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最終話『風の歌と、土の匂いと、今日のパン』
しおりを挟む夜明け前の静寂を破って、教会の古びた鐘が、澄んだ音を空に響かせる。一つ、また一つと。その音は、眠っていた村を目覚めさせ、新しい一日の始まりを告げる合図だった。窓の隙間から、ひんやりとした朝の空気が流れ込んでくる。その空気には、鳥のさえずりと、遠くの森の木々が風に揺れる音、そして、村のパン屋から漂ってくる、香ばしい小麦の焼ける匂いが混じっていた。
イザベラは、その懐かしい匂いに誘われるように、ゆっくりと目を開けた。隣では、カイルがまだ静かな寝息を立てている。数年前のあの夕焼けの日から、彼が夫となり、この腕枕が彼女の定位置になって、どれほどの歳月が流れただろう。
「……ん、まま……」
もぞもぞと、温かいものが布団の中に潜り込んでくる。小さな寝癖だらけの頭が、イザベラの胸にぐりぐりと押し付けられた。三つになる息子、テオだ。父親譲りの黒髪と、母親譲りの勝ち気な瞳を持つ、この領地の小さな暴君。
「おはよう、テオ。今日は少し、寝坊助さんでしたね」
イザベラがその柔らかな髪を撫でると、テオは「うー」と唸りながら、さらに深く潜り込んでくる。その重みと温かさが、どうしようもなく愛おしい。
かつて、完璧な王妃教育の中で、世継ぎを産むことは義務だと教えられた。だが、今この腕の中に感じる重みは、義務などという無味乾燥な言葉では到底表せない、ただただ純粋な、心を溶かすような喜びだった。
その日の朝食は、少しだけ焦げたパンと、庭で採れた野菜のスープだった。イザベラが焼いたパンの黒い部分を、テオが「まっくろくろいの、いやー!」と指差して叫ぶ。
「こら、テオ。母上が一生懸命焼いたんだぞ」
カイルが、眠たげな目をこすりながら言うが、その口元は笑っている。
「いいんです、あなた。わたくしの腕前なんて、この程度ですもの」
イザベラは、少しも恥じることなく、朗らかに笑った。そして、焦げた部分を自分で食べ、白いところをちぎって息子の口に入れてやる。かつて、料理一つできずに厨房をめちゃくちゃにし、プライドから誰にも助けを求められなかった令嬢の姿は、もうどこにもなかった。失敗は、もはや彼女の価値を揺るがすものではなく、家族との笑いを生む、ささやかなスパイスに過ぎなかった。
日中は、畑仕事に出る。村人たちは、もう彼女を「イザベラ様」などとは呼ばない。誰もが気安く「イザベラさん」「奥さん」と声をかける。
「よう、イザベラさん!あんたんとこのジャガイモ、今年は出来がいいじゃねえか!」
「まあ、お隣のマルタさんのところには敵いませんわ。土作りの秘訣は、やっぱりミミズですの?」
「あったりめえよ!ミミズを制する者は、畑を制すんだ!」
そんな、どこにでもある農婦の会話。彼女は、土にまみれ、汗を流し、時にはマルタさんと「最高の堆肥」について、本気の議論を戦わせる。その姿は、かつて王宮で宝石付きのクワを振るっていた令嬢とは、もはや結びつかない。だが、彼女は知っていた。硬い土を耕し、種を蒔き、芽が出るのを待ち、やがて実りを得る。その地道な営みの中にこそ、自分ではコントロールできない大きな自然の流れと、その中で生かされているという謙虚な喜びがあることを。
午後は、週に一度の市場の日だった。領地で採れたものを持ち寄り、人々が物々交換をしたり、旅の商人から珍しい品を買ったりする、村一番の賑わいを見せる場所。イザベラの領地が始めたこの市場は、今や周辺の領地からも多くの人々が集まる、この地方の小さな経済の中心地となっていた。
「よぉ、奥さん!いい知らせがあるぜ!」
顔なじみの旅商人が、大きな荷物を下ろしながら声をかけてきた。
「ついに、アルフォンス陛下が、『新交易路法』を発布したんだ。これで、領地間の関税が大幅に引き下げられる。あんたが昔、アヒルだかミミズだかで話してた、あの通りの世の中に、いよいよなりそうだぜ!」
