6 / 7
ついに下界へ降臨します
しおりを挟む
「お早うございます。ソウ様」
家の門まで行くと、ユキメは既に会釈をしながら私を待っていた。一体何分前から待っていたのだろう。それとも何時間?
「お早うございます」
ユキメに挨拶を返し、私は彼女に約束していた話を持ち出す。
「――――そういえば昨夜、父上と母上に聞いたんだけど」
私がその言葉から始めると、ユキメは何かを察したように、みるみると表情を明るくさせる。恐らくずっと気にしていたのだろう。可愛い。
「ユキメは女官ではなく家族だと思っているから、今日からでも家に来なさい。だってさ」
途端に、ユキメの鼻息が荒くなるのが分かった。よほど嬉しいのだろう、彼女は膝から泣き崩れてしまった。
「ううう。コレは夢ではないのですよね?」
自分の頬をつねるユキメ。その大福のように伸びる頬は次第に赤みを帯びていく。というか他の侍女も見ているというのに、よくぞここまで泣けるものだ。
「ほおら、行くよユキメ。皆見てるから」
私の足元にしがみ付く彼女を、私は何とか引っ張り上げようとするがビクともしない。この様子じゃ多分、あと一時間は泣く。
「そうだユキメ。武鞭の前に花柳町で朝ごはん食べようよ」
恐らく、今のユキメに一番効果のある言葉。私はそれを半ば投げやりのように言い放つと、ユキメは血相を変えて立ち上がった。
「…………そうですね、参りましょう」
多分彼女の中での優先順位は、ヨウ家よりご飯の方が若干上回っているのかもしれない。よく分からない子だ。
――――そうして花柳町に降りてきた私たちは、二人で話し合って朝は蕎麦を食べることにした。私は既に朝食を済ませているが、蕎麦なら入るだろう。
店に入ると、既に他の龍人も何人か見える。そして店の女将がやってきて、私たちを席まで案内してくれた。
「ところで、今日の武鞭は何するの?」
お子様用のざる蕎麦を頼んだ私は、出された煎茶をすすりながらユキメに問う。
「はい。今日は龍人のもう一つの特性。“龍血"について学ぼうと思っております」
既に注文したというのに、ユキメはまだ品書きに夢中になっている。そんなに眺めても、蕎麦は出てこないというのに。
「龍血かあ。書物である程度読んだけど、ちょっと難しかったなあ」
これは事実だ。
「ご自宅でも励んでおられるのですね。ユキメは関心です」
――――そう言って口角を吊り上げると、ぱたりと品書きを閉じ、ユキメは話を切り出す。
「まず龍血とは、私たちの身体に流れる“龍の血”を使って、武具を強化したり。あとは龍の特性を利用した部位変化などですね」
龍の血の事は知っている。龍の血には微弱ながらも神が宿っている。しかも、とても位の低い神だから、契約をせずとも龍人はその力を使役できるのだ。
「血の神と龍人は、はるか昔から深い交友があるんだよね?」
「流石、よく勉強されていますね」
ユキメはとても満足そうに笑う。たぶんこの人は、私が何をしても笑って喜んでくれるのだろうな。
「でも、部位変化って何?」
私がそう切り返したところで、店の女将が両手に蕎麦を持って現れた。
そしてユキメはまるで、蕎麦から目を離せられない呪いにかけられているかのように、お盆の上に並ぶ蕎麦や薬味に釘付けだ。
「それは直接見た方が早いので、ここを出たらお見せしますね」
おまえ早く食べたいだけだろ。
と、溜め息。仕方なく、私も目の前に置かれた蕎麦を食べることにする。
「いただきます」
――――とても上品に仕上げられた竹ざるに、柔らかい色をした蕎麦が程よく盛られている。
一本一本が水気を帯びていて、その乱反射する様は、まるで水面の様だ。
お盆の上には小鉢がたくさん置かれており、それぞれに生姜、柚子、刻み葱、ミョウガなどが盛られ、一つの町のように多彩な色が混ざっている。
