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第六章 新しい門出
第三十四話 魅惑の赤提灯
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「本当に良かったの?池田さんの奥さん、あの顔は絶対に誤解してると思うけど…。」
杏子は、思わず口を突いて出そうな敬語を押さえ込み、なんとか宮部に話しかけることができた。
少し距離のある隣家からの帰り道、宵闇迫る、薄墨を垂らしたような空の下、旧道に沿って二人の影が並んで歩く。
「気にしなくていいよ。あそこの旦那、同級生だから。さっきの嫁さんは俺らの二個上の先輩で、今でも年上風吹かせて、嫁はまだかーなんてからかうんだよ。」
近所への挨拶回りに出た二人は、最初に訪れた斜向かいの老夫婦宅でも、今しがた行ってきた農家を営む池田家でも、新しい隣人である杏子を、宮部の友人として紹介したのだった。どちらの家でも、挨拶以上に詮索されることはなかったが、池田家の嫁の物言いたげな表情は、杏子の居心地を悪くした。
杏子は、思い出していた。ナツキは、親戚のお節介が煩わしいのだと。なるほど、親戚に限らず、娯楽の少ないこの町では、他人の恋愛や結婚すらも一大関心事になるのだ。これでは、纏まるものも纏まらないのでは、と杏子は小さく憤りを覚えた。
「そんなことより、晩飯、もう何か用意してある?」
並んで歩いていた宮部が、そう言って突如足を止めたので、杏子も一秒ほど遅れてそれに倣った。期待を込めて宮部を見上げ、杏子は黙って首を振った。
春の夕暮れに、宮部の情熱的な告白によって坂を転がるように急展開を見せた二人の仲だが、今夜はまだ、いくばくかの進展を見せそうだった。
上手い店がある、と、杏子を軽トラに乗せて、山間を縫って走る旧道を行く宮部は、すっかり暮れきった闇の中に、赤々とともる提灯が懐古的な情緒を漂わせるラーメン屋で車を停めた。
店構え自体は屋台のように簡素で小さいが、広い敷地にいくつもテント屋根を張って、テーブルとイスが並べてあった。かなりの席数であるが、その半分近くが埋まっている。敷地の縁に沿って、車が何台も駐車されていた。
山あいにぽつんと建つ辺鄙な場所の店にもかかわらず、これほどの客入りであるのだから、宮部の言うとおり美味しいのだろう。杏子は、ここへ連れてきてくれた宮部に、素直に感謝した。
屋台から少し離れたテント席に着いた杏子と宮部は、それぞれ店のお勧めを頼み、テーブルの中央に備えられた丸鉢に、山のように盛られたもやしの和え物をつまみながら、料理を待った。
「引っ越しそばならぬ、引っ越し中華そばだな。」
宮部はそう言って笑い、店員が持ってきた湯気の立つ器を前に、乾いた音を立てて割り箸を割った。
杏子も、薫り高い湯気に顔を埋め、深く息を吸い込んでから、熱々を一口すすった。
「おいしい…。」
思わず零れた杏子の言葉は、呟くように小さかったが、しっかりと耳に届いたようで、宮部は嬉しそうに破顔し、そうだろうと頷いた。
中華そば屋であるこの店のお勧め、鶏そばは、澄んだスープに金色の油が煌めく、素材の味一つ一つを尊重したようなシンプルな一品であった。麺は、艶のある黄色で細く縮れており、繊細なスープの味を上手く引き立てつつも、小麦の味をしっかりと感じさせる力強さもあった。表面を飾るのは、内側のぬめりを纏ったままの青ネギで、スープの熱で甘みを増したそれがとろりと口に入れば、筆舌に尽くしがたい甘みと旨味をもたらした。チャーシューなどは入っていないが、代わりに、軟骨を練り込んだ大きなつくねが二つ浮いており、ふんわりとした食感の中にこりこりとした歯ごたえの変化を楽しめた。ふわりと柚の香りがするところを見ると、おそらく柚の皮でも混ぜ込んであるのかもしれない。
「関東のラーメンとは全然違うわ。上品な味だけど、パンチもしっかりあって、本当に美味しい。連れてきてくれて、ありがとう。」
あまりの美味しさに、会話もせず一息に食べきった杏子は、僅かなスープを残して鉢を空にしてから、ようやく宮部に話しかけた。春の夜はまだ少し冷えたが、体の芯まですっかり温まった杏子の頬は、真冬に外を駆け回る子供のように上気していた。
