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第17話『涙の告白と、差し出されたスープ』
しおりを挟む王都への道は、イザベラの記憶にあるそれとは全く様相を変えていた。かつては豊かな緑と黄金色の麦畑がどこまでも続いていたはずの沿道は、干ばつの爪痕に深くえぐられ、ひび割れた大地が痛々しく広がっている。それでも、街道には人がいた。イザベラの領地から送られた食料を運ぶ荷馬車の列、そして、安堵の表情で行き交う商人や旅人たち。国全体が深い傷を負いながらも、その脈動は、かろうじて止まってはいなかった。
カイルが手配した質素な馬車に揺られながら、イザベラは窓の外を眺めていた。久しぶりに見る王都の城壁。天を突くようにそびえる壮麗な尖塔。それらは、かつての彼女にとって世界の中心であり、誇りそのものだった。しかし今、彼女の目に映るそれは、ただの石と煉瓦でできた、巨大な建造物に過ぎなかった。感傷も、懐かしさも、驚くほど湧いてこない。ただ、記憶という名の古い絵葉書を眺めているような、静かな心持ちだった。
王宮に到着すると、彼女の帰還はすぐに知れ渡った。出迎えたアルフォンスは、やつれた顔に安堵と緊張をない交ぜにしたような複雑な表情を浮かべていた。彼を取り巻く廷臣たちは、イザベラを一瞥すると、好奇と、侮蔑と、そして少しの恐怖が入り混じった視線を投げかけ、ひそひそと言葉を交わしている。
「あの追放された令嬢が、なぜ今ここに…」
「国を救ったのは、彼女の領地の食料だとか…」
「アルフォンス様は、まさか復縁などとお考えでは…」
その囁き声は、イザベラの耳にも届いた。以前の彼女なら、その一つ一つに激しく反応し、完璧な論理で相手を打ちのめし、自らの正当性を証明しようとしただろう。だが、今の彼女の心は、静かな水面のように、その小石をただ沈めていくだけだった。彼らは彼らの視点から、自分たちの信じる物語を語っているに過ぎない。そして、その物語の中にいる「悪役令嬢イザベラ」は、もはや自分とは何の関係もない、別の登場人物なのだから。
アルフォンスに案内された一室で、彼は重い口を開いた。
「リリアのことだ。……彼女は今、西の塔に幽閉されている」
彼の声には、怒りとも悲しみともつかない、やり場のない感情が滲んでいた。
「貴族たちは、国を欺いた罪は万死に値すると、彼女の処刑を求めている。だが……私には、決断ができない。彼女は嘘をついた。だが、彼女の癒やしの力が多くの民を救ったのもまた、事実なのだ」
「……そうですか」
イザベラは、ただ短く相槌を打った。
「会って、やってはくれないだろうか」
アルフォンスが、懇願するように言った。
「君が、彼女の罪をどう断じるのか……それを、聞きたい」
周囲にいた侍従たちが、息を呑んだ。元凶である恋敵との対面。それは、イザベラにとって最高の復讐の舞台となるはずだった。誰もがそう思った。しかし、イザベラの返事は、その場の誰の予想をも裏切るものだった。
「わかりました。お会いしましょう」
彼女は、静かに頷いた。
「ですが、わたくしは彼女を裁くために行くのではありません」
その真意を測りかねて戸惑うアルフォンスを残し、イザベラは部屋を出た。廊下で待っていたカイルが、無言のまま隣に並ぶ。彼の視線だけが、「本当に、いいのか」と問いかけていた。イザベラは、彼にだけ聞こえるように、小さく囁いた。
「大丈夫よ。ただ、確かめたいことがあるだけ。……スープは、持ってきてくれたかしら?」
カイルは黙って、持っていた簡素な革袋を軽く叩いた。その中には、出がけに厨房で温めさせた、野菜のスープが入った水筒と、焼きたての黒パンが包まれているはずだった。
◆
西の塔の最上階。光の乏しい石造りの部屋は、ひやりと冷たく、かび臭かった。鉄格子の嵌まった小さな窓から、細い光の筋が差し込み、空気中の埃をきらきらと踊らせている。その部屋の隅、粗末なベッドの上に、小さな人影がうずくまっていた。
かつて「聖女」と呼ばれた少女、リリア。純白のドレスは汚れ、艶やかだった亜麻色の髪はくすみ、その顔は涙と絶望で見る影もなかった。
重い扉が開く音に、彼女はびくりと肩を震わせ、顔を上げた。そこに立つイザベラの姿を認めると、彼女の瞳に、怯えと、そして燃えるような憎悪の色が浮かんだ。
「……なにしに来たのよ!」
金切り声が、冷たい石壁に反響する。
「笑いに来たんでしょう!惨めな私の姿を見て、勝ち誇るために!あんたにすべてを奪われた、哀れな偽物の聖女を、見下しに来たんでしょう!」
リリアは、ありったけの呪いの言葉をイザベラに投げつけた。その言葉の一つ一つが、かつてのイザベラの心に突き刺さった棘と同じ形をしている。
(ああ、まただわ)
イザベラの心に、ほんのわずかに、チリリとした怒りの火花が散った。この女のせいで、自分はすべてを失ったのだ、と。過去の自分が叫んでいる。
だが、その感情の火花が燃え広がる前に、イザベラはそれを捕まえた。まるで、手のひらに舞い降りた蝶を観察するように、冷静に眺める。