先ずは薬味もつゆもつけず、蕎麦だけを口に入れる。
こんにゃくのような弾力だが、少し力を入れると素直にほぐれる。穀物の大胆な風味と、繊細なそば粉の匂いが鼻を抜ける。
次に蕎麦を少しだけつゆに浸けて啜る。口に広がる甘じょっぱいつゆの風味が、噛むたびに蕎麦と溶け合って、せせらぎの様に喉の奥へと流れていく。
私は薬味をつゆに入れず、食べる分だけ蕎麦に乗せて食べる。こうすることで、薬味それぞれの味を一つ一つ味わうことが出来るのだ。
「…………良き」
やはり蕎麦は、どこの世界でも変わらず美味いな。
ふとユキメを見ると、彼女はおもむろに盆の上の薬味を全てつゆに投入した。
――――ま、まあ、食べ方は人それぞれだ。美味しければいい。
それからユキメが何杯蕎麦を食べたのかは、言わずもがなだろう。
「しかし、本当にユキメはよく食べるね」
勘定を済ませて店を出たすぐに、私はユキメにそう言った。少しデリカシーがなかったか、彼女はリンゴの様に顔を赤くさせる。
「そ、そんな事ありませんよぉ。私ももう一六〇ですし。あれが普通ですよ?」
くねくねと、羽織の袖を振って言い訳をするユキメ。いつまでも見ていたいほど可愛い。
ちなみに一六〇歳と言ってはいるが、見た目は二十手前ほどだ。
「で、では。改めまして。龍人の特性、その龍血のなんたるかを学んでいきましょう」
たくさんの龍人が往来する花柳町の大通りを歩きながら、ユキメは小さく咳払いをしてそう言った。
……まさかここでやるのか?
「見せてくれるって言ったけど、どこでやるの?」
ユキメは立ち止まると、人差し指をまっすぐ立て、それを下に向けた。
「下界です」
――――下界!?
説明しよう。下界とは、天つ神の住む天界とは違い、まだまだインフラも整っていない無法地帯。天都の神々は、これを中つ国と呼んでいる。
そして、アマハル様の統治が行き届いていないせいか、数々の妖怪や獣。さらに下界を支配せんと息巻く神々が日々跋扈している。
……と、私は家の書物で読んだのだが、果たしてどこまでが正しいのか。まあ、とにかく危ない所だ。
「下界って、危なくないの?」
アマハル様の神使と言えど私はまだまだ子供だ。そんなスラム街のような場所には、流石に恐怖を覚える。
「ご安心を。今回行く場所は、葦原で唯一天つ神が統べている所ですから。それに、ソウ様には私が付いております」
確かにユキメは頼りになる。天の山腹でもユキメは私を守り続けてくれた。でも、それはあくまで天界の範囲を出ない。彼女の力が一体どこまで下界で通用するのか、正直私は測りかねている。
「それは心強いけど。でも一体、どうやって中つ国まで行くの?」
ユキメは土筆のように細い人差し指を、今度は空へと向けた。
「翔んでいきます」
かなり飛んでいる発言に聞こえるが、龍人族は龍の末裔。鳥が空を飛べるように、魚が海で呼吸できるように。龍も当然の如く宙を翔けるのだ。
「龍人が翔ぶ事を許されているのは六十歳からだよね? 私まだ三十だよ?」
龍人の子は六十になると、母親の子宮の中で共に育った龍玉が渡される。一般的には龍人も龍玉も、六十歳でようやく一人前と呼ばれるのだ。
「もちろん私が責任もって背負いますよ」
――――正直かなり不安だ。命綱もなしに綱渡りしているようなものだろう。背負うのがユキメじゃなかったら私は断っていた。
「ユキメなら安心だけど。ちょっと怖いかも」
「安心してください。この命に代えても、ソウ様には傷一つ付けませんから」
よく漫画とかで使われるセリフだけど、ユキメが言うと一段と頼もしいな。
「よし頼んだ」
まるでジェットコースターの列に並んでいるような感覚だ。ずっとドキドキしている。緊張をほぐす方法なんていくらでもあるが、どれも役に立った記憶はない。
