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第五章 新居探し
第二十六話 良いキャラの女
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軽トラの車内は、思いの外広々としていた。心地よい春のそよ風は、畑の土と緑の香りを運びながら、全開にした窓を右から左に吹き抜けていく。
足下が汚れているという宮部の詫びに対して、お気遣い無くとだけ小声で返して乗り込んだ杏子は、あまりの羞恥に言葉を紡げないで居た。
妙齢の女が、バス停でピクニックよろしくおにぎりを頬張っていたのである。それも大口を開けて。それ以上に、今は、歯や唇におにぎりの海苔でも付いているのではないかと、気が気で無い杏子は、俯いたまま、宮部の顔を一度も見ていない。
そんな杏子の心中を知ってか知らずか、宮部は何の躊躇いもなく、話し出した。
「良いお天気だから美味しいでしょうね。中断させてしまって申し訳無かった。」
嫌みも嘲笑もない、宮部のまっすぐな物言いに、いつまでも恥じ入っていられなくなり、杏子も口を開いた。
「そうなんです。時間もあったし、バスに乗らずに駅から歩いて行ったらハイキングみたいで気持ちいいかなと。池の辺りの眺めが良かったので、ついお昼を広げちゃいました。」
杏子は、恥ずかしさを誤魔化すように、自分で自分を茶化すように言って、首を竦めた。
「それは本当にお邪魔してしまったなぁ。」
目線は前方に向けたままだが、宮部は本当に申し訳なさそうであった。
「いえ、助かりました。仕事柄、運動不足になりがちなので、昨日から良く歩いて、実は脚がパンパンなんです。」
宮部が、ちらりと横目で、杏子の脚を確認したように杏子には思えた。
(いや、これは・・・張ってパンパンじゃなくて、単に脚が太いだけなんです・・・)
誰も何も言っていないが、脚の逞しさにコンプレックスのある杏子は、心中で一人自虐を展開した。
「寝る前にストレッチをすると、翌日少しは楽ですよ。僕も、この仕事を始めてすぐの頃は、毎日筋肉痛だったなぁ。男のくせに情けないですが。」
宮部の意外な言葉に、杏子は、目を丸くして宮部を見た。口元の海苔を気にしていたことなど、すっかり忘れていた。
「宮部さん、すごく逞しい体されてるから、てっきり元からスポーツか何かで鍛えてらっしゃるのかと・・・。」
「ひょろひょろとは言いませんけど、普通でした。家と会社を往復するだけでしたし。今の仕事で筋肉も付いたけど、今は自分でもトレーニングしますよ。力があった方が普段の仕事も楽になるし、海外へ買い付けに行くときに、結構歩かないといけないんで。」
ちょうど信号が赤になり、宮部は漸く杏子の方を見た。
とたんに、口元に手を当てて噴き出し、肩を揺らして笑い出した宮部に、杏子はぽかんとするばかりである。
「岡田さん、良いキャラだなぁ。ここんとこ、ほら・・・」
そういって、宮部は自分の左の口元を指さした。
その仕草を見て、確認するまでもなく、自分の口元のその場所に何が付いているのか、杏子には分かった。
「す・・・すみません。ありがとうございます・・・。」
慌てる気力もなく、しどろもどろに礼を述べながら、杏子は、口元から回収した米粒を窓の外へと捨てた。
またしばらく俯いたまま、この羞恥をやり過ごそうと思っていた杏子だが、続く宮部の言葉に、顔を上げざるを得なかった。
「こっち向いて。」
敬語の堅さを纏わない、柔らかい響きだった。杏子は驚いて、すっかり羞恥も忘れ、思わず宮部を見返した。
失礼、と短く告げて、宮部は運転席から杏子の方へ身を乗り出した。
大きな体をしなやかに捻るように、宮部の右腕が、右手が、次第に杏子の顔の方へと伸びてくる。同時に、首を少し傾げて、杏子の顔を覗き込むようにした宮部の目線は、杏子の視線とは合わず、杏子の口元一点を見つめているようだった。
宮部との心理的距離が縮まったと浮かれることは出来ても、突如として縮まった物理的距離を歓迎できるほど、杏子は男慣れしていなかった。
それでも、このシチュエーション、この距離感が意味することが分からないほど、杏子は子供ではない。
(あ・・・来る・・・。)
宮部の右手が、杏子の口元に届くまであと少しという所まで伸びてきて、甘い予感に、杏子がその目を閉じるまで、あと一秒ほどであっただろうか。宮部の顔が、あと10cmも迫ってくれば、もう目を閉じて、その時を待つだけだった。
「ここにも、もう一つ。うん、これでもう何も付いてない。」
先ほど杏子が取り去った米粒の、もう少し下の方に、どうやらもう一つ付いていたようだった。杏子の顔全体を確認して、ふっと柔らかく宮部は笑んだ。
