりますように。ここに住む人々が、幸せでありますように。そして、わたくし自身が、穏やかな心でいられますように。
その全ての願いが、このジャム作りの、一振り一振りのヘラの中に、込められていたのかもしれない。

イザベラは、自分が作り上げたジャムの瓶を、そっと手に取った。
それは、ひんやりとしていて、心地よい重みがあった。
それは、彼女が「今」を生きた、確かな証だった。

過去は、もうない。
未来は、まだない。
あるのは、この手の中にある、確かな温もりと、心地よい疲労感と、そして、目の前にいる、不器用で優しい男の、静かな眼差しだけ。
それだけで、十分だった。
それ以上、何も必要ない、と思えた。

春の夜の静寂の中、イザベラは、人生で最も穏やかな気持ちで、自分が生み出した小さな輝きを、いつまでも見つめていた。
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