宮部は、そんな杏子を微笑ましく見つめている。空腹が満たされた二人は、食後に煎れてもらう暖かいほうじ茶を手に、漸く会話を始めようとしていた。
杏子は、思わず口を突いて出そうな敬語を押さえ込み、なんとか宮部に話しかけることができた。
少し距離のある隣家からの帰り道、宵闇迫る、薄墨を垂らしたような空の下、旧道に沿って二人の影が並んで歩く。
「気にしなくていいよ。あそこの旦那、同級生だから。さっきの嫁さんは俺らの二個上の先輩で、今でも年上風吹かせて、嫁はまだかーなんてからかうんだよ。」
近所への挨拶回りに出た二人は、最初に訪れた斜向かいの老夫婦宅でも、今しがた行ってきた農家を営む池田家でも、新しい隣人である杏子を、宮部の友人として紹介したのだった。どちらの家でも、挨拶以上に詮索されることはなかったが、池田家の嫁の物言いたげな表情は、杏子の居心地を悪くした。
杏子は、思い出していた。ナツキは、親戚のお節介が煩わしいのだと。なるほど、親戚に限らず、娯楽の少ないこの町では、他人の恋愛や結婚すらも一大関心事になるのだ。これでは、纏まるものも纏まらないのでは、と杏子は小さく憤りを覚えた。
「そんなことより、晩飯、もう何か用意してある?」
並んで歩いていた宮部が、そう言って突如足を止めたので、杏子も一秒ほど遅れてそれに倣った。期待を込めて宮部を見上げ、杏子は黙って首を振った。
春の夕暮れに、宮部の情熱的な告白によって坂を転がるように急展開を見せた二人の仲だが、今夜はまだ、いくばくかの進展を見せそうだった。
上手い店がある、と、杏子を軽トラに乗せて、山間を縫って走る旧道を行く宮部は、すっかり暮れきった闇の中に、赤々とともる提灯が懐古的な情緒を漂わせるラーメン屋で車を停めた。
店構え自体は屋台のように簡素で小さいが、広い敷地にいくつもテント屋根を張って、テーブルとイスが並べてあった。かなりの席数であるが、その半分近くが埋まっている。敷地の縁に沿って、車が何台も駐車されていた。
山あいにぽつんと建つ辺鄙な場所の店にもかかわらず、これほどの客入りであるのだから、宮部の言うとおり美味しいのだろう。杏子は、ここへ連れてきてくれた宮部に、素直に感謝した。
屋台から少し離れたテント席に着いた杏子と宮部は、それぞれ店のお勧めを頼み、テーブルの中央に備えられた丸鉢に、山のように盛られたもやしの和え物をつまみながら、料理を待った。
「引っ越しそばならぬ、引っ越し中華そばだな。」
宮部はそう言って笑い、店員が持ってきた湯気の立つ器を前に、乾いた音を立てて割り箸を割った。
杏子も、薫り高い湯気に顔を埋め、深く息を吸い込んでから、熱々を一口すすった。
「おいしい…。」
思わず零れた杏子の言葉は、呟くように小さかったが、しっかりと耳に届いたようで、宮部は嬉しそうに破顔し、そうだろうと頷いた。
中華そば屋であるこの店のお勧め、鶏そばは、澄んだスープに金色の油が煌めく、素材の味一つ一つを尊重したようなシンプルな一品であった。麺は、艶のある黄色で細く縮れており、繊細なスープの味を上手く引き立てつつも、小麦の味をしっかりと感じさせる力強さもあった。表面を飾るのは、内側のぬめりを纏ったままの青ネギで、スープの熱で甘みを増したそれがとろりと口に入れば、筆舌に尽くしがたい甘みと旨味をもたらした。チャーシューなどは入っていないが、代わりに、軟骨を練り込んだ大きなつくねが二つ浮いており、ふんわりとした食感の中にこりこりとした歯ごたえの変化を楽しめた。ふわりと柚の香りがするところを見ると、おそらく柚の皮でも混ぜ込んであるのかもしれない。
「関東のラーメンとは全然違うわ。上品な味だけど、パンチもしっかりあって、本当に美味しい。連れてきてくれて、ありがとう。」
あまりの美味しさに、会話もせず一息に食べきった杏子は、僅かなスープを残して鉢を空にしてから、ようやく宮部に話しかけた。春の夜はまだ少し冷えたが、体の芯まですっかり温まった杏子の頬は、真冬に外を駆け回る子供のように上気していた。
宮部は、そんな杏子を微笑ましく見つめている。空腹が満たされた二人は、食後に煎れてもらう暖かいほうじ茶を手に、漸く会話を始めようとしていた。
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