「ところで、ユキメの龍玉ってどんなの?」
私がそう言うと、ユキメは自分の胸元に手を入れ、小さな首飾りを取り出して私に見せる。
「これが私の龍玉です。この世にただ一つだけですから、無くさないように首にかけているのです」
人差し指と親指でつまむ翆色の宝石。目を凝らして中を見てみると、太陽のような球体が絶えず光を放ち続けている。
――――なるほど。ビー玉くらいの大きさしかないのか。
「綺麗…………」
龍人の瞳といい勝負だ。
「ちなみに龍玉の色は人それぞれで、男の子なら冷たい色。女の子なら暖かい色で産まれてくるんですよ」
「だからユキメの龍玉は明るい緑なのか」
「はい。ソウ様の龍玉もきっと、太陽のように明るい宝玉ですよ」
美しい宝石を見たことで少し緊張が和らいできた。やはり美しさとは無敵なのだ。私も早く自分の龍玉が欲しい。
――――花柳町の外れ。天千陽の端。そこから見えるは美しい太陽に、雪原のように真っ白な雲の絨毯。少し息を吹きかければ散ってしまうタンポポの綿毛の様だ。
「準備はいいですか?」
子供の私からしたら十分に広い背中。そこで私はユキメに背負われる。耳を当てると鼓動が聞こえ、流れる血液は産湯のように暖かい。……あと、いい匂いがする。
「くれぐれも髪の毛は引っ張らないでくださいね。集中が途切れてしまいますから」
危ない危ない。もう少しで掴むところだった。――ところで、後ろで結った髪の毛を引っ張りたくなるのは私だけだろうか?
「行きますよお」
「――――三秒数えてから飛んで!」
下は雲。しかし十分な高さがあることは分かる。それはまるでフリーフォール。この三秒は、心の準備をするための三秒だ。
「分かりました。それでは、三……二……」
動悸がヤバい。息が荒い。ヤバイヤバいヤバイヤバイッ。
「いち!」
ユキメは何のためらいもせず、断崖の先端から身を落とした。
――――凄まじい落下速度。それは周りの景色が物語っている。ふと目の前に鳥がいたかと思うと、次の瞬間には遥か上空へ消えているほどだ。
でも待てよ。これだけの速さなのに、風も感じなければ、落下する際の負荷も感じない。これも龍玉の力なのか?
そうしてしばらく落下すると、その速度は次第に緩やかになり、仕舞には空中で停まれるほどの速度となった。
「これが、龍血の力の一つ。龍昇です」
雲に立つかのように滞空するユキメは、顔を横に向け背中の私に優しくそう言った。だが、私の頭の中を満たしているのはたった一つの感想だけ。
――――龍昇すげえ!
あれだけ下方に見えていた雲も、今では目と鼻の先にある。そしてこの雲を抜ければ、そこはもう中つ国だ。
――――昔から空を眺めては、雲の上はどうなっているのかと想像をしていた。しかし今はそれが目の前にある。
青く黒い宙に、雲の海を照らす太陽。そして輝くは真っ白な絨毯。これぞファンタジー。天空の城はないが、私はこれで十分満足だ。
「ここまでは大丈夫ですか?」
「うん」
いつもの優しい声だ。最近ユキメの声を聞くと、たとえ家にいようとも守られているような気持ちになる。
「それでは、ここから先は中つ国。天つ神ですら近寄らない未開の土地です」
「……うん」
もう全部任せた。私は一生ユキメから離れないから、全部好きにしてくれ。
「それでは、参りましょう」
そうして私たちは、釣り糸が切れたかのように再び落下する。
しかし雲の中に入ると、そこは真っ白な景色ではなく、濁ったような鉛色一色が広がっている。さらに雷でも鳴っているのか、奥の方では時折閃光が走る。
――――その際に見える大きな影は、きっとただの雲だ。決して生き物などではない。きっとそうだ。こんな所に住んでいる生き物なんているはずがない。
「ご覧ください。あれが龍ですよ」
………………え?
