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第八章 すれ違う心
第六十二話 窮鼠
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「保さん、今日は本当にありがとうございました。志乃さんも、美味しいお料理ご馳走さまでした。」
杏子は、健のコンパクトカーに乗り込んで、窓越しにもう一度保と志乃にお礼を言った。
「こちらこそ。是非また来てください。健は、調子の良いところもありますけど、悪い人間じゃありませんから。良かったら、これからも仲良くしてやってください。」
健の想いを知っているのか、保は別れ際にそう言って弟を杏子に売り込んだ。杏子は愛想笑いをして誤魔化したが、健は兄の老婆心が杏子を困らせたことを悟ったのか、発車した車中でしきりに杏子に謝った。
「保兄さんには困ったもんだよ。僕のこといつまでも子供扱いなんだから。」
杏子は、そう言った健の口調こそが子供っぽく聞こえて、可笑しさが込み上げたが、なんとか笑いを堪え、会話を続けた。
「保さんとは何歳差なの?佑さんは、宮部さんと同じだから29よね。」
「保兄さんは35だよ。うちは六歳差、五歳差の兄弟だから、僕と保兄さんとは11も離れてるんだ。だからいっつも子供扱い。」
それだけ離れていれば無理からぬことだと、杏子が内心納得していると、そういえば、と健が切り出した。
「朝市で佑兄さんと話し込んでたみたいだったけど、宮部さんの話をしてたんだ。」
運転をしながら、健はちらりと横目で杏子に視線を寄越した。蛇行する参道をゆっくりと下る車の外は、街灯も人家の明かりもない真っ暗闇だった。
「うん。苦労してるって聞いて、今までそんな風に全然見えなかったから、気になっちゃって。」
杏子は、佑が杏子に腹をたてていることは、健には知られたくないと思った。疚しいことは何もなく、佑の完全なる誤解であるのだが、杏子に想いを寄せてくれている健に、杏子と宮部とのあれこれを知られるのは気まずかった。
ふうん、と健は気のない返事をしたが、相変わらず前を向いて運転を続けている。車は県道に出て、真新しく舗装された道路が街頭に照らされていた。
「そもそもさ、宮部さんとはどうやって知り合ったの?大家代理って言ったって、普通、仲介不動産屋としかやりとりしないでしょ。家の不具合かなんかで連絡を取ったの?」
杏子と宮部の関係を気にしているのか、健の口調に微かな違和感を感じた杏子は、慎重に言葉を選んで話すことにした。どうしてだか、浮気を暴かれようとしているような、居心地の悪さを感じた。一台の対向車が過ぎて、フロントライトの光が眩しいのか、健は小さく悪態をついている。
「不動産屋の仲介じゃないのよ。それが、たまたまね、愛宕神社に行こうとしてて、宮部さんのところのハウスの植物が遠目に見えたんだけど、見たことない木だなぁって眺めてたら、通りかかった宮部さんが中へどうぞって見せてくれたの。その時にね、見慣れない人間がこの辺りにいて珍しかったんでしょうけど、事情をお話しすることになって。安く住める家を探してるって言ったら、叔母様のお家を紹介してくださったの。」
健は、思わずといった体で、大きく驚きの声をあげた。
「杏子さん!そんなのだめだよ!危ないじゃないか。宮部さんが悪いやつだったり下心があったらどうするの。杏子さんに近づくために手元に置こうとしてるだけかもしれないだろ。鍵だって、宮部さんも持ってるんじゃないの!?」
健の剣幕に、杏子はたじろぎつつ、なるほどそういう見方もできるのかと、目から鱗が落ちた。真実は、杏子の方にこそ、宮部に近づきたいという下心があったのだから、そんな心配など端から思いもしなかったのだ。
「そうね。今思えば無用心だったかも。でも、結果として宮部さんはいい人だったし、鍵も、私にくださったもの以外には叔母様が持ってるだけだって言ってたわよ。私が入居してからは、うちに上がったこともないし。」
砂利を踏みしめる大きな音をたてて、健の車が杏子の家の車寄せに入った。杏子は、これ以上健に腹を探られては堪らないと安堵したが、健はまだ、話を畳む気はないようだった。
「杏子さん。そんなの結果論だよ。僕は、自分の彼女には、他の男が紹介した家になんて住んで欲しくない。杏子さん、そろそろ返事をくれない?僕の気持ちは変わってないよ。杏子さんが好きだ。最初から可愛い人だと思ってたし、一緒に出掛けるようになって、ますます好きになった。杏子さんはどうなの?気持ちを教えて。」
その時が来た、と杏子は焦りを感じた。のらりくらりと誤魔化し続けられたらと、都合の良い考えでいた杏子だったが、今度ばかりは、逃げようもないほどに真っ直ぐと、健は熱い想いを杏子にぶつけてきたのだ。前の告白のときのような、本気を疑ってしまうようないつもの調子の軽さはすっかり鳴りを潜めて、恋情に潤んだ大きな二つの瞳を杏子に向けていた。
