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第十章 瓦解
第八十話 拒絶の裏側にあるもの
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いよいよ退去日である六月末日となって、朝一番の引っ越しトラックを杏子が見送った後すぐ、約束通りの時間に宮部は現われた。仕事の合間に来たのか、宮部はいつもの作業着姿で、がらんどうとなった室内を淡々と検分して回った。杏子は、よろしくお願いします、と最初に伝えて以降、何も口を利けないで居た。
最後に会ったあの日、あれほど激しく口論しあったことが夢だったのでは無いかと錯覚してしまうほどに、宮部は何の感情も見せないが、対して杏子は、心中全く穏やかでは無かった。目の前を歩く広い背中や筋張った逞しい腕を見つめているだけで、もうそれも見納めであると思うと、切ないまでの恋心と、苦い自責の念を覚えずには居られなかったのだ。どれほど宮部に罵声を浴びせられ、軽蔑の冷たい眼差しを受け、きっぱりと決別を言い渡されたとしても、それが全て的を射た非難であり、身から出た錆びであると反省する杏子には、恋情を捨て去る何の動機にもなりはしない。何より、かつて一度はその腕に抱かれ、宮部の激しい情熱を一身に受けた悦びを、杏子の体は忘れてはくれなかった。杏子自身が健に諭したように、宮部から遠く離れ、その恋しい姿を視界に入れること無く幾ばくかの時を過ごせば、いつかは心穏やかに暮らせる日がくるのではないかと、今は只そう願うことしか杏子にはできなかった。
宮部は、室内を一通り見て回ると、問題がないことを杏子に言葉少なに伝えて、早々と玄関に足を向けた。碌に杏子の顔を見ず、必要以上の言葉も掛けず、宮部は全身で杏子を拒絶しているようであった。三和土に下りて靴を履こうかという段になって、宮部はくるりと振り向き、杏子に手のひらを指しだした。漸く、宮部は杏子の目を見た。
「鍵、返して。」
冷たい、素っ気ない声だった。
杏子は、スウェットのスカートのポケットに入れていた鍵を取り出し、差し出された宮部の手の上に置いた。夏も近づき汗ばむほどに蒸す閉め切った室内で、それでも心と同じに冷え切った杏子の指先が、固い宮部の手の平にほんの少し触れ、その熱がじんわりと伝わってきた。鍵を手放した今、もはや杏子が宮部の手に触れ続ける何の正当な理由もないのに、杏子は、指先に感じる熱くて固いそれを手放すことができなかった。静まりかえった玄関で、熱い想いを抑えきれずに手に手を取り合う恋人達の様相を見せ、お互いにじっと見つめ合う二人は、実際にはそんな甘い状況とは程遠く、単に大家代理に鍵を返す店子という以上の何ものでも無い。杏子が愛してやまない切れ長の垂れ目は、確かにじっとこちらを見ているのに、その奥に湛える感情には一切の熱は無く、切なげに眉根を寄せる自分自身の姿が、黒いガラス玉に反射して像を結んでいるのが見えた。
かたん、と杏子が金属音を聞いたのと、手の平に感じていた熱が突如失われたのを感じたのでは、どちらが先だっただろうか。宮部は、杏子が触れていた手のひらを、その上に乗せられた鍵もろとも払い落としたのだ。熱源を失って瞬時に冷え始めた指先に、杏子は心もまた冷えゆくのを感じたが、宮部のあからさまな拒絶に痛みを感じたのは、杏子の心では無く、大きな音を立てて背後の壁に打ち付けられた背中と後頭部であった。
