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第十章 瓦解
第七十九話 もう一人の自分
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それから半月の間、杏子は忙しい日々を過ごした。たった二ヶ月前に引っ越してきたばかりだというのに、また新居を探さなくてはならず、翻訳の案件待ちの合間には、必ず物件検索を掛けた。同時に、部屋の荷物の整理も進めていたが、唯一の救いは、開かずに物置部屋に積んでおいた段ボール数箱が、そのまま次の新居へ持って行けることであった。
杏子を何より手間取らせたのは、度々思考を占拠する宮部の罵詈雑言であった。宮部の自宅で激しい口論となったあの日、口汚く図星を指されて激高した杏子であったが、日を追う毎に、宮部の吐いた言葉の一つ一つが重石となって心に沈み、何をしていても杏子の手をしばしば止めてしまうのだった。
あっちでも、こっちでも、お前は同じことをやってんだよ。
宮部のその言葉は、杏子に、かつての苦い記憶を蘇らせた。前職の退職時の一件である。杏子は、配属されてから三年間も共に働いた渉外部の面々のことを、そして自分自身のことを、何一つ理解してはいなかった。自分を非常に買ってくれていた渡部のこと、自分を歯牙にも掛けていなかった濱本のこと、自分を案じて苦言を呈し続けていた沈のこと、そして、そんな彼らを何一つ理解せず、一人で仕事ができる気になっていた自分のこと。退職後すぐは、あれほど自分の傲慢さ、愚かさを悔いて恥じ入っていたはずなのに、この新天地に来て、杏子はまた同じ失敗を繰り返し、宮部という愛しい存在を喪った。否、ここへやってくる前から、杏子は、ナツキ相手にも同じ過ちを犯していたのだ。心を病むほどに傷つき孤独だった少女相手に、傍若無人の限りを尽くし、一人で勝手に盛り上がって、一人で勝手に落ち込み、辞職、転居と軽はずみな行為に至った。宮部が指摘したとおり、杏子は、無機質なモニターに映る字面だけを見て、その向こう側にいる、悩み苦しみ孤独である有機的存在に、想いを馳せては居なかったのだ。
杏子の気分は、落ちて落ちて、とことん落ちて地を這ったが、それでも生来の要領の良さで、すぐに転居先を見つけることができた。人口過疎のために移住支援に力を入れている、瀬戸内海に浮かぶ小さな島である。小さいと言っても、スーパーもコンビニも病院もあり、教育施設も中学校までは備えられていて、自宅で仕事をする杏子には、何の不自由も無く住める土地であった。決め手は、10万円までの移住費用の補助と、毎月の家賃補助、そして軽自動車の最大10年間の貸与という破格の待遇である。この島の、家賃5万円の一軒家に住んで、そのうち2万円の補助をもらい、実質負担額3万円で暮らしていこうというのが、杏子の目論見であった。
その移住申請の手続きに追われている最中、退去日まであと数日という日になって、以前に保が約束したとおり、健が杏子を訪ねてきた。あの日車中で無体な真似をされてから、三週間程が経っていた。
「お詫びに来るのが遅くなってしまったけど、杏子さん、あの日は…、乱暴してしまって申し訳ありませんでした。赦してもらえるとは思わないけど、どうか謝らせてください。」
健はそう言って、施錠された門の向こう側で、深々と頭を下げた。杏子は門を開けて出ようとしたが、健がその必要は無いと言って、それを制したのだった。
「私も、健さんに謝らないといけないの。ごめんなさい。」
杏子の意外な言葉に、健は思わずといった体で聞き返したが、杏子は構わず言葉を続けた。
「もう気付いていると思うけど、私、宮部さんのことが好きだったの。貴方に出会う前の話だけど、宮部さんも、私の気持ちに応えようとしてくれて、でも私が馬鹿なことをして喧嘩別れのようになってたの。それでも宮部さんのことが忘れられなくて、辛くて、それで、健さんの気持ちを利用しようとしたのよ。貴方は真っ直ぐに気持ちを伝えてくれたのに、私はこのことを隠していて、フェアじゃ無かったわ。本当にごめんなさい。貴方を追い詰めてしまったのも、私が優柔不断な態度をとったせいだと思う。」
健は悲痛な表情で、杏子の言葉に耳を傾けていたが、しばらく黙した後、固く引き結んだ口を開いた。
「…それでも、僕のしたことは許されることじゃないよ。あの…、杏子さん。さっき玄関を開けたときに、段ボール箱が沢山見えたけど、もしかして引っ越すの?僕の…、僕のせいで?」
健は、杏子の背後にある、今はもう閉められた扉に目線をやった。
「引っ越すのは引っ越すけど、健さんのせいじゃないから。もう、この町に居る理由が無いの。なにより、ここは宮部さんの伯母様の家だし、もうここには居られないから。」
「まだ、宮部さんと仲違いしてるの?」
「貴方が私にしたことよりも、もっと酷いことをしたの。到底赦してもらえないこと。だから、私には、健さんを怒る資格なんて無い。本当に、もう気にしないで。」
健は、何かに堪えるように顔を歪めて、杏子を見つめた。杏子は、まるで自分を見ているようだった。取り返しのつかない過ちを犯して、愛しい人を喪ってしまう辛さが、杏子には手に取るように解った。
「引っ越し先、聞いてもいい?」
杏子は、俯いて、否と答えた。