杏子は、健のコンパクトカーに乗り込んで、窓越しにもう一度保と志乃にお礼を言った。
「こちらこそ。是非また来てください。健は、調子の良いところもありますけど、悪い人間じゃありませんから。良かったら、これからも仲良くしてやってください。」
健の想いを知っているのか、保は別れ際にそう言って弟を杏子に売り込んだ。杏子は愛想笑いをして誤魔化したが、健は兄の老婆心が杏子を困らせたことを悟ったのか、発車した車中でしきりに杏子に謝った。
「保兄さんには困ったもんだよ。僕のこといつまでも子供扱いなんだから。」
杏子は、そう言った健の口調こそが子供っぽく聞こえて、可笑しさが込み上げたが、なんとか笑いを堪え、会話を続けた。
「保さんとは何歳差なの?佑さんは、宮部さんと同じだから29よね。」
「保兄さんは35だよ。うちは六歳差、五歳差の兄弟だから、僕と保兄さんとは11も離れてるんだ。だからいっつも子供扱い。」
それだけ離れていれば無理からぬことだと、杏子が内心納得していると、そういえば、と健が切り出した。
「朝市で佑兄さんと話し込んでたみたいだったけど、宮部さんの話をしてたんだ。」
運転をしながら、健はちらりと横目で杏子に視線を寄越した。蛇行する参道をゆっくりと下る車の外は、街灯も人家の明かりもない真っ暗闇だった。
「うん。苦労してるって聞いて、今までそんな風に全然見えなかったから、気になっちゃって。」
杏子は、佑が杏子に腹をたてていることは、健には知られたくないと思った。疚しいことは何もなく、佑の完全なる誤解であるのだが、杏子に想いを寄せてくれている健に、杏子と宮部とのあれこれを知られるのは気まずかった。
ふうん、と健は気のない返事をしたが、相変わらず前を向いて運転を続けている。車は県道に出て、真新しく舗装された道路が街頭に照らされていた。
「そもそもさ、宮部さんとはどうやって知り合ったの?大家代理って言ったって、普通、仲介不動産屋としかやりとりしないでしょ。家の不具合かなんかで連絡を取ったの?」
杏子と宮部の関係を気にしているのか、健の口調に微かな違和感を感じた杏子は、慎重に言葉を選んで話すことにした。どうしてだか、浮気を暴かれようとしているような、居心地の悪さを感じた。一台の対向車が過ぎて、フロントライトの光が眩しいのか、健は小さく悪態をついている。
「不動産屋の仲介じゃないのよ。それが、たまたまね、愛宕神社に行こうとしてて、宮部さんのところのハウスの植物が遠目に見えたんだけど、見たことない木だなぁって眺めてたら、通りかかった宮部さんが中へどうぞって見せてくれたの。その時にね、見慣れない人間がこの辺りにいて珍しかったんでしょうけど、事情をお話しすることになって。安く住める家を探してるって言ったら、叔母様のお家を紹介してくださったの。」
健は、思わずといった体で、大きく驚きの声をあげた。
「杏子さん!そんなのだめだよ!危ないじゃないか。宮部さんが悪いやつだったり下心があったらどうするの。杏子さんに近づくために手元に置こうとしてるだけかもしれないだろ。鍵だって、宮部さんも持ってるんじゃないの!?」
健の剣幕に、杏子はたじろぎつつ、なるほどそういう見方もできるのかと、目から鱗が落ちた。真実は、杏子の方にこそ、宮部に近づきたいという下心があったのだから、そんな心配など端から思いもしなかったのだ。
「そうね。今思えば無用心だったかも。でも、結果として宮部さんはいい人だったし、鍵も、私にくださったもの以外には叔母様が持ってるだけだって言ってたわよ。私が入居してからは、うちに上がったこともないし。」
砂利を踏みしめる大きな音をたてて、健の車が杏子の家の車寄せに入った。杏子は、これ以上健に腹を探られては堪らないと安堵したが、健はまだ、話を畳む気はないようだった。
「杏子さん。そんなの結果論だよ。僕は、自分の彼女には、他の男が紹介した家になんて住んで欲しくない。杏子さん、そろそろ返事をくれない?僕の気持ちは変わってないよ。杏子さんが好きだ。最初から可愛い人だと思ってたし、一緒に出掛けるようになって、ますます好きになった。杏子さんはどうなの?気持ちを教えて。」
その時が来た、と杏子は焦りを感じた。のらりくらりと誤魔化し続けられたらと、都合の良い考えでいた杏子だったが、今度ばかりは、逃げようもないほどに真っ直ぐと、健は熱い想いを杏子にぶつけてきたのだ。前の告白のときのような、本気を疑ってしまうようないつもの調子の軽さはすっかり鳴りを潜めて、恋情に潤んだ大きな二つの瞳を杏子に向けていた。
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