33 / 110
第六章 新しい門出
第三十三話 夕暮れの二人
しおりを挟む
「岡田さん?」
呆然と宮部を見つめたまま何の動きも見せない杏子に、宮部は訝しげに呼びかけた。
ぱちくり、という擬態語がふさわしい大きな瞬きを一つして、杏子の顔は一瞬にして朱を帯びた。それはもう、夕日のせいになどできない程に、真っ赤っかである。
「すみません。余計なことを言いましたね。」
宮部は苦笑して頭を一つ掻くと、杏子の脇をすり抜け、先に門扉の先へと歩き出した。
あの、と、何を言う当てもないのに、杏子は宮部の背中に呼びかけ、思いの外、大きな声が出てしまったことに、自分でも驚いた。
振り返った宮部は、あたふたとする杏子とは裏腹に、至って涼しい顔をしている。とたんに、杏子は腹立たしく思った。自分はこんなにも宮部の一挙手一投足に浮き沈みし、気持ちを振り回されているのに、宮部と来たら、そしらぬ顔を決め込むのか、と。
「宮部さん、あんまりからかわないでください。私、こんな歳でお恥ずかしい話ですけど、あんまり男の方に慣れていなくて。宮部さんみたいな素敵な方から、お世辞とか社交辞令とか言われると、ドキドキしちゃって心臓持ちません。」
少しむくれてそう言うと、今度は、杏子が宮部の脇をすり抜けて、旧道を隣家の方へと歩き出した。
歩き出したはずであったが、杏子は、そう遠くへは進むことが出来なかった。熱くて骨張った大きな手が、宮部の右手が、杏子の左手首を徐に掴んだのだ。驚いて杏子が振り向く前に、宮部が静かに言葉を紡ぎ始めた。
「からかってなんか、いませんよ。お世辞や社交辞令じゃないですから、ドキドキしてもらえたなら光栄だ。岡田さんのことを・・・杏子さんのことを、もっと知りたい。だめですか?」
真剣な声音だった。杏子は、背中に熱い視線を感じた。振り向いて、宮部の顔を見たかったが、そうすれば何も言えなくなってしまう気がして、夕闇の中に点ったばかりの隣家の外灯一点を見つめた。
「それは…どういう…。大家さんとして、ということではなく…?」
背後の気配から、宮部は一つ、溜め息を付いたようだった。
「大家代理としては、賢くてしっかりした信用の置ける人だと思います。脱サラの後輩としては、少し危なっかしい、うっかりしたところが可愛いくて放っておけない。それから、女性としては、正直まだわからない。でも、杏子さんが嫌じゃないなら、会いたいと思ったときはそう言いたいし、可愛いと思ったときにもそう言いたい。それで杏子さんがドキドキしてくれるのなら、嬉しい。そう言えば、わかってもらえるかな?」
まだ杏子は、宮部の方を向くことが出来なかった。耳の奥で、煩いほどに血潮が脈打っている。
杏子は、宮部の実直な仕事ぶりや男らしさ、そして同時に兼ね備える優しさや気遣いが好きだった。涼しげな切れ長の目元も、その目尻を下げて柔らかく笑む様も、頭の芯が痺れるように甘く響く低音の声も、何もかもが好きだった。そして、今、杏子が目の当たりにしているように、駆け引きも何もなく、好意をただ真っ直ぐにぶつけてくるという、新たに知った宮部のもう一つの顔も、意外性はあったものの、杏子は好ましく思うのだった。
「宮部さん、もっと硬派な人だと思ってました。」
杏子は、ようやく宮部を振り返ることができた。杏子の言葉に、少し不安そうな顔をしている。
「でも、私も同じなんです。宮部さんのこと、仕事の先輩として尊敬するし憧れます。見ず知らずの私にこんなに親切にしてくれて、すごく優しいところもあるのに、そうかと思ったら、思わせ振りな甘いところもあって…。そういうところ、全部ひっくるめて、私も宮部さんのこと、素敵な男性だと思ってます。」
「なんだか最後はざっくり纏められたけど…。じゃあ、これからも宜しくってことでいいかな?」
杏子の大好きな笑顔でそう言うと、宮部はずっと掴んでいた杏子の左手首を解放し、そのまま杏子に握手を求めた。
杏子がその手を取って笑顔を返すと、宮部はいっそう強く握り返し、言葉を続けた。
「とりあえず、敬語やめようか、杏子さん。」
そう言った宮部の笑顔は、いつもの柔らかい微笑とはどこか違い、やっぱり杏子をどぎまぎさせたのだった。
