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第二章 脱OL
第八話 12月15日(月)
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「岡田さん、今月いっぱいで辞めるってほんと!?」
大きめの体から発される少し逞しい声音で、そう杏子に詰め寄ったのは、総務部の顔とも言える女史であり、あと数年で定年退職を迎える古株の遠藤であった。
「そうなんです。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。部長に了承いただけるまでは誰にもお伝えできなくて。」
杏子は体面を取り繕って、少し申し訳なさそうにそう答えた。
というのも、杏子の急な退職願いは、一ヶ月前の告知という就業規則には則っているものの、多くの者は引き継ぎを考えて三ヶ月ほどの余裕を見て申し出るものだからである。おまけに、直属の上長である渉外部部長がなかなか首を立てに振らず、そのために他部署への挨拶は退職のわずか二週間前にまで遅れてしまった。
元来、愛想が良く八方美人な性格の杏子は、その業務の性質もあって、様々な部署で顔を知られていた。その杏子の急な退職の噂は瞬く間に社内に広まり、杏子自身が菓子折りを携え挨拶回りをするのを待たずして、この遠藤女史のように本人の元へと確認に来る者もいたのだ。
「で、どうしてそんな急に辞めることになったの?何かあったの?もしかしてお目出度い話かしら!?」
「いえいえ、そんなんじゃないですよー!実は、以前から海外で働いてみたいと思っていたんですけど、インターンシップっていう制度があって、ダメもとで応募してみたら、コンピューター関係の仕事で良いお返事を頂いて。それでどうしてもそちらに行きたくて無理を言ったんです。」
何度も練り直した言い訳を、杏子が立て板に水のごとく捲し立てると、遠藤は感心した風に目を丸くした。
「まぁ~!そうなの!!やっぱり英語が出来る人は違うわね~!海外でお仕事なんて大チャンスだもんね。そりゃ部長を説得してでも行きたいわよね。」
「急な退職で皆さんにはご迷惑をお掛けしてしまうのですが、引き継ぎは精一杯しますので、どうぞよろしくお願いいたします。」
杏子が改めて遠藤に頭を下げると、遠藤は、そういえば…と思い付いたように杏子に問いかけた。
「渉外部は少数精鋭でしょう?岡田さんが抜けたら引き継ぎはどうするの?採用するにしても急だし、年末年始の休みにかかるものねぇ。沈さんは中国語はできても英語はからっきしだし、濱本さんは調査のほうが大変でしょ?部長はなんて?」
「部長になかなか了承頂けなかったのはそこなんです。遠藤さんの仰る通り、もともと私たち三人それぞれが主に違う仕事をしていて、お互いにサポートしあう部分ももちろんあるんですが、自分しかわからない仕事っていうのがほとんどで。結局、営業のダニエルが当面繋ぎで引き継いでくれて、その間に後任を採用するそうです。」
杏子の説明に納得した様子で、遠藤は立ち話を切り上げ廊下を戻っていった。遠藤のような話好きのおば様にきちんと説明しておけば、あとは勝手に詳細な情報を伝播してくれるだろうと思い、杏子は今回ばかりは遠藤の好奇心に感謝した。
というのも、各部署への挨拶回りでは、仕事中の手を止めさせてしまうので、杏子はごく簡単な事実の報告とお詫びに徹している。急な退職を訝しむ者がいたとしても、丁寧な詫びと共に百貨店の包装紙に包まれた菓子折りを押し付けられては、不躾な言葉は飲み込んで、わかりましたと言う者ばかりであった。
「戻りました」
そう告げて、杏子は六畳ほどの小さな部屋に入った。部屋の中央には事務机が四つ、向かい合わせになるように小さな島を作って配置されている。杏子は、部屋の入り口に一番近い席に、いつものように入り口に背を向けて座った。この部署の一番下座となるこの末席が、杏子の定位置である。
入り口からみて一番遠く、入り口が良く見渡せる向きで座する部長渡部が杏子に不機嫌な声をかけた。
「挨拶は全部終わったのか」
「はい、終わりました。席を空けてすみませんでした。」
五十を少し回った年の頃の男らしい、白髪の方が優勢になったグレーの頭を無造作に掻き、その機嫌の悪さを隠そうともせず、渡部は杏子に仕事に戻るよう短く告げた。
今杏子が抱えている翻訳案件は八つ、そのどれもが単独であれば数日で終わるものばかりであるが、全てを終えるには、退職日にまにあうかどうかというギリギリのラインだった。というのも、その合間に、他部署と海外とのやり取りメールが断続的に来て、そちらにもかなりの時間を取られるからである。もっとも、欧米の国々とはかなりの時差があるため、昼間に届くメールは全て社内から発信されたもので、杏子はそれを、現地時間の朝に相当する、こちらの退社時間までに英語に訳して海外に送信するだけである。逆に、海外からのメールは夕方から夜中の間に届くことが多いため、その処理は、出勤して朝一番に取りかかる杏子の業務となる。