疚しいことも下品なことも何もない、優しげな宮部の微笑みに、杏子は今度こそ恥じ入って、車を降りるまで二度と宮部の顔を見ることは出来なかった。
足下が汚れているという宮部の詫びに対して、お気遣い無くとだけ小声で返して乗り込んだ杏子は、あまりの羞恥に言葉を紡げないで居た。
妙齢の女が、バス停でピクニックよろしくおにぎりを頬張っていたのである。それも大口を開けて。それ以上に、今は、歯や唇におにぎりの海苔でも付いているのではないかと、気が気で無い杏子は、俯いたまま、宮部の顔を一度も見ていない。
そんな杏子の心中を知ってか知らずか、宮部は何の躊躇いもなく、話し出した。
「良いお天気だから美味しいでしょうね。中断させてしまって申し訳無かった。」
嫌みも嘲笑もない、宮部のまっすぐな物言いに、いつまでも恥じ入っていられなくなり、杏子も口を開いた。
「そうなんです。時間もあったし、バスに乗らずに駅から歩いて行ったらハイキングみたいで気持ちいいかなと。池の辺りの眺めが良かったので、ついお昼を広げちゃいました。」
杏子は、恥ずかしさを誤魔化すように、自分で自分を茶化すように言って、首を竦めた。
「それは本当にお邪魔してしまったなぁ。」
目線は前方に向けたままだが、宮部は本当に申し訳なさそうであった。
「いえ、助かりました。仕事柄、運動不足になりがちなので、昨日から良く歩いて、実は脚がパンパンなんです。」
宮部が、ちらりと横目で、杏子の脚を確認したように杏子には思えた。
(いや、これは・・・張ってパンパンじゃなくて、単に脚が太いだけなんです・・・)
誰も何も言っていないが、脚の逞しさにコンプレックスのある杏子は、心中で一人自虐を展開した。
「寝る前にストレッチをすると、翌日少しは楽ですよ。僕も、この仕事を始めてすぐの頃は、毎日筋肉痛だったなぁ。男のくせに情けないですが。」
宮部の意外な言葉に、杏子は、目を丸くして宮部を見た。口元の海苔を気にしていたことなど、すっかり忘れていた。
「宮部さん、すごく逞しい体されてるから、てっきり元からスポーツか何かで鍛えてらっしゃるのかと・・・。」
「ひょろひょろとは言いませんけど、普通でした。家と会社を往復するだけでしたし。今の仕事で筋肉も付いたけど、今は自分でもトレーニングしますよ。力があった方が普段の仕事も楽になるし、海外へ買い付けに行くときに、結構歩かないといけないんで。」
ちょうど信号が赤になり、宮部は漸く杏子の方を見た。
とたんに、口元に手を当てて噴き出し、肩を揺らして笑い出した宮部に、杏子はぽかんとするばかりである。
「岡田さん、良いキャラだなぁ。ここんとこ、ほら・・・」
そういって、宮部は自分の左の口元を指さした。
その仕草を見て、確認するまでもなく、自分の口元のその場所に何が付いているのか、杏子には分かった。
「す・・・すみません。ありがとうございます・・・。」
慌てる気力もなく、しどろもどろに礼を述べながら、杏子は、口元から回収した米粒を窓の外へと捨てた。
またしばらく俯いたまま、この羞恥をやり過ごそうと思っていた杏子だが、続く宮部の言葉に、顔を上げざるを得なかった。
「こっち向いて。」
敬語の堅さを纏わない、柔らかい響きだった。杏子は驚いて、すっかり羞恥も忘れ、思わず宮部を見返した。
失礼、と短く告げて、宮部は運転席から杏子の方へ身を乗り出した。
大きな体をしなやかに捻るように、宮部の右腕が、右手が、次第に杏子の顔の方へと伸びてくる。同時に、首を少し傾げて、杏子の顔を覗き込むようにした宮部の目線は、杏子の視線とは合わず、杏子の口元一点を見つめているようだった。
宮部との心理的距離が縮まったと浮かれることは出来ても、突如として縮まった物理的距離を歓迎できるほど、杏子は男慣れしていなかった。
それでも、このシチュエーション、この距離感が意味することが分からないほど、杏子は子供ではない。
(あ・・・来る・・・。)
宮部の右手が、杏子の口元に届くまであと少しという所まで伸びてきて、甘い予感に、杏子がその目を閉じるまで、あと一秒ほどであっただろうか。宮部の顔が、あと10cmも迫ってくれば、もう目を閉じて、その時を待つだけだった。
「ここにも、もう一つ。うん、これでもう何も付いてない。」
先ほど杏子が取り去った米粒の、もう少し下の方に、どうやらもう一つ付いていたようだった。杏子の顔全体を確認して、ふっと柔らかく宮部は笑んだ。
疚しいことも下品なことも何もない、優しげな宮部の微笑みに、杏子は今度こそ恥じ入って、車を降りるまで二度と宮部の顔を見ることは出来なかった。
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