宮部が自分を壁に押さえつけたのだと杏子が理解したのは、湿った熱を唇に感じ始めて暫くたってからだった。驚きというよりも、背面の痛みに竦んだ反射で歯を食いしばったために、すぐに咥内に押し込まれた宮部の厚い舌が、歯茎の上や口唇の内側の柔いところを這い回って、杏子に未知の感覚をもたらした。背筋を這い上る快感に堪えきれず、杏子がたちまち入り口を開放するや否や、宮部は奥に潜む杏子のそれを誘い出し絡め取った。やがて、杏子の肩をきつく押さえつけていた手が、宮部の節張った熱い手が、Tシャツの裾口から中へと進み、すっかり汗ばんだ杏子の柔い腹や肉付きの良い背を這い回るのを感じた。背をきつく締める金具が弾けて、撓わな膨らみがずっしりと解放されるのを感じると、杏子が甘い痺れを尖端に、やがては全身に感じるまでに、それ程時間はかからなかった。
いつしか背中に感じ始めた床の固さも忘れて、丁寧に、かつ執拗に与えられ続ける快感に溺れながら、杏子は閉じた瞼の裏側に幻を見た気がした。二人の心を隔てる様々な軋轢が、この初めての愛の行為の前に、がらがらと音を立てて崩れ落ちる幻を、杏子は見た気がした。
最後に会ったあの日、あれほど激しく口論しあったことが夢だったのでは無いかと錯覚してしまうほどに、宮部は何の感情も見せないが、対して杏子は、心中全く穏やかでは無かった。目の前を歩く広い背中や筋張った逞しい腕を見つめているだけで、もうそれも見納めであると思うと、切ないまでの恋心と、苦い自責の念を覚えずには居られなかったのだ。どれほど宮部に罵声を浴びせられ、軽蔑の冷たい眼差しを受け、きっぱりと決別を言い渡されたとしても、それが全て的を射た非難であり、身から出た錆びであると反省する杏子には、恋情を捨て去る何の動機にもなりはしない。何より、かつて一度はその腕に抱かれ、宮部の激しい情熱を一身に受けた悦びを、杏子の体は忘れてはくれなかった。杏子自身が健に諭したように、宮部から遠く離れ、その恋しい姿を視界に入れること無く幾ばくかの時を過ごせば、いつかは心穏やかに暮らせる日がくるのではないかと、今は只そう願うことしか杏子にはできなかった。
宮部は、室内を一通り見て回ると、問題がないことを杏子に言葉少なに伝えて、早々と玄関に足を向けた。碌に杏子の顔を見ず、必要以上の言葉も掛けず、宮部は全身で杏子を拒絶しているようであった。三和土に下りて靴を履こうかという段になって、宮部はくるりと振り向き、杏子に手のひらを指しだした。漸く、宮部は杏子の目を見た。
「鍵、返して。」
冷たい、素っ気ない声だった。
杏子は、スウェットのスカートのポケットに入れていた鍵を取り出し、差し出された宮部の手の上に置いた。夏も近づき汗ばむほどに蒸す閉め切った室内で、それでも心と同じに冷え切った杏子の指先が、固い宮部の手の平にほんの少し触れ、その熱がじんわりと伝わってきた。鍵を手放した今、もはや杏子が宮部の手に触れ続ける何の正当な理由もないのに、杏子は、指先に感じる熱くて固いそれを手放すことができなかった。静まりかえった玄関で、熱い想いを抑えきれずに手に手を取り合う恋人達の様相を見せ、お互いにじっと見つめ合う二人は、実際にはそんな甘い状況とは程遠く、単に大家代理に鍵を返す店子という以上の何ものでも無い。杏子が愛してやまない切れ長の垂れ目は、確かにじっとこちらを見ているのに、その奥に湛える感情には一切の熱は無く、切なげに眉根を寄せる自分自身の姿が、黒いガラス玉に反射して像を結んでいるのが見えた。
かたん、と杏子が金属音を聞いたのと、手の平に感じていた熱が突如失われたのを感じたのでは、どちらが先だっただろうか。宮部は、杏子が触れていた手のひらを、その上に乗せられた鍵もろとも払い落としたのだ。熱源を失って瞬時に冷え始めた指先に、杏子は心もまた冷えゆくのを感じたが、宮部のあからさまな拒絶に痛みを感じたのは、杏子の心では無く、大きな音を立てて背後の壁に打ち付けられた背中と後頭部であった。
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