君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
23 / 110
第五章 新居探し

第二十三話 女心と春うらら

しおりを挟む
明るい日差しが瞼を透かすのか、杏子は、眩しさを堪えるように一度固く閉じた目を、今やっと開こうとしていた。カーテンを閉めていれば、もう少し寝られたのにと思ったのも束の間、壁に掛かった時計が九時過ぎを指しているのを見て、寝過ぎたと思い直した。昨日は、チェックインしてすぐに寝てしまったのだから、かれこれ十五時間近く寝ていたことになる。脚の筋肉痛はともかく、体の疲れはとれているようだった。
今日も、瀬戸内の気候らしい、穏やかな天気になりそうだった。良い日になりそうだと、何の根拠もないが、杏子にはそう感じられた。

狭いユニットバスで身を清めると、胸下まである黒髪を器用にタオルにしまい込んで、杏子は、昨夜の夕食になるはずだった弁当を温めて食べた。小さな流しとIHコンロの備わったキッチンには、簡単な電子レンジとやかんまでそろっており、家が決まるまでの数日間を、快適に過ごすことが出来そうだった。

フロントで鍵と一緒に受け取った紙に、フリーWi-Fiのパスワードが記載されていたことを思い出し、杏子は、ボストンから愛用のノートパソコンを取り出した。設定を済ませると、昨日不動産屋で薦められた物件について調べ始めた。
杏子の出した条件を満たす物件は、二件あった。いずれも、太陽の庭へ向かうのと同じバスの路線上にあり、環境も悪くはなさそうである。家賃は、管理費込みで5万円弱であるが、2DKの木造アパートか、1Kの鉄筋ハイツかという違いがあった。宮部からの申し出がなければ、迷い無く、いずれかの物件に決めていただろう。
杏子の心は、決まっていた。

(今日も、太陽の庭へ行こう。伯母様の家のこと、お願いしなきゃ。)

バスタオル姿で部屋を右往左往し、簡単に部屋の片付けと身支度を済ませると、ボストンからナイロンの斜めがけバッグを出して、最低限の持ち物を詰めた。脚の疲労は癒えていないが、重い荷物がない分、今日は昨日よりも身軽である。
杏子は、白い長袖カットソーにスウェット素材のグレーのタイトスカートを合わせた。ミニ丈のそれは、黒のレギンスと合わせれば、大して細くはない脚の杏子でも、抵抗なく履ける一着だ。上からふんわりと紺色のパーカーを羽織って、最後に玄関のスニーカーを履いた。白地に、赤い星がトレードマークの、お気に入りの一足であった。
昨日は下ろしていた髪は、今はまだ湿っているため、後ろの高い位置に捻ってまとめ、クリップで留めている。化粧は控えめにしたが、日焼け止めはしっかりと塗っておいた。色の白い杏子の肌は、ここの日差しには太刀打ち出来そうになかった。
玄関扉を開ける前に、下駄箱の上に掛けられた小さな鏡で、杏子は唇にリップクリームを載せた。艶と、ほんの少しの色を載せてくれるものだ。

昨日よりも、自分の格好が妙に気になる杏子であったが、妙でも何でも無く、ただ宮部を意識しているからであった。相手は作業服で土仕事をしているのだから、着飾っていくのは場違いであると、そう考える位には正気であったが、これ以上無頓着な格好は、杏子の女心が許さなかった。杏子の常識と、女心がせめぎ合い、両者が妥協したライン、それが今日のコーディネートである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...