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14話
しおりを挟む休憩が明けると、セシリア様は部屋の隅に置かれた黒板へ向かう。
使用人用ではなく、学習用として設けられた小ぶりなものだ。
「それでは、次は算術です」
白いチョークを一本取る。
音は、短く乾いていた。
数字が並ぶ。
式は簡潔で、途中を省かない。
「算術は、結果より過程です」
セシリア様は振り返らずに告げる。
「どこで考え、どこで迷ったか。そこに癖が出る」
ルミナは黒板を見つめ、椅子から身を乗り出した。
「この式、どう思いますか?」
指されたのは、答えではなく途中式だった。
「…割る順番、ですね」
「ええ」
ルミナの答えにセシリアは即答した。
「ここを変えるだけで、計算は楽になります」
その手つきに迷いはなく、説明も必要最低限だった。
「では、今度はこちらを。途中までで構いませんから、書いてみてください」
ルミナは素直に立ち上がり、黒板の前へ進む。
チョークを手に取り、迷うことなく式を書き始め―――あっという間に形にした。
「…正解です」
整った式を前に、セシリア様は一瞬だけ目を見開いた。
すぐに表情を戻したものの、その反応を見て、ルミナはわずかに胸を張ったように見えた。
…すごい。
私は素直に、そう思ってしまった。
元々ルミナには、時折どこか計算高いところがあると感じていた。
けれど今、その感覚は―――確信に変わる。
「…どうやら、ルミナ様には簡単すぎたようですね」
そう言って、セシリア様は黒板へ向き直った。
白いチョークが迷いなく走り、数字が次々と並んでいく。
端数を含む収支の計算。単純な足し引きでは終わらない式だ。
「帳簿上、この差分はどう扱うべきでしょうか。切り捨て、繰り上げ、それとも―――」
ルミナは一瞬口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。
そして、ちらりとこちらへ視線を向けた。
「……ネメシアなら、どう考えますか?」
その問いに、部屋の空気がわずかに動いた。
「……いいでしょう」
短い一言だったが、それは"発言を許可する"合図だった。
「金額だけを見るなら、処理方法はいくつかあります。ですが―――」
視線を黒板に向けたまま、続ける。
「これは、"何に使われるお金か"で変わります。領民への支払いなら誤差は信頼に関わりますし、内部処理なら次の帳に回す選択もあります」
答えではない。判断の基準だけを、置く。
セシリア様は何も言わず、その答えを引き取るように黒板に書き足した。
「……その通りです」
短く、静かに。
「算術は正確さを競うものではありません。"何を守る数字か"を見誤らないためのものです」
ルミナは小さく頷き、黒板を見つめている。
「算術は正確さを競うものではありません。"何を守る数字か"を見誤らないためのものです」
ルミナは小さく頷き、黒板を見つめていた。
その後も、セシリア様の丁寧な指導は続いた、
ルミナは、心なしかいつも以上に疲れた様子を見せている。
「―――それでは、本日はここまでにしましょう」
セシリア様がそう告げると、張り詰めていた空気が静かにほどけた。
「お疲れ様でした、ルミナ様。初日にしては十分すぎるほどです」
「…ありがとうございます、セシリア先生」
ルミナは深く礼をし、椅子に座り直した。疲労は隠せないが、その目には確かに満たされていた。
セシリア様は黒板を一瞥し、チョークを置いた。
そして、私の方を一度だけ見る。言葉は、なかった。
「では、公爵にご報告に行きます」
セシリア様はそれだけ告げ、部屋を後にした。
足音は静かで、迷いがない。
その背を見送ってから、私は静かに片付けを始めた。
――――――
公爵の執務室は、相変わらず静かだった。
「失礼いたします」
入室の許可を得て、一礼する。
公爵は書類から視線だけを上げ、言葉なく続きを促した。
―――この方は、余計な言葉を好まれない。
「本日の指導は終了しております」
私は事実のみを選び、簡潔に並べる。
「基礎的なマナー。立ち方、歩き方、着座までを確認しました。算術と読み書きについても、年齢相応以上の理解が見られます」
「そうか」
公爵は短く相槌を打った。それ以上の言葉はなかった。
だが、それで十分だった。
「なお―――」
一拍だけ置く。
「算術の応用部分で、侍女のネメシアが示した判断基準は、実務に即したものでした」
私のその言葉に、公爵はようやく書類から手を離した。
「……ネメシアが?」
短い問い。確認であって、疑問ではない。
「問いに対し、正答を出したのではなく、判断基準を示しました。あれは教えられた答えではありません」
それ以上は言わない。私は報告をしに来ただけだ。
「……そうか」
公爵はペンを置き、しばし考えるように視線を落とした。
「特に問題はありません。このまま続行可能です」
「…わかった」
公爵の了承を受け、わたしは静かに執務室を後にした。
――――――
私はルミナを部屋へと見送った後、仕事に向かおうとした。
その途中で、執事に呼び止められる。
「…公爵様が執務室でお呼びです」
その短い伝言だけで、理由は告げられない。
ほんの少し、胸がざわついた。
私はその気持ちを抑え、扉の前に立つ。ノックをし、入室を許された。
「お呼びでしょうか」
公爵は机に向かったまま、こちらを見ない。手元には、数枚の書類が広げられている。
「そこへ来い」
指示はそれだけだった。
近づくと、書類が視界に入る。帳簿、金額、日付。どれも一見して整っている。
「お前には、この仕事を与える」
公爵はそう言って、一冊の帳を差し出した。
「こちらの帳を写せ。原本はここに残す」
「…承知しました」
―――なぜ、私に?
そう思わなかったわけではない。けれど、口にできるはずもない。
「数字は見たままだ。余計な手は加えるな」
「はい」
「写しは、お前が管理しろ」
それだけだった。
理由も、説明もない。
私は帳を受け取り、一礼する。
その紙の重みが、ただの仕事ではないことを、まだ言葉にできないまま。
私はその重みを抱え、自室へと戻った。
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