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第18話『王妃の座と、根っコの治療』
しおりを挟む王宮の第一会議室は、この国の権威と歴史を凝縮したような空間だった。天井には建国の神話を描いたフレスコ画が広がり、壁には歴代国王の肖像画が隙間なく飾られ、その厳粛な視線で現代の王たちを見下ろしている。分厚い天鵞絨(ビロード)のカーテンは陽光を遮り、磨き上げられた黒曜石の長テーブルが、部屋の中央に鎮座していた。そこに集うのは、王国を動かす大貴族たち。彼らは皆、由緒ある家柄の出であることを示す豪奢な装いで、その顔には、長年にわたって蓄積されたプライドと猜疑心が、深い皺となって刻まれている。
その重苦しい空気の中に、イザベラは一人、場違いなほど簡素なドレスで座っていた。辺境の領地の、腕の良い仕立て屋が作ってくれた、動きやすさを重視した濃紺のドレス。過剰なレースも、宝石もない。それがかえって、彼女の凛とした存在感を際立たせていた。
議題は「偽りの聖女リリアの処遇と、今後の国家再建について」。しかし、会議が始まって早々、その議題は全く別の方向へと進み始めた。議長役であるアルフォンス王子が、立ち上がったのだ。
「まず、この場を借りて、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインに心からの感謝を捧げたい。彼女の先見の明がなければ、我々は未曾有の国難を乗り越えることはできなかった」
貴族たちが、ざわめく。賞賛、嫉妬、困惑。様々な感情が渦を巻く。アルフォンスは、そのざわめきを打ち消すように、さらに声を張った。そして、誰もが予期し、しかし誰もが耳を疑う言葉を、満座の前で口にした。
「そして、私は自らの過ちを認め、ここに償いを果たしたい。イザベラ、どうか再び私の妃となり、この国を、そしてこの未熟な私を、隣で導いてはくれまいか」
懇願。それは、一国の王子が公の場で口にするには、あまりに率直で、感情的な言葉だった。
「おおっ!」
「やはり、そうであったか!」
貴族たちのどよめきが、波のように会議室を満たす。ある者は安堵し、ある者は苦々しげに顔を歪めた。議論は、一気に熱を帯びる。
「素晴らしいご決断です、王子!かの聖女は直ちに処刑し、真に国母たる資格を持つイザベラ様を再びお迎えするべきです!」
「お待ちください!一度とはいえ、婚約を破棄され、追放された身。そのような方を王妃に迎えるなど、王家の権威に関わりますぞ!」
「しかし、国を救った英雄であることも事実!功に報いるのが王道であろう!」
リリアか、イザベラか。
処刑か、赦免か。
復縁か、否か。
彼らの議論は、まるで天秤の皿のように、二つの選択肢の間を行ったり来たりするばかりだった。どちらの皿が重いか、どちらがより「正しい」か。彼らにとって、それが世界のすべてであるかのようだった。
その時、イザベラが静かに立ち上がった。すべての視線が、彼女一人に注がれる。誰もが、彼女が王子の申し出をどう受けるのか、固唾をのんで見守っていた。かつてのイザベラならば、感涙にむせびながらその手を取っただろうか。あるいは、積年の恨みを晴らすように、冷たく拒絶しただろうか。
「そのお話は、お受けできません」
凛とした、しかしどこまでも平坦な声だった。会議室が、水を打ったように静まり返る。アルフォンスの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「なぜだ、イザベラ……。君は、まだ私を許してはくれないのか」
「いいえ、王子。これは、個人的な感情の問題ではございません」
イザベラは、長テーブルに並ぶ貴族たちの顔を、一人一人、ゆっくりと見回した。
「皆様の議論は、残念ながら、枝葉末節に過ぎませんわ。リリア様を罰しても、わたくしが王妃になっても、この国の根本的な問題は何一つ解決しないのです」
「……根本的な、問題だと?」
「はい」と、彼女は力強く頷いた。
「今回の危機の本当の原因は、リリア様が嘘をついたことでも、王子が騙されたことでもありません。聖女という、たった一人の、たった一つの存在に、雨乞いという国の命運そのものを依存しきっていた、この国のシステム。その、あまりの脆さ、そのものなのです」
彼女の言葉は、貴族たちの凝り固まった常識を、静かに、しかし確実に揺さぶり始めていた。
「考えてもみてくださいまし。たった一人が病に倒れただけで、国全体が飢饉に陥る。そんな国が、健全と言えるでしょうか。それはまるで、一本の柱だけで巨大な屋根を支えているようなもの。その柱が折れれば、家はたやすく崩壊してしまいます」
イザベラは、一度言葉を切ると、突拍子もない提案を始めた。
「皆様、アヒルの群れを思い浮かべてくださいまし」
「……あひる?」誰かが、間の抜けた声を漏らした。
