君に捧ぐ花

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第八章 すれ違う心

第五十一話 坂下という男

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目的の地域振興課は、役場の2階にあった。受付のような台のところへ杏子が歩を進めると、近くに座っていた中年の女性が用件を聞いてくれ、後ろの方の窓際に座っていた男性に呼びかけた。
「坂下さん。お約束の岡田様がお見えですよ。」
机上に高く積まれた書類や雑誌の影から、ひょっこりとこちらに顔を覗かせた男性が、杏子が電話で話した坂下という担当者のようだった。
遠目ではあるが、目が合った気がして、杏子は会釈した。坂下は軽くこちらに手を上げてから、ノートのようなものを携えて、杏子の方へと歩いてきた。
「岡田さん、お待ちしておりました。わざわざご足労頂いてすみません。」
軽快な口調でそう言った坂下は、年の頃は杏子と同じか少し若いくらいであろうか。さらさらとしたストレートヘアに大きめの目が印象的な、可愛らしいと形容するにふさわしい、少年のような容貌の男性だった。
「いえ、こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
杏子は、目前まで歩いてきた坂下に、改めて頭を下げた。

坂下に案内されて別室の小部屋に入った杏子は、先ほどの中年女性が煎れてくれた緑茶を前に、坂下の話に耳を傾けていた。
曰く、広報誌は営利を目的としない雑誌であるため、そこに載せられる広告も無料で扱っており、編集である担当者が、町の文化振興や交流促進に役立つかどうかという観点から、掲載の可否を判断するというのである。杏子は、脱サラしてこの町に来た経緯を、ナツキ云々という真実は伏せて、建前の部分のみを掻い摘んで坂下に説明した。

「なるほど、なるほど。良いですねぇ。岡田さんが提供してくださる翻訳サービスは、町の国際化に貢献していただけそうです。喜んで掲載させてもらいますよ。」
坂下が軽い調子でそう言うと、杏子は、わざわざ役場まで呼びつけられたのに、こうもあっさりと合格をもらえて拍子抜けした。
「そうですか。ありがとうございます。助かります。」
深く頭を下げて礼を述べた杏子に、坂下は、この件はさておき、と話を続けた。
「岡田さんに個人的に依頼したい案件があるんですが、受けていただけますか?」
坂下は、少年のように屈託の無い笑顔を杏子に向けていた。
「はい。もちろん、仕事をいただけるなら、何でもやらせていただきます。何の翻訳ですか?」
「実は、僕の実家がこの町で果樹園をやっているんですけど、ここ数年、農協を通さずに産直市場やネット販売を始めたんです。それが割と好調で、今、海外に向けて蜜柑を輸出してみようかという話が出てるんですよ。それに先だって、ウェブサイトや色んな販促グッズの英語化をしたいんです。」
楽しそうに、身を乗り出すようにして話す坂下を前に、杏子も、大きな仕事になりそうだと、期待に胸が膨らんだ。報酬という実入りの面だけで無く、面白そうな仕事だと感じたのだ。
「ぜひ、やらせてください。ご実家には、私の方からご連絡しますか?それとも…。」
杏子が承諾すると、坂下は満面の笑みを浮かべて、勢いよく立ち上がった。
「僕が窓口になります。休みの日は僕も手伝っているんです。週末、岡田さんのご都合が良ければ、一度うちに来ていただけませんか。家族も交えて詳しいお話をしましょう。」
特に予定も無かった杏子が諾と応えると、坂下は安堵した顔でまた席に着いた。
「いや~、受けてもらえて良かった。実はですね、広告の方は電話だけでも話がついたんです。だけど僕、どうしても岡田さんに実家の方の仕事を受けてもらいたくて、それで今日は足を運んでもらったようなもんなんです。なんだか騙し討ちみたいですみません。」
坂下の話を聞いて、言葉通り騙されたという気分になった杏子であったが、幼げな顔立ちで申し訳なさそうに眉を下げた坂下を見ていると、怒る気にはなれなかった。
「かまいません。お仕事をいただけてむしろ感謝しています。ところで、ご実家の果樹園はどちらにあるんですか?」
「愛宕神社ってご存じですか?駅前から山手方面の路線バスに乗って、終点から少し歩いた小山の上にあるんですけど、その愛宕神社へ上がる参道沿いにうちの果樹園があります。」
杏子は、愕然とした。坂下と言えば、確かに、太陽の庭のすぐ上にある果樹園がそんな名前だったでは無いかと、今になって杏子は思い当たった。この仕事は受けるべきでは無かったかも知れないと杏子は後悔したが、既に断れる状況では無かった。目の前では、坂下が相変わらず軽快な口調で何やら喋り続けているが、杏子の耳には入っていても、頭には全く入ってこないのであった。
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