君に捧ぐ花

ancco

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第三章 自立への道

第十一話 12月29日(月)

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ポーンと軽やかな電子音が響き、杏子はのそのそと炬燵から這い出て机の上のノートパソコンを覗き込んだ。
転職を決心して直ぐに受けた翻訳者の試験は、たった三日で返答をもらい、結果はもちろん合格であった。簡単な手続きとガイダンスの後、直ぐに自宅で仕事を受けられるようになったが、杏子は、けじめとして、退職するまでは一切こちらの仕事には手をつけなかった。晴れて退職した翌日から、先程の電子音が断続的に杏子のパソコンから響いていた。新規案件が、インスタント翻訳.comのサイトにアップされた告知音である。

分野:医療
分量:A4三枚
納期:12時間
報酬:5000円

杏子は、概要を確認して自分向きではないと判断したが、念のため詳細ボタンをクリックして中身を確認し、やはり直ぐに閉じた。数秒を置いて、別の翻訳者が受注したことを知らせる表示が視界の隅をよぎった気がしたが、杏子はもはや関心がなく、出た時と同様にのそのそと炬燵に潜った。

会社を辞めればもっと心が楽になるはずだった。どうしたことか、退職前よりも杏子の心はずっと重くなった気すらした。何の悪感情も見せない癖に一言もくれなかった濱本のこと。最後の最後に杏子を酷く詰った渡部のこと。憎しみすら抱いていた沈の暖かい言葉のこと。そして、何も分かっていなかった自分自身のこと。

濱本は、三十代半ばの真面目で穏やかな男だった。地方の国立大の法学部出身で、語学留学などはしていないというが、TOEIC800点ほどの語学力を買われ、渉外部で調査業務を担当していた。彼の補佐は、杏子の副次的な業務だった。右も左もわからない杏子に、濱本は論理立てて懇切丁寧に指導してくれた。任される業務の量も、杏子の本業との兼ね合いまで計算ずくなのか、多すぎることも少なすぎることもなく、また、難しすぎることも簡単すぎることもなかった。そうであるから、杏子のほうも、濱本に指示された業務ではミスをしたことがなく、したがって叱責を受けたこともなかった。だからこそ、杏子は、濱本が杏子を良く思っていないなどとは、露ほども考えていなかったのだ。

(濱本さんに嫌われるようなこと、何かしたかしら。それとも、濱本さんも私の退職に怒っていたのかな。でも、彼は私が辞めても何も困らないと思っていたけれど…。せっかく育てているアシスタントが惜しかったのかしら。)

ちらりとそんなことを考えたが、調査業務に関しては大したことをしていなかったことは自分が良く解っている。そんなはずはないと、杏子は思い直した。

(濱本さんは、私に調査業務を教えるよう部長に言われたからやっていただけ。一人でやった方がずっと早い仕事だもの。少しでも私に煩わされないように、私がミスせず期限通りに終えられる仕事しか与えなかったんだわ。彼は私のことを全く相手にしていなかったんだ。退職についてとやかく言って揉めるのも面倒なほどに、私のことがどうでもよかったんだ。)

ポーンとまた電子音が鳴ったが、今度は炬燵から出る気すら起きなかった。

(部長には恩を仇で返すようなことをしてしまったわ。数ある中から私を選んでくれたなんて、思いもしなかった。憎まれても仕方ないわ。でも、だったらなぜ辞めたいと伝えたときに、そう言って引き留めてくれなかったんだろう。最初からそう言ってくれていれば私だって…。)

そう考えて、杏子は、やっぱり違うと首を振って炬燵テーブルに伏した。渡部がどのような理由で引き留めたにせよ、杏子は辞めると言って聞かなかっただろう。まして退職理由がインターンシップであれば、時期が悪いと言って退職を引き伸ばしているうちに、一時的な熱が冷めて、やがて気も変わるだろうと思われたのかもしれない。

実際には、いくら引き伸ばされたところで、杏子の気は変わらなかっただろう。真の退職理由はインターンシップなどではないのだから。杏子を退職にまで追い詰めた真の原因は、言わずもがな沈からの悪意に満ちた小言である。

(悪意なんて最初からなかったんだわ。私はなんて狭量な人間なの。もう消えてしまいたい…。)

炬燵に伏すだけでは足りず、杏子は床に顔を伏せて首まで炬燵布団に潜り込んだ。心の中の杏子は、ジタバタと手足を振り回し大きな穴を掘って、必死にその中へ潜り込もうとしている。現実にはそう出来ないもどかしさから、杏子は、いよいよ頭さえ炬燵布団の中に潜り込ませた。

(暑い!!)

当然そう長くは潜り込んでもいられず、勢い良く炬燵布団から顔を出して、胸いっぱい新鮮な空気を吸い込んだところで、杏子は漸く思い出した。
杏子を転職にまで追い詰めたもう一つの原因、ナツキの不在のことを、である。
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