上 下
6 / 7

ついに下界へ降臨します

しおりを挟む
「お早うございます。ソウ様」

 家の門まで行くと、ユキメは既に会釈をしながら私を待っていた。一体何分前から待っていたのだろう。それとも何時間?

「お早うございます」
 ユキメに挨拶を返し、私は彼女に約束していた話を持ち出す。
「――――そういえば昨夜、父上と母上に聞いたんだけど」

 私がその言葉から始めると、ユキメは何かを察したように、みるみると表情を明るくさせる。恐らくずっと気にしていたのだろう。可愛い。

「ユキメは女官ではなく家族だと思っているから、今日からでも家に来なさい。だってさ」

 途端に、ユキメの鼻息が荒くなるのが分かった。よほど嬉しいのだろう、彼女は膝から泣き崩れてしまった。

「ううう。コレは夢ではないのですよね?」

 自分の頬をつねるユキメ。その大福のように伸びる頬は次第に赤みを帯びていく。というか他の侍女も見ているというのに、よくぞここまで泣けるものだ。

「ほおら、行くよユキメ。皆見てるから」

 私の足元にしがみ付く彼女を、私は何とか引っ張り上げようとするがビクともしない。この様子じゃ多分、あと一時間は泣く。

「そうだユキメ。武鞭の前に花柳町で朝ごはん食べようよ」

 恐らく、今のユキメに一番効果のある言葉。私はそれを半ば投げやりのように言い放つと、ユキメは血相を変えて立ち上がった。

「…………そうですね、参りましょう」

 多分彼女の中での優先順位は、ヨウ家よりご飯の方が若干上回っているのかもしれない。よく分からない子だ。

 ――――そうして花柳町に降りてきた私たちは、二人で話し合って朝は蕎麦を食べることにした。私は既に朝食を済ませているが、蕎麦なら入るだろう。
 店に入ると、既に他の龍人も何人か見える。そして店の女将がやってきて、私たちを席まで案内してくれた。

「ところで、今日の武鞭は何するの?」
 お子様用のざる蕎麦を頼んだ私は、出された煎茶をすすりながらユキメに問う。
「はい。今日は龍人のもう一つの特性。“龍血"について学ぼうと思っております」

 既に注文したというのに、ユキメはまだ品書きに夢中になっている。そんなに眺めても、蕎麦は出てこないというのに。

「龍血かあ。書物である程度読んだけど、ちょっと難しかったなあ」
 これは事実だ。
「ご自宅でも励んでおられるのですね。ユキメは関心です」

 ――――そう言って口角を吊り上げると、ぱたりと品書きを閉じ、ユキメは話を切り出す。

「まず龍血とは、私たちの身体に流れる“龍の血”を使って、武具を強化したり。あとは龍の特性を利用した部位変化などですね」

 龍の血の事は知っている。龍の血には微弱ながらも神が宿っている。しかも、とても位の低い神だから、契約をせずとも龍人はその力を使役できるのだ。

「血の神と龍人は、はるか昔から深い交友があるんだよね?」
「流石、よく勉強されていますね」

 ユキメはとても満足そうに笑う。たぶんこの人は、私が何をしても笑って喜んでくれるのだろうな。

「でも、部位変化って何?」

 私がそう切り返したところで、店の女将が両手に蕎麦を持って現れた。
 そしてユキメはまるで、蕎麦から目を離せられない呪いにかけられているかのように、お盆の上に並ぶ蕎麦や薬味に釘付けだ。

「それは直接見た方が早いので、ここを出たらお見せしますね」

 おまえ早く食べたいだけだろ。
 と、溜め息。仕方なく、私も目の前に置かれた蕎麦を食べることにする。

「いただきます」

 ――――とても上品に仕上げられた竹ざるに、柔らかい色をした蕎麦が程よく盛られている。
 一本一本が水気を帯びていて、その乱反射する様は、まるで水面の様だ。

 お盆の上には小鉢がたくさん置かれており、それぞれに生姜、柚子、刻み葱、ミョウガなどが盛られ、一つの町のように多彩な色が混ざっている。

 先ずは薬味もつゆもつけず、蕎麦だけを口に入れる。
 こんにゃくのような弾力だが、少し力を入れると素直にほぐれる。穀物の大胆な風味と、繊細なそば粉の匂いが鼻を抜ける。

