君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
30 / 110
第五章 新居探し

第三十話 転居に向けて

しおりを挟む
杏子は、入居日が決まり次第連絡する旨と、改めてもう一度礼を述べて、宮部を車まで見送ると、再び家の中に戻った。宮部は駅まで送ると申し出たが、これ以上仕事の時間を割いてもらうのが心苦しかった杏子は、それを丁重に断った。室内を、もう一度ゆっくり検分したいという動機もあった。
この町での今回の滞在は、明後日までである。今日と、明日丸一日と、そして明後日の半日程度。その時間内でできること、しておくべきことを、頭の中で整理しておく必要があった。

懸案事項であった住居が決まると、そこから数日の杏子の行動は、効率よく的確なものだった。まず、真っ先に、杏子は今の住まいの解約を申し出た。月の節目は目前であったが、かろうじて三月中の解約となったため、四月末での退去が可能となった。
次には、引っ越し業者を検討した。季節柄混み合うことは分かっていたので、値段と日程を比較検討して、妥当な業者に依頼することができた。転居日は、切りの良い四月一日となった。今の住まいの退去日を考えると、もっと日程に余裕を持たせても良いのだが、多少費用が嵩んでも、一日でも早い日程を提示した業者を選んでしまうほど、杏子の気持ちは既にこの町と宮部夏樹にあったのだ。

転居の段取りが整うと、杏子は、今後の移動手段として、電動自転車を購入した。自動車や原付に比べ維持費がかからず初期費用も低いうえに、料金ばかり高く運行本数の少ないバスよりも融通が利き、徒歩よりも迅速な移動を可能にするからだ。普通の自転車に比べると値は張るが、駅から家までの傾斜を考えて電動にした。
移動手段を得た杏子は、家電量販店、ホームセンター、スーパーなどを梯子し、電灯やカーテン、エアコンなどの、最低限の住環境を整えつつ、転居後すぐに使えるよう調味料や保存の効く食料をそろえ、最後に、宮部の勧めを入れて、門扉に錠前を付けた。掃除道具を購入して、長く人の住んでいなかった埃を払い落とすことも忘れていなかった。
電気と水道は、届け出を出すだけですぐに使えたが、ガスは、杏子がここを発つ日まで待って、ようやく開栓をしてもらうことが出来た。インターネット回線と電話回線は、まとめて、以前この家で契約されていた会社をそのまま使うことにした。最安のプロバイダーとは言えないが、新たに回線工事をする手間と費用を考えれば、前の居住者に倣うのが得策と思われたのだ。

この町での滞在の最終日、それは三月もあと残すところ三日という日曜日であったが、杏子は、午前中にガスの開栓に立ち会うと、厳重に新居の戸締まりをして、駅へとバスで向かった。杏子の愛車は、真新しい錠前で閉じられた門扉の内側に、さらにチェーンロックを掛けて停めておいた。
ここを去る前に、もう一度宮部に会いたいと思わないでもなかったが、数日の内にまた戻ってくるのであるから、わざわざ仕事の邪魔をするのはやめておこうと思いとどまった。

駅の改札をぬけて、ホームで電車を待つ間、杏子は宮部へ電話を掛けた。この数日、直接会うことがなかったので、杏子はまだ、宮部に転居日を伝えていなかった。

「宮部さん、こんにちは。岡田です。」
3コール目で通話になった回線の向こうで、いつもと同じ柔らかい低音が挨拶を返した。
「あれからどうですか。様子を見に行こうかとも思ったんですけど、ちょっと仕事が立て込んでいて。決まりましたか?」
「はい、今日、今から自宅へ引き上げて、四月一日にこちらへ転居してきます。戻ったら、一度ご挨拶に伺いますね。」
「そうですか。では、またすぐに会えますね。楽しみにしています。道中お気を付けて。」
社交辞令でも、会うのを楽しみにしていると宮部に言われ、杏子は頬を赤らめつつ、礼を述べて通話を切った。

数日前に、期待と不安の入り交じった思いで立った同じホームに、杏子はまた立っている。今は、不安はない。前を向いて精進あるのみ、と、宮部に励まされた言葉の通り、杏子は明るい未来を見据えていた。
次にこの町に戻ってきたときには、杏子は、宮部と同じ町の住民になる。単なる住人同士ではなく、彼の伯母の家という繋がりもある。そして、宮部が、杏子を女性としてどうこう思ってはいないにしても、同じ道を歩む後輩として好ましく思ってくれていることは、本人の口から聞いている。ひょっとしたら、万が一にでも、杏子に女性としての魅力を感じているのかもしれない。口元に複数の米粒を付けているような迂闊さがあっても、宮部は、杏子に会うのを楽しみにしていると言うのだ。

杏子の頭の中は、かつてナツキが言い表した通り、正にピンク色であった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...