(今、わたくしは少し腹が立った。なぜ?彼女の言葉が、過去の傷に触れたから。この感情は、過去の記憶が作り出した、ただの反応。わたくし自身ではない)
そう認識した瞬間、怒りは力を失い、煙のように消えていった。
イザベラは、リリアの罵声に一切答えず、静かに部屋の中へ入った。そして、持参した革袋から、温かいスープの入った水筒と、布に包まれた黒パンを取り出した。粗末な木製のカップにスープを注ぐと、かぐわしい野菜の香りが、かび臭い部屋にふわりと広がった。
「な……何よ、それ」
リリアが、警戒心も露わに身を固くする。
「毒でも入っているんでしょう!そうやって、私を殺すつもりなのね!」
「食べるも食べないも、あなたの自由よ」
イザベラは、カップとパンを床に置き、リリアから少し距離を取って、静かに言った。
「ただ、お腹が空いているでしょう、と思って」
その、あまりに予期せぬ、あまりに平坦な言葉が、リリアの心の最後の砦を、粉々に打ち砕いた。
彼女の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。それは、憎しみや怒りの涙ではなかった。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた音だった。
「う……うわあああああん!」
子供のように泣きじゃくりながら、リリアはすべてを吐き出した。
平民として生まれ、誰からも見向きもされなかった日々のこと。
偶然発現した癒やしの力だけが、自分の価値のすべてだったこと。
周囲から「聖女様」と崇められ、その役割を演じ続けるしかなかった孤独。
天候まで操れるはずだという、根拠のない期待。そのプレッシャーから、一度だけついた小さな嘘が、もう後戻りのできない大きな嘘になってしまったこと。
そして、何よりも。
「王子様に……アルフォンス様に、愛されたかった……ただ、一人の女の子として、特別に愛されたかっただけなの……!」
それは、喉が焼けつくような、満たされることのない渇き。尽きることのない欲望。仏教で言うところの『渇愛』。その欲望の炎に、彼女は自分自身を焼き尽くされていたのだ。
イザベラは、その告白を、ただ黙って聞いていた。
目の前にいるのは、国を欺いた「偽りの聖女」ではない。自分を陥れた「悪女」でもない。
そこにいるのは、ただ、「認められたい」「愛されたい」と願い続け、その願いが叶わないという苦しみに、のたうち回っていた、一人の不器用で、弱い人間だった。
その苦しみは、かつて自分が「王子に完璧な婚約者として認められたい」と願い、その役割に自分を縛り付け、苦しんだのと、全く同じ根を持っていた。苦しみの形が違うだけ。王子も、自分も、そしてこのリリアも、誰もが皆、それぞれの「こうあるべきだ」という執着に苦しんでいるのだ。
敵も味方もない。誰もが、同じ苦しみの海で、必死に足掻いている、哀れな同胞なのだ。
その理解が、雷のようにイザベラの全身を貫いた時、彼女の中から、リリアに対する最後のわだかまりも、完全に消え去っていた。
イザベラは、ゆっくりと立ち上がり、床に置いたカップを拾い上げた。そして、まだ嗚咽を漏らすリリアの前に、そっとそれを差し出した。
「あなたも、苦しかったのね」
その言葉は、同情ではなかった。憐憫でも、ましてや許しでもない。
同じ地獄を見てきた人間だからこそわかる、深い、深い、共感だった。
リリアは、恐る恐るそのカップを受け取った。温かい陶器の感触が、震える指先に伝わる。彼女は、しゃくりあげながら、こくり、とスープを一口飲んだ。
滋味あふれる、優しい野菜の味が、冷え切った体にじんわりと染み渡っていく。
それは、彼女が人生で初めて味わう、何の役割も、何の期待も、何の代償も求められない、ただ与えられるだけの、無条件の優しさの味だった。
部屋を出ると、扉の前でカイルが壁に寄りかかって待っていた。
「……どうだった」
彼の短い問いに、イザベラは、憑き物が落ちたような、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「わたくしたちは皆、自分が見たいようにしか、他人を見ていなかったのね。王子はリリアに『無垢な聖女』という幻想を。わたくしは王子に『完璧な伴侶』という役割を。そしてリリアは王子に『絶対的な愛』を。誰も、相手をありのままに見てはいなかった。ただ、それだけのことだったのよ」
リリアを罰すれば、この国の問題は終わるのだろうか?
違う。
彼女という「偽りの聖女」を生み出したのは、聖女一人に奇跡を依存し、その脆弱なシステムの上に安穏と座っていた、この国そのものの歪みなのだ。治療が必要なのは、彼女個人ではない。この国、全体だ。
イザベラは、西の塔から、王宮の会議室が連なる棟へと、その視線を移した。
次に自分が向かうべき場所は、もう、決まっていた。
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