君に捧ぐ花

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第六章 新しい門出

第三十一話 引っ越しの日

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四月一日、薄曇りの少し肌寒い天気のその日、朝八時に始まった引っ越し作業は、作業員二名と杏子の連携作業のお陰で極めてスムーズに進み、九時にはもう何もかもを積んで、トラックは西へと発った。もとより慎ましく暮らす杏子には、最低限の家財道具しかなく、荷造りは楽にすんだ。一人残った杏子は、壁や床を綺麗に拭き上げて、襤褸になった雑巾を、最後のごみ袋に捨てた。

入社二年目以来、期間にして約三年住んだこの部屋には、今はもう、何もない。塵も埃もなければ、未練の欠片もない。あるとすれば、少しの後悔のみである。

突き放すように杏子との関係を断った高野の言葉が、今にして思えば、確かに的を射たものであったと、杏子は感じていた。杏子がもう少し、隣席の苦手な人物の言葉を素直に聞いていたとしたら、杏子はまだ、今もあそこで働いていただろう。しかし現実には、杏子は、耳障りの良い言葉ばかり吐く濱本には迎合したが、耳に痛い沈の小言には頑なな態度ばかり取ってきた。沈にしてみれば、杏子は、危なっかしい仕事ぶりのくせに、生意気な態度をとるどうしようもない後輩であったことだろう。

ここで過ごした鬱々とした三年間は、退職に際しての最後の一悶着も全部ひっくるめて、杏子にとっては、自分の未熟さを思い知らされた苦い経験となった。今後どれだけ月日が流れようとも、忘れかけた頃にふと脳裏を過り、胸の奥がチクリと痛む。大人であれば、誰しもが一つや二つは持っていそうな、そんな古傷を抱え、杏子はこの部屋をあとにした。

先発の引っ越しトラックを追いかける形で、杏子も新居へと向かったが、東海道の何処か、それも早い段階で、新幹線の杏子が荷物を追い抜いた。午後の早い時間に、数日ぶりに町へと戻ってきた杏子は、荷物が届くまでの二時間ほどの間に、諸々の手続きを済ますべく、真っ直ぐ町役場へと足を向けた。
町役場は、駅北の、5分ほど山手に上がった辺りに、プールやジムなどがある町民スポーツセンターの建物に隣接してあった。
町役場のビルは、他の階に、保健センターや図書館も入っており、この町の行政と福祉の機能が集約された施設になっていた。

杏子は、1階の役所のフロアで転入手続き等を済ませると、各階の施設も一通り覗いて、最後にまた1階の玄関ホールに戻ってきた。ガラスの自動扉の手前には、大きな掲示板があり、子供や老人向けの地域の催し物や、転職に関する講習会のお知らせなどと並んで、農作業のアルバイト募集の広告がいくつか掲示されていた。そういえば、町を上げて地産地消を推進しているのだと、地元野菜を農家が直売する朝市に関するチラシを、先ほど役場の人にもらったなぁなどと、杏子は思い出していた。そのときである。杏子の目に、太陽の庭という文字が急に飛び込んできた。


仕事内容 水やり、草引き、施肥等の輸入植物の世話(短期)

応募条件 経験者優遇。4/6~4/12まで毎日来れる方。
一日四時間程度の作業時間。

報酬 日当4000円


その求人広告は、杏子の腑に落ちた。インスタント翻訳.comに依頼のあった、例のスペインへの買い付け期間、宮部は、自らに代わって、最低限の植物の世話をする人材を必要としているのだ。
当然である。植物は生きているのだから、世話をしてくれる人なしに、この暖かい季節、一週間も生き長らえることはできないのだろう。
そういえば、杏子が受注した案件のあと、スペインの生産者とのやり取りはどうなったのだろうかと、杏子は思案した。先方からの返事がきて、宮部もまたメールを返したかもしれない。そしてそれを、杏子でない別の誰かが受注したのだろう。そう考えると、杏子は複雑な思いだった。翻訳者としての職権濫用のうえ、本人を訪ねてくるような暴挙に出る者など、杏子を置いて他には居ないだろうが、太陽の庭を知る者は自分一人で良いと、妙な独占欲が芽生えたのだ。
宮部が買い付けに行くことについて、杏子は知らないはずであるが、うまく聞き出して、宮部が不在の期間を知りたいと、杏子は思った。

(いつ、会いに行けるかしら。)

今日はもう、引っ越しのトラックが来るまでは、家を空けられない。来たあとも、今夜布団を敷いて寝られるようにするためには、ある程度片付けてしまわなければいけない。
今日は電話だけにして、明日、伺っても良いか聞いてみようと心に決め、杏子は役場を後にした。
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