幕末女装パルクール

牧村燈

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パラグライダー事件 後編

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 その声が聞こえた瞬間、僕は何故か懐かしいものに触れたような不思議に落ち着く感覚を覚えていた。事態は到底落ち着いている場合ではないことを十分に分かっていたが、少なくとも寒気を感じていた足元に体温が戻ったのは確かだ。

「あちこち気にする必要なんかない。どうせこの辺には山と田んぼしかありゃしないんだ。どこにどう降りたって大したことにはならないんだから、このフライトを大いに楽しんだらいい。視界は前方を広く見るんだ。わかるかい」

 声に問われて僕は「はい」とうなずく。

「よし、ターゲットを変更しよう。前方左に赤い屋根の家が見えるかい」

 赤い屋根、赤い屋根。あっ、あれか。

「はい、三角屋根の二階建てですね」

「そうだ。ちゃんと見えてるな。その落ち着きなら何の問題もない」

 地上からの高さはどのくらいなのだろう。ふと足元を見る。ピリリと背筋からつま先に緊張を帯びた電流が流れた。ざっと30mくらいだろうか、うちの高校の屋上よりも明らかに高い。怖くはない、怖くはなかった。むしろその感覚は単調で淀んだ日々の生活では決して味わうことの出来ない、神経がキリッと引き締まった清冽な空気に直接触れたかのような。冷たいのに身体がそこから生まれ変わっていくかのように温かい。

「その赤い屋根の向こうに開けた田んぼがある。そのど真ん中をターゲットにしよう。いいかい」

 距離感も速度感もよく分からなかったが、声を聴いている内にどんどん赤い屋根が近づいてきた。

「操作方法は分かるね。右のハンドルを下に引けば左を向き、左のハンドルを引けば右を向く。両方同時に下に降ろせばブレーキだ。パラの操作は飛んでしまえば要はそれしかない。唯一気を付けることがあるとすれば、落ち着いて、ゆっくり操作すること。それだけだ。いいね。君なら出来る。絶対出来る。後は任せたよ」

 そう言って声は途切れた。一瞬の空白の後、トランシーバーから「聞こえるか、どうした、返事しろ、大丈夫か」と連呼する声が流れてくる。インストラクターのお兄さんの声だ。その声の慌てぶりが、僕をリアリティのある世界に引き戻した。

「聞こえます、聞こえてます」

「おお、大丈夫か、冷静にな、冷静に。風も大丈夫だ。冷静に、ゆっくり、ゆっくりだ」

 静まり返っていた世界から戻った僕には、お兄さんの方が興奮しているのがよく分かる。

「大丈夫です。僕は冷静ですよ。この先の田んぼの真ん中に降ります」

 僕はそう答えると、着地に向けて軌道修正を始めた。フライトは間違いなく今日が初めてのはずだが、この空から見る光景は、もう何回も見たことがあるような気がする。そんな既視感の中で、僕は田んぼの真ん中にダーツの評的なような円形を見ていた。さあ、降りよう。

 僕はゆっくりと高度を下げていった。トランシーバーの向こうはきっと走って僕のパラグラーダーを追掛けているのだろう。リズムカルな振動とハッハッという息遣いを伝えてくる。10m。赤い屋根の上空を通過。僕は水田を仕切る畦道の交差する十字の真ん中にダーツの中心を置き、右ハンドルを下げて微修正を掛けた。

 その時だ。左からのつむじ風。さっきと同じ、明確な悪意さえ感じる風だった。煽られて急激に右に持っていかれそうになった僕は、右ハンドルを緩めたカウンターで左ハンドルを一気に下げてバランスを取る。態勢は正面を向いたが、ターゲットに向かうには高度が足りない。

「くっそおぉ」

 グッシャアアアアッ

 随分久しぶりに大きな声を出した。僕はターゲットの畦道の十字交差の僅かに手前右側の田んぼに着水した。水しぶき。青々と成長した稲の何本かを薙ぎ倒した僕はものの見事に泥まみれになった。遅れてパラグライダーの緑とオレンジの翼がゆっくりと落ちてくる。

「ああああっ」

 僕の右前方にスローモーションのように落ちた翼は、ターゲットのど真ん中、畦道の十字中央部分に綺麗に折り畳まれた形で着陸した。

 そう言えばパラグラーダーって一機40万円とかって言ってたなあと思い出す。しかし、僕を田んぼに墜落させたいたずらな風は、決して悪意があったわけじゃなかった。

 田んぼから僕を引き上げてくれたインストラクターのお兄さんに、無事か、何でもないか、と何度も何度も涙目で聞かれた。泥だらけだったが、僕に怪我ひとつ無かったのが分かると、良かった、良かったと、お兄さんは今度は本気で泣き出してしまった。

 この初心者用のゲレンデで起きた事故(僕のフライトは事故扱いになった)については、のちに管理者に対してかなり厳重な事後調査が行われたそうだが、結果は予測不可能な突風、そして全くの初フライトの初心者が飛んでいたにも関わらず、しっかりとした事前学習とインストラクターの的確な指示によって、無傷で着地に導いたということで、逆にスクールの優秀さと、パラグライダーの安全性を立証する形になったと聞いた。

 あの純粋なインストラクターのお兄さんのことを思えば、そういうことで良かったのだろうと思ったが、あの空の上で、僕に話し掛けた懐かしい声の主は、明確にお兄さんではなかったし、あの時感じた空を飛ぶ既視感もまた、僕の心に何か不思議な余韻を残していた。そして、

「本当に初フライトだったんだよね」

 念の為に行った病院のロビーでお兄さんに聞かれた。

「は、はい。確かにはじめてでした」

「そうか、何がスポーツは?」

「あ、い、いえ、何も」

 と僕は頭をかく。

「そうなんだね。正直、僕は慌てていたかも知れないけど、そんなに怖さは感じていなかったんだ。何故だろう、君のフライトを見ていると、無事に降りてくるイメージが勝手に湧いてきたからね。ま、結果無事に降りて来てくれたからそう思うのかも知れないけど」

 お兄さんはそんな風に言ってくれた。そして、

「バランス感覚。君は多分バランス感覚が他の人より優れているんだと思うよ。何がその力を活かしたスポーツをやってみたら良いと思うよ。パラグライダーもまたやりに来てよね。」


 僕のせいで発車が1時間遅れてしまった帰りのバス。僕のフライトを見ていないクラスメイト達は、パラグラーダー教室でアクシデントがあって帰りのバスが遅れると先生から言われ、それがよりによって僕の起こしたものと聞いたのだから、あちこちで舌打ちが鳴り響いたことは想像に難くない。

 病院から戻ってバスに乗ると、先生からも「頼むから注意してくれよ」と一言言われただけだった。唯一の目撃者であるはずのあの子は、奥の席で静かに目を瞑っていた。こんなところで何かを言うような子ではない。わかってる。僕は君のそういうところが好きなんだから。

 これが僕のパラグラーダー初フライト、飛行距離約300m、最大高度30mは、このゲレンデ最大のビッグフライトだった。
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