 次に蕎麦を少しだけつゆに浸けて啜る。口に広がる甘じょっぱいつゆの風味が、噛むたびに蕎麦と溶け合って、せせらぎの様に喉の奥へと流れていく。

 私は薬味をつゆに入れず、食べる分だけ蕎麦に乗せて食べる。こうすることで、薬味それぞれの味を一つ一つ味わうことが出来るのだ。

「…………良き」

 やはり蕎麦は、どこの世界でも変わらず美味いな。
 ふとユキメを見ると、彼女はおもむろに盆の上の薬味を全てつゆに投入した。

 ――――ま、まあ、食べ方は人それぞれだ。美味しければいい。
 それからユキメが何杯蕎麦を食べたのかは、言わずもがなだろう。



「しかし、本当にユキメはよく食べるね」

 勘定を済ませて店を出たすぐに、私はユキメにそう言った。少しデリカシーがなかったか、彼女はリンゴの様に顔を赤くさせる。

「そ、そんな事ありませんよぉ。私ももう一六〇ですし。あれが普通ですよ?」

 くねくねと、羽織の袖を振って言い訳をするユキメ。いつまでも見ていたいほど可愛い。
 ちなみに一六〇歳と言ってはいるが、見た目は二十手前ほどだ。

「で、では。改めまして。龍人の特性、その龍血のなんたるかを学んでいきましょう」

 たくさんの龍人が往来する花柳町の大通りを歩きながら、ユキメは小さく咳払いをしてそう言った。
 ……まさかここでやるのか?

「見せてくれるって言ったけど、どこでやるの?」
 ユキメは立ち止まると、人差し指をまっすぐ立て、それを下に向けた。
「下界です」
 ――――下界!?

 説明しよう。下界とは、天つ神の住む天界とは違い、まだまだインフラも整っていない無法地帯。天都の神々は、これを中つ国と呼んでいる。
 そして、アマハル様の統治が行き届いていないせいか、数々の妖怪や獣。さらに下界を支配せんと息巻く神々が日々跋扈している。

 ……と、私は家の書物で読んだのだが、果たしてどこまでが正しいのか。まあ、とにかく危ない所だ。

「下界って、危なくないの?」

 アマハル様の神使と言えど私はまだまだ子供だ。そんなスラム街のような場所には、流石に恐怖を覚える。

「ご安心を。今回行く場所は、葦原で唯一天つ神が統べている所ですから。それに、ソウ様には私が付いております」

 確かにユキメは頼りになる。天の山腹でもユキメは私を守り続けてくれた。でも、それはあくまで天界の範囲を出ない。彼女の力が一体どこまで下界で通用するのか、正直私は測りかねている。

「それは心強いけど。でも一体、どうやって中つ国まで行くの?」
 ユキメは土筆のように細い人差し指を、今度は空へと向けた。
「翔んでいきます」

 かなり飛んでいる発言に聞こえるが、龍人族は龍の末裔。鳥が空を飛べるように、魚が海で呼吸できるように。龍も当然の如く宙を翔けるのだ。

「龍人が翔ぶ事を許されているのは六十歳からだよね? 私まだ三十だよ?」

 龍人の子は六十になると、母親の子宮の中で共に育った龍玉が渡される。一般的には龍人も龍玉も、六十歳でようやく一人前と呼ばれるのだ。

「もちろん私が責任もって背負いますよ」

 ――――正直かなり不安だ。命綱もなしに綱渡りしているようなものだろう。背負うのがユキメじゃなかったら私は断っていた。

「ユキメなら安心だけど。ちょっと怖いかも」
「安心してください。この命に代えても、ソウ様には傷一つ付けませんから」
 よく漫画とかで使われるセリフだけど、ユキメが言うと一段と頼もしいな。
「よし頼んだ」

 まるでジェットコースターの列に並んでいるような感覚だ。ずっとドキドキしている。緊張をほぐす方法なんていくらでもあるが、どれも役に立った記憶はない。

「ところで、ユキメの龍玉ってどんなの?」

 私がそう言うと、ユキメは自分の胸元に手を入れ、小さな首飾りを取り出して私に見せる。

「これが私の龍玉です。この世にただ一つだけですから、無くさないように首にかけているのです」

 人差し指と親指でつまむ翆色の宝石。目を凝らして中を見てみると、太陽のような球体が絶えず光を放ち続けている。
 ――――なるほど。ビー玉くらいの大きさしかないのか。