その瞬間、雲の中から大きな龍が顔を覗かせた。いや、大きな龍なんてどころの話ではない。想像していた何倍もの巨体だ。
――――髭は大川のように太く靡き、口から覗く牙は巨木のように長い。そして山のように大きな瞳に睨まれると、あまつさえ呼吸する事を忘れてしまう。
「じゃそいのあいのんだんば」
「…………神獣の喋り方苦手なんだよなぁ」
しかしその龍は、私たちには関心を示さず、長い胴体を風になびく旗のようにうねらせながら、そのまま雲の中へと消えて行った。
「ユキメ…………。アレは?」
「天下龍。この空の主です。あの龍が空を守っているからこそ、天界は何者の侵略も受けないのです」
という事は私たちの味方なのか? それにしては話の通じなさそうな眼をしていた。海の巨大生物も怖いけど、空もまあまあヤバいな。
すると一筋の光が雲の隙間を縫い、歓迎するかのように私たちを照らした。見るとそこからは、青汁のように青々とした大地が広がっている。
「着きましたよ。あれが葦原中つ国。大和国です」
雲を抜け、ユキメの言葉に誘われて恐る恐る下を見下ろす。
――――すると目の前に広がるのは、遥か彼方まで広がっている山々に、見渡す限り続く紺碧の海。そして所々に確認できる町や村からは煙が上がっており、誰かが生活しているのは一目瞭然だ。
「広……」
「中つ国は天都の倍はありますからね」
それゆえに、アマハル様も手に余しているという事か。確かに、いくら最高神でもこの広さはちょっと手に負えなさそうだ。
「それでは、適当なところに足を着けます。どこがいいですか?」
これは迷うな。初めて空を飛ぶRPGゲームの主人公の気分だ。
しかし山中は虫が多そうで嫌だしなぁ。海辺は怖そうな生き物がいそうだし、かといって知らない町っていうのも気が引ける。
私は地上を見下ろしながら、どうしたものかと考える。すると、山間を縫うように奔る、一つの大川が目に入った。
「じゃあ、あの川!」
ユキメは私が指さした方を見ると「分かりました」と返事をし、再び速度を上げてその川へと向かう。
「……お疲れ様です。ソウ様」
――――そうして無事地上に降り立った私たちは、川辺に腰を降ろし竹水筒の水を飲みながら、天界にはない青い自然を満喫していた。
「どうやら季節は夏の様ですねぇ」
紺色の羽織を脱ぎ、ユキメは汗で吸い付く髪を、高く結い直しながら呟く。
「どうりで暑いと思ったぁ」
流石に現代よりかは暑くないが、このじめじめとした蒸し暑さだけは大差ない。
ああ、この袴を脱いで、今すぐ川に飛び込みたい。
「川を汚さなければ、何をしても罰は当たりませんよ」
「でもなあ」
まるで心を読んでいるかのような提案をしてくる。でもさすがに袴は脱げないし、かといって水着がある訳でもない。
……そうしてあたしが考え更けていると、ユキメが袴をたくし上げ、そのすらりと伸びた白い足を川に沈めた。
「それいいね、あたしもやる!」
スカート程ではないが、袴をたくし上げるのも少し恥ずかしい。
などと考えながら、私は恐る恐る水面に足を近付ける。そして指先が触れた瞬間、熱くなった血液が、そこから一気に冷やされていくのを感じる。
「気持ちい……」
今も子共だけど、まるで童心に帰ったようだ。
「あまり深い所には行かないでくださいね」
私がざぶざぶと川をかき分け離れると、ユキメが心配そうに私を見てくる。どうやら私の恐怖心は、この自然に囲まれたことで少し薄れているみたいだ。
まあ、少しくらいなら大丈夫だろう。五メートルくらいならユキメと離れていても直ぐに戻れる。だからもう少しだけ深い所へ。
「大丈夫だよ! ユキメは心配しすぎ」
――――と、その時、突然後ろから唸るような声が聞こえた。
龍の本能か、それとも野生の勘か、私はその唸り声が危険なものだと直ぐに感じ取った。
「ソウ様ッ!」
とっさに振り返る。黒か茶色か分からない色が、まるで壁紙のように私の目の前を覆っている。
そして恐る恐る視線を上げると――――。
「…………熊?」
大岩のような巨体を持つ熊が、今まさにその大爪を振り下ろさんと、私を見下ろしながら息巻いていた。
家の門まで行くと、ユキメは既に会釈をしながら私を待っていた。一体何分前から待っていたのだろう。それとも何時間?
