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エピローグ

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 武蔵野の森の外れに、かつてそこに妖精の森があったとされる場所がある。今はその伝承に因んだテーマパークになっていて、小綺麗な建築物やガーデニングに装飾されているのだが、その一角に古ぼけた小屋がひとつ残されていた。

 「お菓子の家」という立札。小屋の中に入ることは出来ないが、外からの観覧は自由になっている。かなり特殊な建築物で、一体どのくらい前に建てられたものなのかは、専門家にも正確には分からないらしい。それでも数百年という単位であることは間違いないそうだ。

 通常は公開していないが、年に一度4月22日の「スニーフの日」が雨天でない日に限って、扉を開けて中を観覧することが出来た。かねてより一度その絵を見てみたいと思っていた私は、滅多に履かない運動靴などを引っ張り出してここに来たというわけだ。

 スニーフはかつてこの森に住んでいた獣人で、茶色の毛皮に覆われたカンガルーによく似た形態をしていたらしいとされている。この小屋で美しい姉妹と暮らしていたとされるが、どんな生活をしていたのかは記録も伝承も残っていない。

 小屋の壁にはその姉妹を描いたものと思われる絵が2つ残されていた。

 ひとつは花畑の中で二人の裸の美女が踊っている姿が描かれている。華やかなテーマでありながら、二人の表情は強い緊張感に強張り、視線は飛んでくる何かを追掛けているように見えた。花畑がまるで戦場のようだ。

 もうひとつはその二人の美女の安らかな寝顔である。疲れているのかとても深い眠りの中にあるものの、その表情はどこか清々しく、何かをやり切った後のような爽快感が感じられた。

 随分長い間絵を見ていた私に、吟遊詩人のコスプレをした浮世離れした美しい顔をした少年が、問わず語りにこんな話をしてくれた。

 かつてこの森は悪い魔法使いに支配されていた。森の動物たちは魔法使いを恐れその圧政に耐え忍んでいたが、もはや我慢の限界に近い状態にあった。ある祭りの夜、勇者たちは魔法使いに立ち向かった。その勇者の一人がスニーフである。スニーフは強大な魔法使いと勇敢に戦ったが、戦いの中で勇者の一人だった愛する恋人を魔法使いに殺されてしまう。悲しみに暮れながらもスニーフは戦った。激戦の末に遂に魔法使いを倒したが、スニーフは恋人を失くした悲しみに記憶を失ってしまう。

 スニーフは記憶のないまま戦場で知り合った美人姉妹と暫くこの小屋で暮らしていた。ある日ふらりと立ち寄った旅の占い師が、この姉妹の姉こそが森を恐怖に貶めた真の魔女であり、そしてこの姉妹はスニーフの愛する人を殺した張本人だと託宣する。そんなはずはないとスニーフはこの占い師をたちまちに切り捨てて殺してしまうが、それから夜な夜な現れる占い師の亡霊に憑りつかれてしまう。

 日に日にやつれていくスニーフを見かねて口淀んでいた姉妹も、占い師の言うことはひとつの真実であると打ち明ける。怒ったスニーフは、詳しい話をしようとする姉妹に聞く耳を持たず、呆気なく二人を殺してしまった。

 それから数日後、再びスニーフの前に現れた謎の占い師の亡霊は、隠していた真実をスニーフに話した。二人があの日の勇者であったこと。そして自分はあの日殺された導師の彷徨える魂であると。その瞬間にスニーフの記憶が全て戻った。

 殺したのは、お前自身だ。

 真実の重さと己の浅はかさにスニーフは半狂乱になりながら、戻った記憶の中にあった姉妹の姿を、己の血をもって壁に描いた。

 長閑な風景の中にポツンとある「お菓子の家」にまつわる、どこにも記録のない話。この吟遊詩人の創作なのかもしれない。私は「面白かったよ。どうもありがとう」と礼を言う。

 しかし。たった今まで、滔々と話をしてくれた彼は、もう跡形もなくそこにいなかった。鼻のどこかに残っていた麦わら帽子の匂いが風に乗って飛んでいってしまうと、そこには春から初夏へと移ろっていく空気が、古の時を超えて佇んでいる。

 この姉妹にもスニーフにも、少しでも幸せな時間があったと思いたい。そしてこの「お菓子の家」を壊さずに残してくれた誰かに向けて、私は手を合わせていた。

(本編 完)
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