「綺麗…………」
 龍人の瞳といい勝負だ。
「ちなみに龍玉の色は人それぞれで、男の子なら冷たい色。女の子なら暖かい色で産まれてくるんですよ」
「だからユキメの龍玉は明るい緑なのか」
「はい。ソウ様の龍玉もきっと、太陽のように明るい宝玉ですよ」

 美しい宝石を見たことで少し緊張が和らいできた。やはり美しさとは無敵なのだ。私も早く自分の龍玉が欲しい。


 ――――花柳町の外れ。天千陽の端。そこから見えるは美しい太陽に、雪原のように真っ白な雲の絨毯。少し息を吹きかければ散ってしまうタンポポの綿毛の様だ。

「準備はいいですか?」

 子供の私からしたら十分に広い背中。そこで私はユキメに背負われる。耳を当てると鼓動が聞こえ、流れる血液は産湯のように暖かい。……あと、いい匂いがする。

「くれぐれも髪の毛は引っ張らないでくださいね。集中が途切れてしまいますから」

 危ない危ない。もう少しで掴むところだった。――ところで、後ろで結った髪の毛を引っ張りたくなるのは私だけだろうか?

「行きますよお」
「――――三秒数えてから飛んで!」

 下は雲。しかし十分な高さがあることは分かる。それはまるでフリーフォール。この三秒は、心の準備をするための三秒だ。

「分かりました。それでは、三……二……」

 動悸がヤバい。息が荒い。ヤバイヤバいヤバイヤバイッ。

「いち!」

 ユキメは何のためらいもせず、断崖の先端から身を落とした。

 ――――凄まじい落下速度。それは周りの景色が物語っている。ふと目の前に鳥がいたかと思うと、次の瞬間には遥か上空へ消えているほどだ。

 でも待てよ。これだけの速さなのに、風も感じなければ、落下する際の負荷も感じない。これも龍玉の力なのか?

 そうしてしばらく落下すると、その速度は次第に緩やかになり、仕舞には空中で停まれるほどの速度となった。

「これが、龍血の力の一つ。龍昇です」

 雲に立つかのように滞空するユキメは、顔を横に向け背中の私に優しくそう言った。だが、私の頭の中を満たしているのはたった一つの感想だけ。

 ――――龍昇すげえ!

 あれだけ下方に見えていた雲も、今では目と鼻の先にある。そしてこの雲を抜ければ、そこはもう中つ国だ。

 ――――昔から空を眺めては、雲の上はどうなっているのかと想像をしていた。しかし今はそれが目の前にある。
 青く黒い宙に、雲の海を照らす太陽。そして輝くは真っ白な絨毯。これぞファンタジー。天空の城はないが、私はこれで十分満足だ。

「ここまでは大丈夫ですか?」
「うん」

 いつもの優しい声だ。最近ユキメの声を聞くと、たとえ家にいようとも守られているような気持ちになる。

「それでは、ここから先は中つ国。天つ神ですら近寄らない未開の土地です」
「……うん」
 もう全部任せた。私は一生ユキメから離れないから、全部好きにしてくれ。
「それでは、参りましょう」

 そうして私たちは、釣り糸が切れたかのように再び落下する。
 しかし雲の中に入ると、そこは真っ白な景色ではなく、濁ったような鉛色一色が広がっている。さらに雷でも鳴っているのか、奥の方では時折閃光が走る。

 ――――その際に見える大きな影は、きっとただの雲だ。決して生き物などではない。きっとそうだ。こんな所に住んでいる生き物なんているはずがない。

「ご覧ください。あれが龍ですよ」

 ………………え?

 その瞬間、雲の中から大きな龍が顔を覗かせた。いや、大きな龍なんてどころの話ではない。想像していた何倍もの巨体だ。

 ――――髭は大川のように太く靡き、口から覗く牙は巨木のように長い。そして山のように大きな瞳に睨まれると、あまつさえ呼吸する事を忘れてしまう。

「じゃそいのあいのんだんば」
「…………神獣の喋り方苦手なんだよなぁ」

 しかしその龍は、私たちには関心を示さず、長い胴体を風になびく旗のようにうねらせながら、そのまま雲の中へと消えて行った。

「ユキメ…………。アレは?」

「天下龍。この空の主です。あの龍が空を守っているからこそ、天界は何者の侵略も受けないのです」

 という事は私たちの味方なのか? それにしては話の通じなさそうな眼をしていた。海の巨大生物も怖いけど、空もまあまあヤバいな。

 すると一筋の光が雲の隙間を縫い、歓迎するかのように私たちを照らした。見るとそこからは、青汁のように青々とした大地が広がっている。

「着きましたよ。あれが葦原中つ国。大和国です」

 雲を抜け、ユキメの言葉に誘われて恐る恐る下を見下ろす。
 ――――すると目の前に広がるのは、遥か彼方まで広がっている山々に、見渡す限り続く紺碧の海。そして所々に確認できる町や村からは煙が上がっており、誰かが生活しているのは一目瞭然だ。

「広……」
「中つ国は天都の倍はありますからね」

 それゆえに、アマハル様も手に余しているという事か。確かに、いくら最高神でもこの広さはちょっと手に負えなさそうだ。

「それでは、適当なところに足を着けます。どこがいいですか?」

 これは迷うな。初めて空を飛ぶRPGゲームの主人公の気分だ。
 しかし山中は虫が多そうで嫌だしなぁ。海辺は怖そうな生き物がいそうだし、かといって知らない町っていうのも気が引ける。

 私は地上を見下ろしながら、どうしたものかと考える。すると、山間を縫うように奔る、一つの大川が目に入った。

「じゃあ、あの川!」

 ユキメは私が指さした方を見ると「分かりました」と返事をし、再び速度を上げてその川へと向かう。


「……お疲れ様です。ソウ様」

 ――――そうして無事地上に降り立った私たちは、川辺に腰を降ろし竹水筒の水を飲みながら、天界にはない青い自然を満喫していた。

「どうやら季節は夏の様ですねぇ」
 紺色の羽織を脱ぎ、ユキメは汗で吸い付く髪を、高く結い直しながら呟く。
「どうりで暑いと思ったぁ」

 流石に現代よりかは暑くないが、このじめじめとした蒸し暑さだけは大差ない。
 ああ、この袴を脱いで、今すぐ川に飛び込みたい。

「川を汚さなければ、何をしても罰は当たりませんよ」
「でもなあ」

 まるで心を読んでいるかのような提案をしてくる。でもさすがに袴は脱げないし、かといって水着がある訳でもない。
 ……そうしてあたしが考え更けていると、ユキメが袴をたくし上げ、そのすらりと伸びた白い足を川に沈めた。

「それいいね、あたしもやる!」

 スカート程ではないが、袴をたくし上げるのも少し恥ずかしい。
 などと考えながら、私は恐る恐る水面に足を近付ける。そして指先が触れた瞬間、熱くなった血液が、そこから一気に冷やされていくのを感じる。

「気持ちい……」
 今も子共だけど、まるで童心に帰ったようだ。
「あまり深い所には行かないでくださいね」

 私がざぶざぶと川をかき分け離れると、ユキメが心配そうに私を見てくる。どうやら私の恐怖心は、この自然に囲まれたことで少し薄れているみたいだ。 
 まあ、少しくらいなら大丈夫だろう。五メートルくらいならユキメと離れていても直ぐに戻れる。だからもう少しだけ深い所へ。

「大丈夫だよ! ユキメは心配しすぎ」

 ――――と、その時、突然後ろから唸るような声が聞こえた。
 龍の本能か、それとも野生の勘か、私はその唸り声が危険なものだと直ぐに感じ取った。

「ソウ様ッ!」

 とっさに振り返る。黒か茶色か分からない色が、まるで壁紙のように私の目の前を覆っている。
 そして恐る恐る視線を上げると――――。

「…………熊?」

 大岩のような巨体を持つ熊が、今まさにその大爪を振り下ろさんと、私を見下ろしながら息巻いていた。

しおりを挟む

処理中です...