「お早うございます」
ユキメに挨拶を返し、私は彼女に約束していた話を持ち出す。
「――――そういえば昨夜、父上と母上に聞いたんだけど」
私がその言葉から始めると、ユキメは何かを察したように、みるみると表情を明るくさせる。恐らくずっと気にしていたのだろう。可愛い。
「ユキメは女官ではなく家族だと思っているから、今日からでも家に来なさい。だってさ」
途端に、ユキメの鼻息が荒くなるのが分かった。よほど嬉しいのだろう、彼女は膝から泣き崩れてしまった。
「ううう。コレは夢ではないのですよね?」
自分の頬をつねるユキメ。その大福のように伸びる頬は次第に赤みを帯びていく。というか他の侍女も見ているというのに、よくぞここまで泣けるものだ。
「ほおら、行くよユキメ。皆見てるから」
私の足元にしがみ付く彼女を、私は何とか引っ張り上げようとするがビクともしない。この様子じゃ多分、あと一時間は泣く。
「そうだユキメ。武鞭の前に花柳町で朝ごはん食べようよ」
恐らく、今のユキメに一番効果のある言葉。私はそれを半ば投げやりのように言い放つと、ユキメは血相を変えて立ち上がった。
「…………そうですね、参りましょう」
多分彼女の中での優先順位は、ヨウ家よりご飯の方が若干上回っているのかもしれない。よく分からない子だ。
――――そうして花柳町に降りてきた私たちは、二人で話し合って朝は蕎麦を食べることにした。私は既に朝食を済ませているが、蕎麦なら入るだろう。
店に入ると、既に他の龍人も何人か見える。そして店の女将がやってきて、私たちを席まで案内してくれた。
「ところで、今日の武鞭は何するの?」
お子様用のざる蕎麦を頼んだ私は、出された煎茶をすすりながらユキメに問う。
「はい。今日は龍人のもう一つの特性。“龍血"について学ぼうと思っております」
既に注文したというのに、ユキメはまだ品書きに夢中になっている。そんなに眺めても、蕎麦は出てこないというのに。
「龍血かあ。書物である程度読んだけど、ちょっと難しかったなあ」
これは事実だ。
「ご自宅でも励んでおられるのですね。ユキメは関心です」
――――そう言って口角を吊り上げると、ぱたりと品書きを閉じ、ユキメは話を切り出す。
「まず龍血とは、私たちの身体に流れる“龍の血”を使って、武具を強化したり。あとは龍の特性を利用した部位変化などですね」
龍の血の事は知っている。龍の血には微弱ながらも神が宿っている。しかも、とても位の低い神だから、契約をせずとも龍人はその力を使役できるのだ。
「血の神と龍人は、はるか昔から深い交友があるんだよね?」
「流石、よく勉強されていますね」
ユキメはとても満足そうに笑う。たぶんこの人は、私が何をしても笑って喜んでくれるのだろうな。
「でも、部位変化って何?」
私がそう切り返したところで、店の女将が両手に蕎麦を持って現れた。
そしてユキメはまるで、蕎麦から目を離せられない呪いにかけられているかのように、お盆の上に並ぶ蕎麦や薬味に釘付けだ。
「それは直接見た方が早いので、ここを出たらお見せしますね」
おまえ早く食べたいだけだろ。
と、溜め息。仕方なく、私も目の前に置かれた蕎麦を食べることにする。
「いただきます」
――――とても上品に仕上げられた竹ざるに、柔らかい色をした蕎麦が程よく盛られている。
一本一本が水気を帯びていて、その乱反射する様は、まるで水面の様だ。
お盆の上には小鉢がたくさん置かれており、それぞれに生姜、柚子、刻み葱、ミョウガなどが盛られ、一つの町のように多彩な色が混ざっている。
先ずは薬味もつゆもつけず、蕎麦だけを口に入れる。
こんにゃくのような弾力だが、少し力を入れると素直にほぐれる。穀物の大胆な風味と、繊細なそば粉の匂いが鼻を抜ける。