「ええ、アヒルですわ。湖に浮かぶ、ガーガーと鳴く、あのアヒル。彼らの群れに、リーダーはおりません。一羽一羽が、ただ『お隣さんとぶつからないように』『あまり離れないように』『みんなと同じ方向へ』と、ごく単純なルールに従って動いているだけ。それなのに、群れ全体としては、驚くほど見事な秩序を保ち、外敵から身を守り、餌場を見つけ出すのですわ」
貴族たちは、ポカンとして顔を見合わせている。この女は、国家の存亡を議論するこの神聖な場で、一体何を言っているのだ、と。しかし、イザベラは構わずに続けた。
「わたくしたちの国も、こうあるべきです。王都という一つの頭が、すべての手足にいちいち命令を下すのではなく、各領地が、あのアヒルのように自律的に動くのです。それぞれの土地の気候や文化に合わせて、得意な産物を育て、産業を興し、力をつける。そして、お互いに助け合う。そうすれば、一つの領地が干ばつに襲われても、隣の領地が水や食料を融通できる。病が流行れば、薬草の採れる別の領地が助け船を出せる。すべて、王都の指示を待つまでもなく、ですわ!」
ある老獪な貴族が、鼻で笑って言った。
「馬鹿馬鹿しい。それは国ではない、ただの村の寄せ集めだ。それでは、国としての統一が取れなくなるではないか!」
「では、お聞きしますわ」と、イザベラは少し語気を強めた。
「わたくしが追放された辺境の地で、村人たちが何をしていたか、ご存知かしら?彼らは、畑にミミズを増やしておりましたの」
「……みみず?」今度は、アルフォンスが呆けたように聞き返した。
「ええ、ミミズですわ。あの、にょろにょろした生き物。ミミズは、別に畑全体を豊かにしようなどという、高尚な考えは持っておりません。ただ、目の前の土を食べて、糞をする。ひたすら、その繰り返し。しかし、その無数のミミズたちの、利己的で単純な活動が、結果として土を深く耕し、空気を送り込み、水はけを良くし、畑全体を、誰も意図しないままに、驚くほど豊かにしてくれるのです」
イザベラの瞳が、強い光を放った。
「各領地が、ミミズになるのです!それぞれが、自分の足元を懸命に耕し、豊かになる努力をする。その無数の小さな活動の積み重ねが、結果として、王国という大きな畑を、自然と、そして力強く、豊かにしていく。わたくしが提案したいのは、そういう国の形です!」
アヒルとミミズの国家論。
あまりに突飛な比喩に、会議室は混乱の極みに達した。頭に疑問符を浮かべる者、イザベラを狂人を見るような目つきで見る者、不敬だと怒りに顔を赤らめる者。
しかし、アルフォンスと、数人の若い貴族たちは、違った。彼らは、その奇妙な比喩の奥にある、恐ろしく革命的で、しかし真理を突いたビジョンの核に気づき、息を呑んでいた。
イザベラの提案。それは、要約すれば、「王都の中央集権体制を事実上解体し、各領地に大幅な自治権を認める、ネットワーク型の国家連合へと移行する」というものだった。それは、何百年と続いてきたこの国の形を、そして貴族たちがその上に胡座をかいてきた既得権益を、根底から覆す思想だった。
「ふ、ふざけるな!」
案の定、最も大きな力を持つ保守派の公爵が、テーブルを叩いて立ち上がった。
「それは国を分裂させ、弱体化させるに等しい暴論だ!やはりヴァレンシュタインの血は危険思想に染まっている!貴様、父君と同じく、王家の転覆でも狙っているのか!」
「いいえ」
イザベラは、その激昂を、柳に風と受け流した。
「むしろ、これこそが、この国を本当に『一つ』にする道ですわ。鎖で縛り付けられた奴隷の集団を、『一つ』とは呼びません。自由な意思で、互いの必要性を認め、手を取り合った仲間たちの集まりこそが、真に強く、しなやかな『一つ』なのですから」
その日の会議は、結論が出ないまま、大紛糾の末に終わった。
しかし、イザベラの言葉は、確実に、何人かの心に新しい時代の種を蒔いていた。
重々しい会議室の扉を開けると、外で待っていたカイルが、呆れたような、しかしどこか誇らしげな顔で言った。
「……ずいぶんと景気のいいアヒルとミミズの話をしていたな。ご老人方が泡を吹いて倒れるかと思ったぞ」
「あら、わかりやすくて、よろしいでしょう?」
イザベラは、いたずらっぽく笑った。その顔は、王妃の座という、かつて命懸けで執着したものを、自らの意志で完全に手放した者の、晴れやかな解放感に満ちていた。
「わたくしはもう、王妃になる気も、この息苦しい場所で暮らす気もありませんもの。種は蒔きましたわ。水をやり、育てるのは、王子様と、やる気のある方々のお仕事。わたくしは、わたくしの畑に帰って、自分のミミズになりますわ」
彼女はもう、この国のシステムの中心になるつもりはなかった。ただ、大きな変化を引き起こす、最初の小さなきっかけ。蝶の、ささやかな羽ばたき。
それで、十分だった。自分の幸福は、もう、ここにはないのだから。
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