「県外の遠くへ行くの。もう、健さんにも、もちろん宮部さんにも、この町の誰にも会うことは無いと思うわ。だから、私のことは忘れてほしい。お互いに、辛い想いを早く忘れられるように努力しましょう。」
杏子の言葉に、健は意気消沈し、そして帰って行った。
杏子を何より手間取らせたのは、度々思考を占拠する宮部の罵詈雑言であった。宮部の自宅で激しい口論となったあの日、口汚く図星を指されて激高した杏子であったが、日を追う毎に、宮部の吐いた言葉の一つ一つが重石となって心に沈み、何をしていても杏子の手をしばしば止めてしまうのだった。
あっちでも、こっちでも、お前は同じことをやってんだよ。
宮部のその言葉は、杏子に、かつての苦い記憶を蘇らせた。前職の退職時の一件である。杏子は、配属されてから三年間も共に働いた渉外部の面々のことを、そして自分自身のことを、何一つ理解してはいなかった。自分を非常に買ってくれていた渡部のこと、自分を歯牙にも掛けていなかった濱本のこと、自分を案じて苦言を呈し続けていた沈のこと、そして、そんな彼らを何一つ理解せず、一人で仕事ができる気になっていた自分のこと。退職後すぐは、あれほど自分の傲慢さ、愚かさを悔いて恥じ入っていたはずなのに、この新天地に来て、杏子はまた同じ失敗を繰り返し、宮部という愛しい存在を喪った。否、ここへやってくる前から、杏子は、ナツキ相手にも同じ過ちを犯していたのだ。心を病むほどに傷つき孤独だった少女相手に、傍若無人の限りを尽くし、一人で勝手に盛り上がって、一人で勝手に落ち込み、辞職、転居と軽はずみな行為に至った。宮部が指摘したとおり、杏子は、無機質なモニターに映る字面だけを見て、その向こう側にいる、悩み苦しみ孤独である有機的存在に、想いを馳せては居なかったのだ。
杏子の気分は、落ちて落ちて、とことん落ちて地を這ったが、それでも生来の要領の良さで、すぐに転居先を見つけることができた。人口過疎のために移住支援に力を入れている、瀬戸内海に浮かぶ小さな島である。小さいと言っても、スーパーもコンビニも病院もあり、教育施設も中学校までは備えられていて、自宅で仕事をする杏子には、何の不自由も無く住める土地であった。決め手は、10万円までの移住費用の補助と、毎月の家賃補助、そして軽自動車の最大10年間の貸与という破格の待遇である。この島の、家賃5万円の一軒家に住んで、そのうち2万円の補助をもらい、実質負担額3万円で暮らしていこうというのが、杏子の目論見であった。
その移住申請の手続きに追われている最中、退去日まであと数日という日になって、以前に保が約束したとおり、健が杏子を訪ねてきた。あの日車中で無体な真似をされてから、三週間程が経っていた。
「お詫びに来るのが遅くなってしまったけど、杏子さん、あの日は…、乱暴してしまって申し訳ありませんでした。赦してもらえるとは思わないけど、どうか謝らせてください。」
健はそう言って、施錠された門の向こう側で、深々と頭を下げた。杏子は門を開けて出ようとしたが、健がその必要は無いと言って、それを制したのだった。
「私も、健さんに謝らないといけないの。ごめんなさい。」
杏子の意外な言葉に、健は思わずといった体で聞き返したが、杏子は構わず言葉を続けた。
「もう気付いていると思うけど、私、宮部さんのことが好きだったの。貴方に出会う前の話だけど、宮部さんも、私の気持ちに応えようとしてくれて、でも私が馬鹿なことをして喧嘩別れのようになってたの。それでも宮部さんのことが忘れられなくて、辛くて、それで、健さんの気持ちを利用しようとしたのよ。貴方は真っ直ぐに気持ちを伝えてくれたのに、私はこのことを隠していて、フェアじゃ無かったわ。本当にごめんなさい。貴方を追い詰めてしまったのも、私が優柔不断な態度をとったせいだと思う。」
健は悲痛な表情で、杏子の言葉に耳を傾けていたが、しばらく黙した後、固く引き結んだ口を開いた。
「…それでも、僕のしたことは許されることじゃないよ。あの…、杏子さん。さっき玄関を開けたときに、段ボール箱が沢山見えたけど、もしかして引っ越すの?僕の…、僕のせいで?」
健は、杏子の背後にある、今はもう閉められた扉に目線をやった。
「引っ越すのは引っ越すけど、健さんのせいじゃないから。もう、この町に居る理由が無いの。なにより、ここは宮部さんの伯母様の家だし、もうここには居られないから。」
「まだ、宮部さんと仲違いしてるの?」
「貴方が私にしたことよりも、もっと酷いことをしたの。到底赦してもらえないこと。だから、私には、健さんを怒る資格なんて無い。本当に、もう気にしないで。」
健は、何かに堪えるように顔を歪めて、杏子を見つめた。杏子は、まるで自分を見ているようだった。取り返しのつかない過ちを犯して、愛しい人を喪ってしまう辛さが、杏子には手に取るように解った。
「引っ越し先、聞いてもいい?」
杏子は、俯いて、否と答えた。
「県外の遠くへ行くの。もう、健さんにも、もちろん宮部さんにも、この町の誰にも会うことは無いと思うわ。だから、私のことは忘れてほしい。お互いに、辛い想いを早く忘れられるように努力しましょう。」
杏子の言葉に、健は意気消沈し、そして帰って行った。
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