次に蕎麦を少しだけつゆに浸けて啜る。口に広がる甘じょっぱいつゆの風味が、噛むたびに蕎麦と溶け合って、せせらぎの様に喉の奥へと流れていく。
私は薬味をつゆに入れず、食べる分だけ蕎麦に乗せて食べる。こうすることで、薬味それぞれの味を一つ一つ味わうことが出来るのだ。
「…………良き」
やはり蕎麦は、どこの世界でも変わらず美味いな。
ふとユキメを見ると、彼女はおもむろに盆の上の薬味を全てつゆに投入した。
――――ま、まあ、食べ方は人それぞれだ。美味しければいい。
それからユキメが何杯蕎麦を食べたのかは、言わずもがなだろう。
「しかし、本当にユキメはよく食べるね」
勘定を済ませて店を出たすぐに、私はユキメにそう言った。少しデリカシーがなかったか、彼女はリンゴの様に顔を赤くさせる。
「そ、そんな事ありませんよぉ。私ももう一六〇ですし。あれが普通ですよ?」
くねくねと、羽織の袖を振って言い訳をするユキメ。いつまでも見ていたいほど可愛い。
ちなみに一六〇歳と言ってはいるが、見た目は二十手前ほどだ。
「で、では。改めまして。龍人の特性、その龍血のなんたるかを学んでいきましょう」
たくさんの龍人が往来する花柳町の大通りを歩きながら、ユキメは小さく咳払いをしてそう言った。
……まさかここでやるのか?
「見せてくれるって言ったけど、どこでやるの?」
ユキメは立ち止まると、人差し指をまっすぐ立て、それを下に向けた。
「下界です」
――――下界!?
説明しよう。下界とは、天つ神の住む天界とは違い、まだまだインフラも整っていない無法地帯。天都の神々は、これを中つ国と呼んでいる。
そして、アマハル様の統治が行き届いていないせいか、数々の妖怪や獣。さらに下界を支配せんと息巻く神々が日々跋扈している。
……と、私は家の書物で読んだのだが、果たしてどこまでが正しいのか。まあ、とにかく危ない所だ。
「下界って、危なくないの?」
アマハル様の神使と言えど私はまだまだ子供だ。そんなスラム街のような場所には、流石に恐怖を覚える。
「ご安心を。今回行く場所は、葦原で唯一天つ神が統べている所ですから。それに、ソウ様には私が付いております」
確かにユキメは頼りになる。天の山腹でもユキメは私を守り続けてくれた。でも、それはあくまで天界の範囲を出ない。彼女の力が一体どこまで下界で通用するのか、正直私は測りかねている。
「それは心強いけど。でも一体、どうやって中つ国まで行くの?」
ユキメは土筆のように細い人差し指を、今度は空へと向けた。
「翔んでいきます」
かなり飛んでいる発言に聞こえるが、龍人族は龍の末裔。鳥が空を飛べるように、魚が海で呼吸できるように。龍も当然の如く宙を翔けるのだ。
「龍人が翔ぶ事を許されているのは六十歳からだよね? 私まだ三十だよ?」
龍人の子は六十になると、母親の子宮の中で共に育った龍玉が渡される。一般的には龍人も龍玉も、六十歳でようやく一人前と呼ばれるのだ。
「もちろん私が責任もって背負いますよ」
――――正直かなり不安だ。命綱もなしに綱渡りしているようなものだろう。背負うのがユキメじゃなかったら私は断っていた。
「ユキメなら安心だけど。ちょっと怖いかも」
「安心してください。この命に代えても、ソウ様には傷一つ付けませんから」
よく漫画とかで使われるセリフだけど、ユキメが言うと一段と頼もしいな。
「よし頼んだ」
まるでジェットコースターの列に並んでいるような感覚だ。ずっとドキドキしている。緊張をほぐす方法なんていくらでもあるが、どれも役に立った記憶はない。
「ところで、ユキメの龍玉ってどんなの?」
