君に捧ぐ花

ancco

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第七章 猜疑心

第五十話 決別

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「そんなこと、どうでもいい。開けて顔見せて。向こうでもずっと会いたかった。メールも嬉しかったよ。」
宮部の声が甘く切なく響き、杏子の胸をきつく締め付けるようだった。
「…杏子。開けて。」
宮部はそう言って、霞んだガラスの玄関扉に、そっと手を添えたようだった。
杏子は、もう、我慢ならなかった。他にも女がありながら、そんなにも愛しげに自分の名前を呼ぶ宮部のことが、のうのうと会いたかったなどと言ってのける宮部のことが、杏子は腹立たしくて憎らしくて、そして、この上なく恋しくて堪らなかった。
「杏子なんて呼ばないで!これ以上困らせるのはやめてよ!分からない?もう宮部さんには会いたくないの。仕事に集中したいのよ。生活がかかってるんだから。貴方と違って色惚けしてる暇なんて私には無いの。揶揄って遊びたいなら他を当たって。」
半ば叫ぶようにそう言い放った杏子は、感情の昂ぶりを抑えきれずに、最後には涙で声が震えたのが自分でも分かった。酷い言葉を吐いてしまったと、言い終えてすぐに後悔したが、それでも宮部を追い払うに十分であったかどうか、杏子は自信がなかった。
扉の向こうでしばらく黙していた宮部が、激高した杏子をどう思ったのか、表情の分からないこちら側からは推測のしようも無かったが、やがて黙って立ち去ったところを見ると、宮部は宮部で杏子に腹を立てたのかもしれなかった。

(もう、これで終わり…。ナツキかどうかなんて関係無い。あんな酷い人、早く忘れてしまいたい。)

宮部とこうなってしまった以上、この家も、近いうちに出た方が良いのかもしれないと杏子は考えた。毎日真面目に仕事に取り組めば、5万円程度の並の家賃を支払ったとしても、少しの蓄えが出来るほどには収入があるはずだった。もっとも、現在の杏子の精神状態では、翻訳という高度に頭を使う仕事がまともに捗るとも思われず、引っ越しなど当分はできそうにない。
宮部に近づきたいがために、なりふり構わず住み始めたこの家は、蓋を開けてみれば、古さや不便ささえも心地よく感じられるほど、杏子には適した住処であった。しかし、およそ男女関係というものは、恋人か夫婦かの形態の種を問わず、往々にして拗れるものであるというのに、家という、生活の拠点となる重要なものを、なぜこんなにも軽薄な動機で決めてしまったのか、今になって、杏子は自分の浅慮を悔いた。

(稼がなきゃ始まらないわね。仕事しよ。)

先立つものは金であると、杏子は自分に言い聞かせ、再び翻訳の仕事に真剣に取り組み始めた。数日経っても、宮部はあれ以上杏子に接触してくることは無かった。止めようと思いつつも、それでも時折覗いてしまうブログでは、変わらず植物の世話に勤しんでいる様子が見られた。そんな宮部を見て、杏子も、自分ばかりが落ち込んで引きずってなどいられないと、奮起することができた。

宮部を追い返してから二週間ほど経ったその日、杏子は、地域の情報紙に広告を出すべく、町役場へと足を運んだ。地域振興課と名付けられたその部署は、町の広報誌を作成するなど、町の文化の発展と住民間の交流を促進することを目的とした機関であった。転入手続きをした際に、広報誌の4月号を手渡しでもらい、そこに「売ります、買います」というコーナーと並んで、家庭教師や各種出張サービスなどの宣伝広告が載っているのを、杏子はふと思い出したのだった。早速、担当部署に電話して、翻訳サービスの広告を出したい旨を伝えると、一度役場で詳細を、という話になったのだ。

役場まで愛車で約30分の距離を行くと、杏子は、一階のエントランスで思わず足を止めてしまった。以前、ここの掲示板で、太陽の庭の求人広告を見たのだったなと思い出に耽り、胸の痛みを覚えたためである。
近頃の杏子は、一日の内で宮部を想うことが一度も無い日もあるくらい、手酷い失恋から立ち直りつつあった。幸い、宮部とは生活パターンが異なるのか、狭い町の中でも、道ですれ違うことも無ければ、唯一の駅前のスーパーで会うこともなく、心をかき乱されること無く日々を過ごすことが出来ていた。ところが、こんなところに思わぬ伏兵が潜んでおり、油断していた杏子は、久方ぶりに失恋の傷を抉られたのだった。
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