君に捧ぐ花

ancco

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第六章 新しい門出

第三十二話 思わぬ誘い

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「もしもし。岡田さん、無事に着きましたか?」
低く柔らかく響くこの声が、自分は本当に好きだなと、杏子は思った。杏子の番号を登録してくれたのであろう。杏子がまだ名乗る前に、杏子からの電話だとわかってくれている。些細なことだが、杏子は嬉しかった。
「はい、お陰さまで。先ほど荷物も届いて、とりあえず今夜寝られるくらいには片付きました。」

結局、引っ越しのトラックは予定よりも少し早くつき、役場へ寄っていた杏子は、危うく作業員を待たせてしまうところだった。
家具家電は所定の位置に配してもらい、ダンボールは和室の一つに纏めてもらった。当分は、その部屋を物置として、随時必要なものを取り出しては片付けていこうという計画だ。
台所や風呂、トイレなど、すぐに使いたい場所の片付けだけは済まし、ようやく宮部に電話できたのは、夕方四時を少し回った頃であった。

「それは良かった。ご迷惑でなければ、今からそちらに伺ってもいいですか。」
宮部の言葉に、杏子は仰天した。次に会うのが楽しみとは言っていたが、まさか、引っ越し当日に宮部から訪ねてもらえるとは、杏子は夢にも思わなかった。
「あの、私は構いませんけど、本来ならこちらから大家さんにご挨拶に伺うべきなのに…。」
「いや、僕はただの代理だから気にしないで。それより、お向かいとお隣りに紹介しますよ。」
なるほど、と腑には落ちたが、落胆は隠せない。宮部は杏子に会いたいわけではなく、隣近所への挨拶回りに付き添ってくれるというだけなのだ。それだって十分に親切なのだが。
「それはありがとうございます。ではお言葉に甘えて、お越しいただけますか。」
がっかりしたのを悟られないよう、努めて明るく、杏子はそう返した。快諾した宮部は、15分ほどで行くと杏子に告げて、通話を切った。

数日ぶりに宮部に会えば、きっと舞い上がってしまうのだろうなと杏子は予感したが、実際に目の前に宮部が現れると、杏子は、やはりどうしようもなく顔が緩み、胸が高まっていくのを感じていた。
宮部は、いつもの作業着姿ではなかった。
白いシャツに薄グレーのブルゾン、ベージュのチノパンという出で立ちの宮部は、全体的に体の線を隠すゆったりとしたサイズ感であるのに、ブルゾンの肩幅やパンツの丈といった、要所要所が彼の体型にきっちりと合っていて、都内の一等地を歩いたとしても見劣りしない洗練された空気を纏っていた。
「宮部さん、すみません。まだ支度できていなくて、もう少しだけお待ちいただけますか。」
どうぞ、と杏子は家に上がるよう勧めたが、宮部は丁寧に断って、玄関で待つと言った。女の一人住まいとなったこの家に上がるのを、おそらく遠慮しているのだろうと、杏子は、少し寂しくも好ましく感じた。
本当は、杏子は支度がすんでいた。宮部があまりにも素敵な格好で現れたので、デニムにパーカーという引っ越し作業に最適の服装が、宮部の隣に並ぶには相応しくないと、今にして着替えたくなったのだ。恋する乙女であるならば、もっと早く宮部が来る前に思い付いても良さそうなものであるが、宮部が来てくれる、宮部に会えるというだけで、すっかり浮き足立っていた杏子は、そこまで思い至らなかった。

「すみません、お待たせしました。埃まみれだったので…。」
五分も経たず再び玄関に現れた杏子を認めると、上がり框に腰かけていた宮部は、柔らかく顔を綻ばせて、すっと立ち上がった。
「行きましょうか。」
杏子が玄関を施錠して振り返れば、宮部は、杏子のために門扉を開けて待っていてくれた。先に、と促され、杏子が頭を下げて門を抜けようとした、そのとき、宮部の前を横切った杏子の耳元に、低音が静かに響いた。

「良く、お似合いです。」

弾かれたように、杏子が宮部の顔を見上げると、何時もの穏やかな微笑みが杏子を見下ろしていた。
剛健そうな短髪に涼しげな目元の、その端正な顔立ちの男の頬が、ほんの少し赤らんでいる気がしたが、果たして、杏子の願望が見せる幻なのか、暮れかけた春の斜陽のためか、杏子にはわからなかった。
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