私がそう言うと、ユキメは自分の胸元に手を入れ、小さな首飾りを取り出して私に見せる。
「これが私の龍玉です。この世にただ一つだけですから、無くさないように首にかけているのです」
人差し指と親指でつまむ翆色の宝石。目を凝らして中を見てみると、太陽のような球体が絶えず光を放ち続けている。
――――なるほど。ビー玉くらいの大きさしかないのか。
「綺麗…………」
龍人の瞳といい勝負だ。
「ちなみに龍玉の色は人それぞれで、男の子なら冷たい色。女の子なら暖かい色で産まれてくるんですよ」
「だからユキメの龍玉は明るい緑なのか」
「はい。ソウ様の龍玉もきっと、太陽のように明るい宝玉ですよ」
美しい宝石を見たことで少し緊張が和らいできた。やはり美しさとは無敵なのだ。私も早く自分の龍玉が欲しい。
――――花柳町の外れ。天千陽の端。そこから見えるは美しい太陽に、雪原のように真っ白な雲の絨毯。少し息を吹きかければ散ってしまうタンポポの綿毛の様だ。
「準備はいいですか?」
子供の私からしたら十分に広い背中。そこで私はユキメに背負われる。耳を当てると鼓動が聞こえ、流れる血液は産湯のように暖かい。……あと、いい匂いがする。
「くれぐれも髪の毛は引っ張らないでくださいね。集中が途切れてしまいますから」
危ない危ない。もう少しで掴むところだった。――ところで、後ろで結った髪の毛を引っ張りたくなるのは私だけだろうか?
「行きますよお」
「――――三秒数えてから飛んで!」
下は雲。しかし十分な高さがあることは分かる。それはまるでフリーフォール。この三秒は、心の準備をするための三秒だ。
「分かりました。それでは、三……二……」
動悸がヤバい。息が荒い。ヤバイヤバいヤバイヤバイッ。
「いち!」
ユキメは何のためらいもせず、断崖の先端から身を落とした。
――――凄まじい落下速度。それは周りの景色が物語っている。ふと目の前に鳥がいたかと思うと、次の瞬間には遥か上空へ消えているほどだ。
でも待てよ。これだけの速さなのに、風も感じなければ、落下する際の負荷も感じない。これも龍玉の力なのか?
そうしてしばらく落下すると、その速度は次第に緩やかになり、仕舞には空中で停まれるほどの速度となった。
「これが、龍血の力の一つ。龍昇です」
雲に立つかのように滞空するユキメは、顔を横に向け背中の私に優しくそう言った。だが、私の頭の中を満たしているのはたった一つの感想だけ。
――――龍昇すげえ!
あれだけ下方に見えていた雲も、今では目と鼻の先にある。そしてこの雲を抜ければ、そこはもう中つ国だ。
――――昔から空を眺めては、雲の上はどうなっているのかと想像をしていた。しかし今はそれが目の前にある。
青く黒い宙に、雲の海を照らす太陽。そして輝くは真っ白な絨毯。これぞファンタジー。天空の城はないが、私はこれで十分満足だ。
「ここまでは大丈夫ですか?」
「うん」
いつもの優しい声だ。最近ユキメの声を聞くと、たとえ家にいようとも守られているような気持ちになる。
「それでは、ここから先は中つ国。天つ神ですら近寄らない未開の土地です」
「……うん」
もう全部任せた。私は一生ユキメから離れないから、全部好きにしてくれ。
「それでは、参りましょう」
そうして私たちは、釣り糸が切れたかのように再び落下する。
しかし雲の中に入ると、そこは真っ白な景色ではなく、濁ったような鉛色一色が広がっている。さらに雷でも鳴っているのか、奥の方では時折閃光が走る。
――――その際に見える大きな影は、きっとただの雲だ。決して生き物などではない。きっとそうだ。こんな所に住んでいる生き物なんているはずがない。
「ご覧ください。あれが龍ですよ」
………………え?
