君に捧ぐ花

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第六章 新しい門出

第三十三話 夕暮れの二人

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「岡田さん?」
呆然と宮部を見つめたまま何の動きも見せない杏子に、宮部は訝しげに呼びかけた。
ぱちくり、という擬態語がふさわしい大きな瞬きを一つして、杏子の顔は一瞬にして朱を帯びた。それはもう、夕日のせいになどできない程に、真っ赤っかである。
「すみません。余計なことを言いましたね。」
宮部は苦笑して頭を一つ掻くと、杏子の脇をすり抜け、先に門扉の先へと歩き出した。
あの、と、何を言う当てもないのに、杏子は宮部の背中に呼びかけ、思いの外、大きな声が出てしまったことに、自分でも驚いた。
振り返った宮部は、あたふたとする杏子とは裏腹に、至って涼しい顔をしている。とたんに、杏子は腹立たしく思った。自分はこんなにも宮部の一挙手一投足に浮き沈みし、気持ちを振り回されているのに、宮部と来たら、そしらぬ顔を決め込むのか、と。
「宮部さん、あんまりからかわないでください。私、こんな歳でお恥ずかしい話ですけど、あんまり男の方に慣れていなくて。宮部さんみたいな素敵な方から、お世辞とか社交辞令とか言われると、ドキドキしちゃって心臓持ちません。」
少しむくれてそう言うと、今度は、杏子が宮部の脇をすり抜けて、旧道を隣家の方へと歩き出した。
歩き出したはずであったが、杏子は、そう遠くへは進むことが出来なかった。熱くて骨張った大きな手が、宮部の右手が、杏子の左手首を徐に掴んだのだ。驚いて杏子が振り向く前に、宮部が静かに言葉を紡ぎ始めた。
「からかってなんか、いませんよ。お世辞や社交辞令じゃないですから、ドキドキしてもらえたなら光栄だ。岡田さんのことを・・・杏子さんのことを、もっと知りたい。だめですか?」
真剣な声音だった。杏子は、背中に熱い視線を感じた。振り向いて、宮部の顔を見たかったが、そうすれば何も言えなくなってしまう気がして、夕闇の中に点ったばかりの隣家の外灯一点を見つめた。
「それは…どういう…。大家さんとして、ということではなく…?」
背後の気配から、宮部は一つ、溜め息を付いたようだった。
「大家代理としては、賢くてしっかりした信用の置ける人だと思います。脱サラの後輩としては、少し危なっかしい、うっかりしたところが可愛いくて放っておけない。それから、女性としては、正直まだわからない。でも、杏子さんが嫌じゃないなら、会いたいと思ったときはそう言いたいし、可愛いと思ったときにもそう言いたい。それで杏子さんがドキドキしてくれるのなら、嬉しい。そう言えば、わかってもらえるかな?」
まだ杏子は、宮部の方を向くことが出来なかった。耳の奥で、煩いほどに血潮が脈打っている。

杏子は、宮部の実直な仕事ぶりや男らしさ、そして同時に兼ね備える優しさや気遣いが好きだった。涼しげな切れ長の目元も、その目尻を下げて柔らかく笑む様も、頭の芯が痺れるように甘く響く低音の声も、何もかもが好きだった。そして、今、杏子が目の当たりにしているように、駆け引きも何もなく、好意をただ真っ直ぐにぶつけてくるという、新たに知った宮部のもう一つの顔も、意外性はあったものの、杏子は好ましく思うのだった。

「宮部さん、もっと硬派な人だと思ってました。」
杏子は、ようやく宮部を振り返ることができた。杏子の言葉に、少し不安そうな顔をしている。
「でも、私も同じなんです。宮部さんのこと、仕事の先輩として尊敬するし憧れます。見ず知らずの私にこんなに親切にしてくれて、すごく優しいところもあるのに、そうかと思ったら、思わせ振りな甘いところもあって…。そういうところ、全部ひっくるめて、私も宮部さんのこと、素敵な男性だと思ってます。」
「なんだか最後はざっくり纏められたけど…。じゃあ、これからも宜しくってことでいいかな?」
杏子の大好きな笑顔でそう言うと、宮部はずっと掴んでいた杏子の左手首を解放し、そのまま杏子に握手を求めた。
杏子がその手を取って笑顔を返すと、宮部はいっそう強く握り返し、言葉を続けた。
「とりあえず、敬語やめようか、杏子さん。」
そう言った宮部の笑顔は、いつもの柔らかい微笑とはどこか違い、やっぱり杏子をどぎまぎさせたのだった。
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