相変わらず不機嫌な渡部に、心の中だけで溜め息を一つつき、杏子はメールのチェックに専念した。もちろん、今度こそは重要なメールを見逃さないよう、心がけつつである。
大きめの体から発される少し逞しい声音で、そう杏子に詰め寄ったのは、総務部の顔とも言える女史であり、あと数年で定年退職を迎える古株の遠藤であった。
「そうなんです。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。部長に了承いただけるまでは誰にもお伝えできなくて。」
杏子は体面を取り繕って、少し申し訳なさそうにそう答えた。
というのも、杏子の急な退職願いは、一ヶ月前の告知という就業規則には則っているものの、多くの者は引き継ぎを考えて三ヶ月ほどの余裕を見て申し出るものだからである。おまけに、直属の上長である渉外部部長がなかなか首を立てに振らず、そのために他部署への挨拶は退職のわずか二週間前にまで遅れてしまった。
元来、愛想が良く八方美人な性格の杏子は、その業務の性質もあって、様々な部署で顔を知られていた。その杏子の急な退職の噂は瞬く間に社内に広まり、杏子自身が菓子折りを携え挨拶回りをするのを待たずして、この遠藤女史のように本人の元へと確認に来る者もいたのだ。
「で、どうしてそんな急に辞めることになったの?何かあったの?もしかしてお目出度い話かしら!?」
「いえいえ、そんなんじゃないですよー!実は、以前から海外で働いてみたいと思っていたんですけど、インターンシップっていう制度があって、ダメもとで応募してみたら、コンピューター関係の仕事で良いお返事を頂いて。それでどうしてもそちらに行きたくて無理を言ったんです。」
何度も練り直した言い訳を、杏子が立て板に水のごとく捲し立てると、遠藤は感心した風に目を丸くした。
「まぁ~!そうなの!!やっぱり英語が出来る人は違うわね~!海外でお仕事なんて大チャンスだもんね。そりゃ部長を説得してでも行きたいわよね。」
「急な退職で皆さんにはご迷惑をお掛けしてしまうのですが、引き継ぎは精一杯しますので、どうぞよろしくお願いいたします。」
杏子が改めて遠藤に頭を下げると、遠藤は、そういえば…と思い付いたように杏子に問いかけた。
「渉外部は少数精鋭でしょう?岡田さんが抜けたら引き継ぎはどうするの?採用するにしても急だし、年末年始の休みにかかるものねぇ。沈さんは中国語はできても英語はからっきしだし、濱本さんは調査のほうが大変でしょ?部長はなんて?」
「部長になかなか了承頂けなかったのはそこなんです。遠藤さんの仰る通り、もともと私たち三人それぞれが主に違う仕事をしていて、お互いにサポートしあう部分ももちろんあるんですが、自分しかわからない仕事っていうのがほとんどで。結局、営業のダニエルが当面繋ぎで引き継いでくれて、その間に後任を採用するそうです。」
杏子の説明に納得した様子で、遠藤は立ち話を切り上げ廊下を戻っていった。遠藤のような話好きのおば様にきちんと説明しておけば、あとは勝手に詳細な情報を伝播してくれるだろうと思い、杏子は今回ばかりは遠藤の好奇心に感謝した。
というのも、各部署への挨拶回りでは、仕事中の手を止めさせてしまうので、杏子はごく簡単な事実の報告とお詫びに徹している。急な退職を訝しむ者がいたとしても、丁寧な詫びと共に百貨店の包装紙に包まれた菓子折りを押し付けられては、不躾な言葉は飲み込んで、わかりましたと言う者ばかりであった。
「戻りました」
そう告げて、杏子は六畳ほどの小さな部屋に入った。部屋の中央には事務机が四つ、向かい合わせになるように小さな島を作って配置されている。杏子は、部屋の入り口に一番近い席に、いつものように入り口に背を向けて座った。この部署の一番下座となるこの末席が、杏子の定位置である。
入り口からみて一番遠く、入り口が良く見渡せる向きで座する部長渡部が杏子に不機嫌な声をかけた。
「挨拶は全部終わったのか」
「はい、終わりました。席を空けてすみませんでした。」
五十を少し回った年の頃の男らしい、白髪の方が優勢になったグレーの頭を無造作に掻き、その機嫌の悪さを隠そうともせず、渡部は杏子に仕事に戻るよう短く告げた。
今杏子が抱えている翻訳案件は八つ、そのどれもが単独であれば数日で終わるものばかりであるが、全てを終えるには、退職日にまにあうかどうかというギリギリのラインだった。というのも、その合間に、他部署と海外とのやり取りメールが断続的に来て、そちらにもかなりの時間を取られるからである。もっとも、欧米の国々とはかなりの時差があるため、昼間に届くメールは全て社内から発信されたもので、杏子はそれを、現地時間の朝に相当する、こちらの退社時間までに英語に訳して海外に送信するだけである。逆に、海外からのメールは夕方から夜中の間に届くことが多いため、その処理は、出勤して朝一番に取りかかる杏子の業務となる。
相変わらず不機嫌な渡部に、心の中だけで溜め息を一つつき、杏子はメールのチェックに専念した。もちろん、今度こそは重要なメールを見逃さないよう、心がけつつである。
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