その瞬間、雲の中から大きな龍が顔を覗かせた。いや、大きな龍なんてどころの話ではない。想像していた何倍もの巨体だ。
――――髭は大川のように太く靡き、口から覗く牙は巨木のように長い。そして山のように大きな瞳に睨まれると、あまつさえ呼吸する事を忘れてしまう。
「じゃそいのあいのんだんば」
「…………神獣の喋り方苦手なんだよなぁ」
しかしその龍は、私たちには関心を示さず、長い胴体を風になびく旗のようにうねらせながら、そのまま雲の中へと消えて行った。
「ユキメ…………。アレは?」
「天下龍。この空の主です。あの龍が空を守っているからこそ、天界は何者の侵略も受けないのです」
という事は私たちの味方なのか? それにしては話の通じなさそうな眼をしていた。海の巨大生物も怖いけど、空もまあまあヤバいな。
すると一筋の光が雲の隙間を縫い、歓迎するかのように私たちを照らした。見るとそこからは、青汁のように青々とした大地が広がっている。
「着きましたよ。あれが葦原中つ国。大和国です」
雲を抜け、ユキメの言葉に誘われて恐る恐る下を見下ろす。
――――すると目の前に広がるのは、遥か彼方まで広がっている山々に、見渡す限り続く紺碧の海。そして所々に確認できる町や村からは煙が上がっており、誰かが生活しているのは一目瞭然だ。
「広……」
「中つ国は天都の倍はありますからね」
それゆえに、アマハル様も手に余しているという事か。確かに、いくら最高神でもこの広さはちょっと手に負えなさそうだ。
「それでは、適当なところに足を着けます。どこがいいですか?」
これは迷うな。初めて空を飛ぶRPGゲームの主人公の気分だ。
しかし山中は虫が多そうで嫌だしなぁ。海辺は怖そうな生き物がいそうだし、かといって知らない町っていうのも気が引ける。
私は地上を見下ろしながら、どうしたものかと考える。すると、山間を縫うように奔る、一つの大川が目に入った。
「じゃあ、あの川!」
ユキメは私が指さした方を見ると「分かりました」と返事をし、再び速度を上げてその川へと向かう。
「……お疲れ様です。ソウ様」
――――そうして無事地上に降り立った私たちは、川辺に腰を降ろし竹水筒の水を飲みながら、天界にはない青い自然を満喫していた。
「どうやら季節は夏の様ですねぇ」
紺色の羽織を脱ぎ、ユキメは汗で吸い付く髪を、高く結い直しながら呟く。
「どうりで暑いと思ったぁ」
流石に現代よりかは暑くないが、このじめじめとした蒸し暑さだけは大差ない。
ああ、この袴を脱いで、今すぐ川に飛び込みたい。
「川を汚さなければ、何をしても罰は当たりませんよ」
「でもなあ」
まるで心を読んでいるかのような提案をしてくる。でもさすがに袴は脱げないし、かといって水着がある訳でもない。
……そうしてあたしが考え更けていると、ユキメが袴をたくし上げ、そのすらりと伸びた白い足を川に沈めた。
「それいいね、あたしもやる!」
スカート程ではないが、袴をたくし上げるのも少し恥ずかしい。
などと考えながら、私は恐る恐る水面に足を近付ける。そして指先が触れた瞬間、熱くなった血液が、そこから一気に冷やされていくのを感じる。
「気持ちい……」
今も子共だけど、まるで童心に帰ったようだ。
「あまり深い所には行かないでくださいね」
私がざぶざぶと川をかき分け離れると、ユキメが心配そうに私を見てくる。どうやら私の恐怖心は、この自然に囲まれたことで少し薄れているみたいだ。
まあ、少しくらいなら大丈夫だろう。五メートルくらいならユキメと離れていても直ぐに戻れる。だからもう少しだけ深い所へ。
「大丈夫だよ! ユキメは心配しすぎ」
――――と、その時、突然後ろから唸るような声が聞こえた。
龍の本能か、それとも野生の勘か、私はその唸り声が危険なものだと直ぐに感じ取った。
「ソウ様ッ!」
とっさに振り返る。黒か茶色か分からない色が、まるで壁紙のように私の目の前を覆っている。
そして恐る恐る視線を上げると――――。
「…………熊?」
大岩のような巨体を持つ熊が、今まさにその大爪を振り下ろさんと、私を見下ろしながら息巻いていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
2
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる