君に捧ぐ花

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第二章 脱OL

第九話 12月26日(金) (1)

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いよいよ最後の勤務日となったこの日、杏子は昼までかけてようやく翻訳案件を全て終え、午後は机やロッカーの整理をする予定で居た。結局、退職が決まった時点で抱えていた八件の翻訳案件と、その後に新規案件が二つ加わり、この二週間、杏子は仕事だけに没頭して過ごした。そうせずには居られない重苦しい空気が、渉外部の狭い部屋に充満していたのである。退職の打診以降一貫して不機嫌な態度を崩さない渡部と、以前と変わらず無愛想な沈、自分を巻き込むなという無言の圧力をかけ続ける濱本。他部署の社員らが温かく見送ってくれるなか、この四年間最も身近で働いてきた面々が、何の言葉を掛けてくれるでもなく、今日という退職の日を迎えたのだ。杏子の急な退職で一番迷惑を被るのだから恨まれても仕方ない、もとより嫌われている沈など尚更である、いくらそのように考えようとしても、杏子は遣りきれない思いを拭えないでいた。

(この四年間は何だったのかしら。精一杯やってきたつもりなのに、ここの皆は誰も認めてくれていなかったんだわ。)

机の引き出しの中身を全て紙袋に詰めたところで、一息つこうと思い立ち、杏子は給湯室に向かった。そちらにも、コップやインスタントコーヒーなどの私物を置いてあったので、それらの回収も忘れずにしようと思案しつつ廊下を歩いていると、背後に人の気配を感じた。

「もう出発の日は決まっているの?」
沈だった。杏子に話しかけるときにいつもするように、眉根を少し寄せて真っ直ぐに杏子を見つめていた。
「いえ、受け入れ先の企業がまだ確定していないので、出発はまだ決まっていません。手続きなんかの渡航準備もあるので、おそらく二、三ヶ月先だと思います。」
嘘八百であるが、苦手な人物に足元を掬われないよう、杏子は慎重に考えてそう答えた。
「観光客には親切でも、どこも外国人労働者には厳しいわよ。あなたが失敗しそうでも、誰も忠告なんてしてくれないからね。他人が自分に親切にしてくれるのを当たり前なんて思っていないで、自分を守れるのは自分だけだと思いなさい。大丈夫だろうなんて安易に考えないで、念には念を入れるの。愛想ばかり振り撒いて、何が自分にとって一番大事なのかを見失ってはだめ。あなたはそういうところがあるからね。良くできるけど、人の忠告は素直に聞いて、生意気な態度はだめよ。」
いつも嫌みたらしく説教をしてくるのと全く同じ口調で、沈は杏子にそう告げた。
霧が晴れて視界が瞬時に開けた、そんな感覚に杏子は陥った。あんなにも疎ましかった沈の小言であったが、同じ表情と口調で発せられたものとは信じがたい程に、今日の杏子には温かい励ましに聞こえたのだ。

(この人は、ずっと私を心配してくれていたのかもしれない。)

そう思い至ったと同時に、その事実に当惑した杏子は、掠れた声を絞り出すのがやっとであった。
「はい。あの、ありがとうございます。」
「頑張りなさいね。」
沈はそう言うと、廊下の先の給湯室に向かうのではなく、もと来た方へと引き返し、渉外部の部屋へと戻っていった。杏子に言葉をかけるためだけに、席を立ったのだと考える他ない。もしかすると、二人きりで話せるタイミングを探していたのかもしれないと、今の杏子には思えた。
この二週間、杏子は一心不乱に業務に取り組んでいたし、朝は誰よりも早く来て、昼はデスクで仕事をしながら簡単に済ませ、夜は最後まで残って残業していたのだ。最終日の今日までコーヒーブレイクの余裕などなく、給湯室へ行くのも久しぶりである。沈が杏子に何か言葉を掛けようと思っても、なかなかタイミングがなかったに違いない。

杏子は、ここへ来て沈の真なる思いに気付き、これまでの自分の態度が恥ずかしくなった。沈は、その口調や表情が険しく、歯に衣着せぬ物言いではあったが、間違ったことは一度も言わなかった。むしろ、核心をついた言葉だったからこそ、杏子には耳が痛く、素直に聞くことが出来ないでいたのだ。

勝手知ったる給湯室で、手慣れたようにコーヒーを淹れた杏子であるが、心は全くここにあらず、気が付けばいつの間にかマイカップ片手に自席へと戻っていた。
恐々と隣を窺うと、沈はちらりとも此方を見ず、モニターに向かって何かの作業をしているようであった。
沈が何も言わないのだから、杏子も、渡部や濱本の前で沈に何かを言う気にはなれなかった。
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