旅商人の言葉に、市場にいた人々から「おおっ!」と歓声が上がる。
イザベラは、静かに微笑んだ。アルフォンスは、立派な王になったらしい。彼もまた、自分の場所で、懸命に畑を耕しているのだ。
「そういや、もう一つ」と、商人は声を潜めた。
「西の果ての、国境に近い山脈の麓に、小さな診療所があってな。そこの『癒やし手』さんの腕が、神業だって評判なんだ。どんな病も、どんな怪我も、その人が手をかざせば、痛みが和らぐんだと。なんでも、元は王都にいた、そりゃあ美しい人だったとか……」
リリア。彼女もまた、自分の場所を見つけ、その力で人々を救っているのだろう。聖女という重圧から解放され、ただ、目の前の苦しむ人を助けたいという、純粋な願いだけを胸に。
よかった。心から、そう思った。
夕暮れ時、イザベラは一人、あの丘の上に立っていた。
眼下には、夕日に染まる、穏やかな領地が広がっている。遠くに見える王都も、西の果ての山脈も、すべてがこの同じ空の下にある。かつて敵だと思っていた人々も、憎んでいた相手も、自分と同じように、それぞれの場所で、それぞれの人生を生きている。そう思うと、不思議と、世界全体が愛おしく感じられた。
人生は、決して思い通りにはならなかった。
完璧な王妃になるという夢は破れ、国で一番の名誉ある地位を追われた。
だが、その代わりに手に入れたものは何だっただろう。
風の音に耳を澄ます静けさ。土の匂いを深く吸い込む喜び。雨の日の読書と、晴れた日の洗濯物の匂い。カイルの不器用な優しさと、テオのむじゃきな笑顔。
何もかもが、かつての自分が価値がないと切り捨てた、ありふれた日常のかけら。
しかし、それこそが、何ものにも代えがたい、宝物だった。
これからも、人生は思い通りにならないことの連続だろう。テオは言うことを聞かずに怪我をするかもしれない。天候不順で作物が全滅する年もあるかもしれない。予期せぬ困難は、嵐のように、きっと何度もやってくる。
でも、もう恐れはなかった。「思い通りにならない」のが、この世界の当たり前の姿なのだと、彼女は知っている。その変化の波を、嘆くのではなく、ただ受け入れ、乗りこなしていけばいい。
家に戻ると、カイルが夕食の支度を終えて待っていた。テーブルの上には、自分たちの畑で採れた野菜のスープと、今朝、自分が焼いた、あの少し焦げたパン。
「おかえり」
「ただいま戻りましたわ」
家族三人で、小さなテーブルを囲む。特別なご馳走はない。ただ、今日という一日を懸命に生きた者たちが、その日の恵みを分かち合う、静かで、温かい時間。
イザベラは、パンを一口ちぎり、ゆっくりと、味わうように噛みしめた。
香ばしい小麦の香り。素朴で、力強い甘み。
目の前には、愛する夫の、穏やかになった顔。その膝の上で、スープで口の周りをべちゃべちゃにしながら笑っている、愛しい息子の顔。
窓の外からは、夜の訪れを告げる、優しい風の音と、虫の声が聞こえてくる。
その瞬間、イザベラは、すべてを、心の底から理解した。
幸福とは、どこか遠くにある、きらびやかなゴールではなかった。
王妃になることでもなければ、誰かに勝ち、復讐を遂げることでもない。ましてや、国を救う英雄になることでもなかった。
幸福とは―――
風の歌を聴き、土の匂いを感じ、今、ここにある、この温かいパンの味を知ること。
愛する人々と共に、この移ろいやすく、ままならない、しかし、かけがえのない一瞬一瞬を、ただ、静かに、深く、味わい尽くすこと。
それこそが、彼女が、あの長くて辛い旅路の果てに、ようやく見つけた、本当の答え。
決して揺らぐことのない、穏やかで、満ち足りた心の平和だった。
イザベラは、顔を上げた。
そして、愛する家族に向かって、心の底からの、満ち足りた笑顔を浮かべた。
その笑顔は、かつての完璧な公爵令嬢の作り物ではない、彼女の魂そのものの輝きを放っていた。
物語は、その輝きの中で、静かに、そして永遠に、幕を閉じる。
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