婚約破棄で追放された悪役令嬢ですが、前世知識で辺境生活を満喫中。無口な騎士様に溺愛されているので、今さら国に泣きつかれても知りません

カインズ

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第19話『夕焼けの誓いと、さよならのキス』

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季節は巡り、再び乾いた風が吹き始める秋。
イザベラの蒔いた「種」は、王都で静かに、しかし着実に芽吹き始めていた。彼女の提唱した「アヒルとミミズの国家論」は、当初こそ嘲笑と反発に晒されたものの、アルフォンス王子と、彼に賛同する若い世代の貴族や官僚たちの熱意によって、「領地自治振興法案」という具体的な形を取り始めていた。

もちろん、抵抗がなくなったわけではない。保守的な大貴族たちは、既得権益を守るために連日連夜、反対意見を表明し、議会は紛糾を極めた。だが、一度動き出した大きな流れは、もはや誰にも止められなかった。干ばつという未曾有の危機を経験した民や、地方の領主たちの間から、イザベラの思想を支持する声が日増しに高まっていったのだ。システムは、新しい安定点を目指して、自ら動き始めていた。

イザベラは、その激動の中心から、少し離れた場所にいた。法案の骨子を作るためのアドバイザーとして、何度か王都と領地を往復はしたが、彼女は決して主役の座に居座ろうとはしなかった。ただ、求められれば知識を貸し、議論が迷走すれば本質を突き、役目が終われば、さっさと自分の領地へ帰る。その淡々としたスタンスが、かえって彼女の言葉に重みと信頼性を与えていた。

そして今日、彼女が王都で果たすべき、最後の役目が終わった。領地へ、完全に帰る日が来たのだ。

王宮の門前。見送りに来たのは、アルフォンスただ一人だった。彼は、数ヶ月前とは別人のように、王としての落ち着きと威厳をその身に纏っていた。

「世話になったな、イザベラ」
彼の声は、晴れやかだった。
「君が蒔いてくれた種は、多くの者を巻き込んで、今や私の背丈を越えるほどに育ち始めている。正直、毎日が嵐のようだが……不思議と、充実しているんだ。ようやく、誰かに与えられた役割ではなく、自分の足で立って、自分の意志で国を動かしているという実感がある」

「素晴らしいことですわ、殿下」
イザベラも、心からの笑顔で応えた。

「……以前、君に妃になってほしいと言ったこと」と、アルフォンスは少し気まずそうに視線を逸らした。「あれは、まだ私が君を『国を救うための便利な道具』としてしか見ていなかった証拠だ。私の弱さだった。本当に、すまなかった」

かつての婚約者からの、二度目の、そして真の意味での謝罪。イザベラは、穏やかに首を横に振った。

「いいえ。あの頃は、王子も、わたくしも、そしてリリアも……誰もが、自分の役割という檻の中でもがいていました。皆、未熟だったのですわ。でも、人は変われる。あなたも、わたくしも」

その言葉に、アルフォンスは顔を上げた。その瞳には、もう劣等感も、甘えもない。ただ、対等な友人に向けられる、澄んだ敬意だけがあった。
「ああ、本当にそうだな」
彼は、すっと右手を差し出した。
「友人として、これからもこの国を見ていてほしい」

「喜んで」
イザベラも、その手を固く握り返した。
愛も、憎しみも、復讐心も、すべてが過ぎ去った今、二人の間には、温かく、そして揺るぎない友情だけが残っていた。それは、燃えるような恋よりも、ずっと穏やかで、心地の良い関係だった。

諸行無常。すべては移り変わり、同じ場所に留まり続けるものはない。かつてあれほど執着した関係でさえ、時を経て、こんなにも美しい形に変わるのだ。その事実が、イザベラの心を、温かい光で満たした。



領地に帰ったイザベラは、カイルと共に、いつもの丘の上に立っていた。
眼下には、黄金色の夕日に照らされた、愛おしい自分たちの土地が広がっている。収穫を終えた畑、家々の窓から漏れる温かな灯り、牧草地でのんびりと草を食む羊の群れ。
空は、燃えるような茜色から、深い紫、そして藍色へと、刻一刻とその表情を変えていく。世界が、壮大なグラデーションに染め上げられていた。

この一年と数ヶ月。どれほどのことがあっただろう。
絶望の底で泣き叫んだ日。泥だらけで畑を耕した日。村人たちと笑い合った日。王子を憎み、リリアを妬み、そして、その両方を許した日。
失ったものはあまりに多い。地位も、名誉も、財産も。
しかし、得たものは、それ以上に大きかった。

すべてが、この美しい夕焼けの中に溶けていくようだった。過去は、もはや彼女を縛る鎖ではなかった。それはただ、今の自分を形作る、一つの風景に過ぎなかった。

「……カイル」
長い沈黙を破り、イザベラは隣に立つ男に向き直った。
「わたくし、決めたことがありますの」

「……なんだ」
カイルは、夕焼けから目を離さずに、短く応えた。

「わたくしは、もう二度と王都には戻りません。ヴァレンシュタイン公爵家の名前も、いずれ父が許してくれるなら、捨てるつもりです。わたくしは……ただのイザベラとして、この土地で、あなたや、みんなと一緒に生きていきたい」

彼女は、すうっと息を吸い込んだ。決意を、言葉に乗せるために。
その瞳は、夕焼けの最後の光を映し、宝石のように真剣な輝きを放っていた。

「ですから、カイル」

「公爵令嬢でも、国の英雄でも、何でもない……。ただの、不器用で、わがままで、たまにアヒルとミミズの話ばかりする、ただの女のわたくしを……」

「もらって、くださいますか?」

それは、何の駆け引きも、飾り気もない、彼女のありのままの魂からの告白だった。肩書きも、役割も、すべてを脱ぎ捨てた、裸の心からの願いだった。

カイルは、一瞬、雷に打たれたように目を見開いた。そして、次の瞬間には、いつものぶっきらぼうな顔に戻ると、ガシガシと乱暴に、しかしどこか照れくさそうに頭を掻いた。彼の視線は、夕焼けの空と、イザベラの顔との間を、何度か行ったり来たりしている。

やがて、彼は大きなため息を一つついて、ぼそりと言った。

「……断る理由が、見つからんな」

その、あまりに彼らしい、不器用で、しかし最高に優しい肯定の言葉に、イザベラの目に、じわりと涙が滲んだ。
それは、もう悲しみの涙ではなかった。過去の苦しみを洗い流す涙でもない。ただただ、温かくて、嬉しくて、幸せな涙だった。
ああ、この人の隣でなら、自分は、ただの自分でいられる。

カイルは、不器用に手を伸ばすと、その大きな手のひらで、そっと彼女の頬に触れた。こぼれ落ちた涙を、親指で優しく拭う。その無骨な指先の感触が、なによりも愛おしかった。

彼は、ゆっくりと顔を近づけた。
世界から、音が消える。風の音も、遠くの村の喧騒も、すべてが遠ざかっていく。ただ、目の前にある、彼の不器用な優しさと、そこに映る自分の姿だけが、世界のすべてになった。

そして、二人の唇が、静かに重なった。

それは、若さゆえの情熱的な恋の口づけではなかった。長い、長い旅路の果てに、ようやく安らぎの場所を見つけた二人の魂が、互いの存在を確かめ合うような、深く、穏やかで、そして永遠を誓う口づけだった。

燃えるような夕焼けが、二人を祝福するように、世界を茜色に染め上げていた。
過去への、本当のさよなら。
そして、未来への、確かな誓い。
すべては移り変わり、そして、新しい関係が、新しい人生が、今、この場所から、静かに始まろうとしていた。
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