君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
63 / 110
第八章 すれ違う心

第六十三話 噛まれた猫

しおりを挟む
「あの…、私、前に言った通り、今は誰かとお付き合いができるような状況じゃないの。健さんのことはいい人だと思うし、この町で初めてできた友達みたいで、嬉しく思ってるの。だけど…。」
「仕事のことなら応援するよ。今までみたいに、お構いなしに誘って困らせたりしないって約束する。友達としてじゃなくて、彼氏として、杏子さんを支えたいんだ。」
杏子の紡ぐ言葉の色が悪いことを知るや否や、被せるようにして健はそう言い募った。
「…仕事のことだけじゃないの。私の心情的に、今は誰かを好きになることが出来ないっていうか…。」
健の勢いに押されて、俯いてどうにか言葉を口から絞り出した杏子に、健はぐっと眉間に皺を寄せて剣呑な空気を纏った。
「他に好きな男でもいるの?」
杏子は、下を向いたまま何も言えず黙した。
「宮部さんじゃないの?」
どんどん低くなる健の声に、杏子は、小さく縮こまり怯むことしかできなかった。
宮部が好きなのかと問われれば、やはり、そうなのだろうと思う。女の姿をこの目で見て、もはや杏子に勝ち目はないのだと絶望しつつも、それでも、身を裂かれるような嫉妬に駆られるということは、宮部に気持ちが多分にあるということなのだ。

「何とか言ってよ、杏子さん。」
はっとして、杏子は顔を上げようとした。先程までの低く唸るような声とは違い、切なそうに震える弱々しい声音だったからだ。
顔を上げたのは間違いだったと杏子が悔いる暇もなく、杏子の視界を黒い影が遮り、口許に湿った熱を感じた。それは、突然の動作に目測を誤ったのか、辛うじて、杏子の唇から逸れたところに着地したが、すぐに離れ、軌道を修正した二度目には、ふっくらと柔い紅色の膨らみを間違いなく覆ってしまった。

「やっ…。嫌よ。やめて!」
途切れ途切れに、健の体を押し戻しては首を左右に振り、束の間自由になった唇で言葉を紡いだが、都合の悪いものに蓋をするように、また直ぐに言葉は遮られ、杏子の口はすっかり閉ざされてしまった。
抵抗を見せた杏子の腕は、今では左右とも固く取り押されられ、逃げようとした体も、窓ガラスとドアに隙間なく押し付けられて、密閉された空間の何処にも、杏子の逃げ場はなかった。
今や座席に膝をついて、完全に助手席の方へ体を乗り出してきた健は、全身で杏子を押さえ込んでいるのか、唇の柔さなどわからないほどに、固く強く杏子に顔を押し付けていた。膠着状態にしびれを切らしたのか、いよいよ、杏子の中への侵入を試みる不埒な舌が、執拗に杏子の唇の上を行き来し始めて、杏子が最後の力を振り絞って抵抗を強めた時だった。

「おい!その辺にしとけ!」
背後で、大きな音をたててガラス窓が揺れた。驚いた健が力を緩め、その隙に杏子は力の限り目の前の男を突き飛ばした。小柄とはいえ歴とした成人男性を、それほど遠くに押しやることには失敗したものの、少なくとも体の自由を取り戻した杏子は、急いでドアを開けて外に転がり出た。
掌や膝に砂利の固い感触を感じ痛みを伴ったが、何よりも、健に支配された閉鎖空間から脱け出せたことに、杏子は心の底から安堵した。

「無理強いは感心しないな。兄貴達にも言わせてもらう。ガキは帰って寝ろ。」
腰が抜けたのか、杏子がまだ地面に這ったまま立ち上がれずにいる間に、背後で、敵を威嚇する獣のような低い声が聞こえ、車のドアを叩きつけるように閉めた音が響いた。
一度も聞いたことのない、稀に見る鋭い調子だったが、杏子には、その低音の声の持ち主が間違えようもなく判った。
踞った格好のまま、しかし、手足に刺さる砂利の痛みなどどこかへ吹き飛んで、顔を上げて視界に入った男の背中を、杏子は茫然と見つめた。
車が走り去るのを確認してから、宮部は漸く杏子に向き直った。窮地を宮部に救われ、感極まった杏子は、駆け寄って抱き締めてもらいたい程に気が昂っていたが、振り向いた宮部の表情を見て、頭から冷水を浴びせられたように感じた。
侮蔑に溢れた、冷たい視線が杏子を見下ろしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。 しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。 物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。 戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。 これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。 全50話の予定です ※表紙はイメージです ※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)

すれ違う心 解ける氷

柴田はつみ
恋愛
幼い頃の優しさを失い、無口で冷徹となった御曹司とその冷たい態度に心を閉ざした許嫁の複雑な関係の物語

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...