呆然と宮部を見つめたまま何の動きも見せない杏子に、宮部は訝しげに呼びかけた。
ぱちくり、という擬態語がふさわしい大きな瞬きを一つして、杏子の顔は一瞬にして朱を帯びた。それはもう、夕日のせいになどできない程に、真っ赤っかである。
「すみません。余計なことを言いましたね。」
宮部は苦笑して頭を一つ掻くと、杏子の脇をすり抜け、先に門扉の先へと歩き出した。
あの、と、何を言う当てもないのに、杏子は宮部の背中に呼びかけ、思いの外、大きな声が出てしまったことに、自分でも驚いた。
振り返った宮部は、あたふたとする杏子とは裏腹に、至って涼しい顔をしている。とたんに、杏子は腹立たしく思った。自分はこんなにも宮部の一挙手一投足に浮き沈みし、気持ちを振り回されているのに、宮部と来たら、そしらぬ顔を決め込むのか、と。
「宮部さん、あんまりからかわないでください。私、こんな歳でお恥ずかしい話ですけど、あんまり男の方に慣れていなくて。宮部さんみたいな素敵な方から、お世辞とか社交辞令とか言われると、ドキドキしちゃって心臓持ちません。」
少しむくれてそう言うと、今度は、杏子が宮部の脇をすり抜けて、旧道を隣家の方へと歩き出した。
歩き出したはずであったが、杏子は、そう遠くへは進むことが出来なかった。熱くて骨張った大きな手が、宮部の右手が、杏子の左手首を徐に掴んだのだ。驚いて杏子が振り向く前に、宮部が静かに言葉を紡ぎ始めた。
「からかってなんか、いませんよ。お世辞や社交辞令じゃないですから、ドキドキしてもらえたなら光栄だ。岡田さんのことを・・・杏子さんのことを、もっと知りたい。だめですか?」
真剣な声音だった。杏子は、背中に熱い視線を感じた。振り向いて、宮部の顔を見たかったが、そうすれば何も言えなくなってしまう気がして、夕闇の中に点ったばかりの隣家の外灯一点を見つめた。
「それは…どういう…。大家さんとして、ということではなく…?」
背後の気配から、宮部は一つ、溜め息を付いたようだった。
「大家代理としては、賢くてしっかりした信用の置ける人だと思います。脱サラの後輩としては、少し危なっかしい、うっかりしたところが可愛いくて放っておけない。それから、女性としては、正直まだわからない。でも、杏子さんが嫌じゃないなら、会いたいと思ったときはそう言いたいし、可愛いと思ったときにもそう言いたい。それで杏子さんがドキドキしてくれるのなら、嬉しい。そう言えば、わかってもらえるかな?」
まだ杏子は、宮部の方を向くことが出来なかった。耳の奥で、煩いほどに血潮が脈打っている。
杏子は、宮部の実直な仕事ぶりや男らしさ、そして同時に兼ね備える優しさや気遣いが好きだった。涼しげな切れ長の目元も、その目尻を下げて柔らかく笑む様も、頭の芯が痺れるように甘く響く低音の声も、何もかもが好きだった。そして、今、杏子が目の当たりにしているように、駆け引きも何もなく、好意をただ真っ直ぐにぶつけてくるという、新たに知った宮部のもう一つの顔も、意外性はあったものの、杏子は好ましく思うのだった。
「宮部さん、もっと硬派な人だと思ってました。」
杏子は、ようやく宮部を振り返ることができた。杏子の言葉に、少し不安そうな顔をしている。
「でも、私も同じなんです。宮部さんのこと、仕事の先輩として尊敬するし憧れます。見ず知らずの私にこんなに親切にしてくれて、すごく優しいところもあるのに、そうかと思ったら、思わせ振りな甘いところもあって…。そういうところ、全部ひっくるめて、私も宮部さんのこと、素敵な男性だと思ってます。」
「なんだか最後はざっくり纏められたけど…。じゃあ、これからも宜しくってことでいいかな?」
杏子の大好きな笑顔でそう言うと、宮部はずっと掴んでいた杏子の左手首を解放し、そのまま杏子に握手を求めた。
杏子がその手を取って笑顔を返すと、宮部はいっそう強く握り返し、言葉を続けた。
「とりあえず、敬語やめようか、杏子さん。」
そう言った宮部の笑顔は、いつもの柔らかい微笑とはどこか違い、やっぱり杏子をどぎまぎさせたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる