君に捧ぐ花

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第七章 猜疑心

第四十九話 惚れた弱み

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洗面所の鏡の中に映る醜い顔に盛大な溜息を一つついて、杏子は、気休めと分かっていても、冷たい水で顔を洗って目元を冷やした。
昨夜は、早い時間から布団にくるまっていた杏子だが、深夜まで眠りにつくことが出来なかった。今朝の目元がひどく腫れているのは、泣き通したことだけが原因では無く、単に寝不足のせいもあるのだろう。杏子は、昨夜導き出した結論について、何度も何度も思考をたどり、それでもやはり同じ結論に至っては、枕を濡らした。考えれば考えるほどに、全ての辻褄が合うのだ。宮部が留守にしていた数日の内、例の女が何日あの家に居たのかはわからないが、夕べは確かにそこに存在していて、それはおそらく、今日帰国する宮部を出迎える為なのだろうと杏子は推測した。
宮部の酷い仕打ちに、夕べはただ嫌悪感に駆られた杏子であったが、一晩経って、宮部と女のあれこれを想像する内に、それはどす黒く渦巻く嫉妬の心へと変貌を遂げていた。再開を果たした二人は、宮部の無事の帰国と仕事の成功を祝うのだろうか。しばし離れていた時間を取り戻すように、甘いひと時を過ごすのだろうか。杏子に向けられたのと同じ、或いは、それ以上に燃え上がる宮部の熱情が、女の全身にくまなく降り注がれるのだろうか。何をしていても、杏子の思考は堂々と巡って、最後には、宮部と女が睦み合う様子を想像して沈むのだった。

(宮部さんの戻りは昼頃だったっけ。メールしておこう。しばらく彼には会いたくないわ。)

杏子は、パソコンを立ち上げて、宮部に連絡のメールをしておくことにした。約束の仕事は果たした旨と、報酬の振込先、そして、翻訳の大きな案件が入ってしばらく多忙で会えないことだけを記載して、極めて事務的な口調でメールを締めくくった。
早く帰ってきて欲しい、会いたいと、恋情を切なく綴った前々日のメールからすると、どんなに鈍い人間であっても、大変な心境の変化があったに違いないと気づくだろう。まして、宮部は鈍い男などでは無く、杏子の心を見透かして振り回して楽しむような男なのだ。二階の女の存在に、杏子が気づいたことを悟ったとしても不思議では無い。そうだとしても、もはや関係無いと、杏子は腹を決めていた。一時は、ラベルの女の存在に目を瞑って、それでも宮部の傍に居たいと思った杏子であるが、杏子自身も知らず知らずのうちに、他の女性の存在が許せないほど、宮部への想いは深まっていたのだ。そして、そうさせたのは、他ならぬ宮部自身であった。

メールを送信した後も、悶々として過ごした杏子は、翻訳の仕事など手につくはずも無く、ろくに食事も摂らずに一日を過ごした。結局、その日には宮部からの連絡は、メールも電話も訪いも何も無かった。ブログには、夜半頃に、買い付けから戻った旨と仕入れた植物についての記事が早速アップされていた。杏子は、宮部が無事に帰国していることを知って、安堵した自分がいることに驚いたが、これが惚れた弱みというものかと、妙に納得した。

翌朝も、枕を濡らすことは無くとも寝不足が続いていた杏子は、本来ならば昼頃まで寝ていたかもしれなかったが、午前中の早い時間に鳴り響いたチャイムのせいで、仕方なく布団から出ざるを得なかった。
以前の住処にあったようなカメラ付きインターホンなど無いこの家では、引き戸の玄関扉のガラス越しに、訪問相手の姿をぼんやりと確認することしか出来なかった。もっとも、今、玄関扉の向こう側に立つ人物は、目隠しのために歪められたガラス面越しの姿であっても、間違いようのない卓越したシルエットの持ち主である。高い身長にがっしりとした体つきのその男は、宮部夏樹に他ならなかった。

「杏子さん、おはよう。出てきてくれる?」

向こうからもガラス越しに杏子の姿が見えているのか、杏子が玄関に出てすぐに、いつもと変わらない、杏子が大好きな低く優しい声が、扉の向こうから杏子の耳に届いた。
どう応えたものかと、杏子はしばらく逡巡した。この扉を開けて、目尻に皺を寄せたあの優しげな笑みに応えられたら、どれだけ幸せなことだろう。何もかもを忘れ、あの厚い胸板に頬を寄せて、逞しい腕に抱きしめられたら、どんなにか気持ちが昂ぶるだろう。
杏子には、そんなことなど、できるはずも無かった。

「ごめんなさい。寝起きで…とても人前に出られるような格好じゃ無いの。また改めて、私から伺うから…今日はごめんなさい。」

力無くそう言うのが、杏子の精一杯だった。
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