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第十章 瓦解
第八十一話 宮部の想い
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時が止まったような情熱の行為のあとに何が残るのかと問えば、余韻にひたり睦み合うのだと言う者もいれば、淡々と始末をして元の時の流れに早々と身を委ねるのだと言う者もいるだろう。杏子に言わせれば、それは、恋人でも何でもないこの男が、何か少しでも謝罪めいた言葉や悔恨の言葉を吐く前に、こんなことは何でもないのだと、そう相手に思わせることであった。
「私、もう行かないと、バスが来ちゃう。荷物より先に現地に行かないといけないから。」
「体は…。」
そそくさと身支度をして立ち上がりかけた杏子の腕を取って、宮部は杏子の顔を窺い見た。それは不自然に宮部から逸らされ、気が急くように玄関扉の先に向けられていた。
「大丈夫、何ともない。ごめん、本当に行かないと。最後に優しくしてくれてありがとう。」
それが杏子の精一杯の強がりであることは、宮部には明らかだっただろう。以前に、宮部の言動に翻弄され杏子自身がそう言っていたように、男慣れしていない杏子には、それは初めての行為ではないにしても、片手で数えるほどの経験しかなかったのだ。事後に痛みや違和感があるのではと心配してしまうほどに、未開の地に踏みいったような印象を、杏子は宮部に与えたのだった。
「車で駅まで送るから。急いでいるなら、その方が早い。」
気恥ずかしさもさることながら、これ以上優しくされると離れがたくなってしまいそうな焦りもあって、杏子は申し出を固辞しようとしたが、杏子の体を案じてか、宮部も決して譲らず、結果、杏子は駅までの20分ほどを軽トラに揺られることになった。
車内ではどちらも終始無言だったが、杏子は、先程からの怒濤の一時を何度も頭の中で辿っていた。
杏子がその手に触れたとき、宮部の目には、恋情の欠片もなかったはずである。それでも、杏子は、情熱の最中、耳元で切なげに名を呼ぶ声を何度も聞いたのだ。杏子が忘れがたい恋心と自責の念の狭間で苦しんできたように、宮部もまた、遂げられなかった恋と捨てがたい憎悪に苛まれてきたのかもしれない。宮部の手を放し難いと感じたあの時、宮部の目に反射して見えた自分は、恋しい男を物欲しそうに見ていたと、杏子はそう思う。この町を去ろうとしている杏子の、無意味で非建設的な誘惑にさえ乗ってしまうほどに、宮部もまた、遂げられなかった恋を惜しんで悔いていたのだ。憎らしい女を、時間を掛けて丁寧に解してやるほどに、宮部は杏子を愛しく思ってくれていたのだ。そして、それでもなお、杏子を決して引き留めはしないほどに、やはり宮部は杏子を赦してはいないのだと、杏子は漸く気付き、改めて自らの罪深さを思い知った。
「私…、本当にごめんなさい。今日の、本当についさっきまで、自分の気持ちしか考えられていなかった。貴方に沢山謝ったけれど、貴方の気持ち、全然わかっていなかったんだわ。後悔して反省して、でもまた愚かなことをして、宮部さんが言うとおり、馬鹿な女。こんな私のことを…、好きになってくれてありがとう。」
駅前のロータリーに停車したところで、いよいよ車から降りねばならない段になって、漸く杏子は口を開くことができた。口先だけの謝罪とは違う、心の奥底から湧き出た飾り気のない言葉だった。
宮部はハンドルに手を掛けたまま、俯いて黙していた。いつも俯いてしまうのは杏子のほうだったのに、今日ばかりは違った。最後にもう一度ちらりと宮部を見遣ってから、杏子は静かに車から降りて、そしてドアを閉めた。空いた窓からは、まだ俯いた宮部の横顔が見える。苦虫を噛み潰したような表情だった。
いつまでもこうしているわけにはいかないと、後ろ髪を引かれつつも、杏子は立ち去ろうとした。そして、とうとう、杏子の耳に愛しい低音が届いた。
「杏子。待って。」
杏子が振り返ると、宮部が助手席に身を乗り出して、窓から何かを差し出していた。
それは一枚のメモ用紙で、見慣れないメールアドレスが記載されていた。
「真奈美のメールアドレス。もし…、お前が言うみたいに、真奈美とのことが本物だったなら、真奈美にとっても、お前の存在は意味があるはずだから。今からでも、力になってやってくれ。」
杏子が差し出された紙を受けとると、宮部はもう何も言うことはないというように、躊躇いなく走り去った。
最後に掛けられた言葉が、杏子とのことではなく、真奈美のことであったことに、落胆しなかったと言えば嘘になるだろう。しかし、あんなにも頭ごなしに否定していたナツキとの関係を、宮部が少しでも認めてくれたような気がして、杏子は救われたのだった。
「私、もう行かないと、バスが来ちゃう。荷物より先に現地に行かないといけないから。」
「体は…。」
そそくさと身支度をして立ち上がりかけた杏子の腕を取って、宮部は杏子の顔を窺い見た。それは不自然に宮部から逸らされ、気が急くように玄関扉の先に向けられていた。
「大丈夫、何ともない。ごめん、本当に行かないと。最後に優しくしてくれてありがとう。」
それが杏子の精一杯の強がりであることは、宮部には明らかだっただろう。以前に、宮部の言動に翻弄され杏子自身がそう言っていたように、男慣れしていない杏子には、それは初めての行為ではないにしても、片手で数えるほどの経験しかなかったのだ。事後に痛みや違和感があるのではと心配してしまうほどに、未開の地に踏みいったような印象を、杏子は宮部に与えたのだった。
「車で駅まで送るから。急いでいるなら、その方が早い。」
気恥ずかしさもさることながら、これ以上優しくされると離れがたくなってしまいそうな焦りもあって、杏子は申し出を固辞しようとしたが、杏子の体を案じてか、宮部も決して譲らず、結果、杏子は駅までの20分ほどを軽トラに揺られることになった。
車内ではどちらも終始無言だったが、杏子は、先程からの怒濤の一時を何度も頭の中で辿っていた。
杏子がその手に触れたとき、宮部の目には、恋情の欠片もなかったはずである。それでも、杏子は、情熱の最中、耳元で切なげに名を呼ぶ声を何度も聞いたのだ。杏子が忘れがたい恋心と自責の念の狭間で苦しんできたように、宮部もまた、遂げられなかった恋と捨てがたい憎悪に苛まれてきたのかもしれない。宮部の手を放し難いと感じたあの時、宮部の目に反射して見えた自分は、恋しい男を物欲しそうに見ていたと、杏子はそう思う。この町を去ろうとしている杏子の、無意味で非建設的な誘惑にさえ乗ってしまうほどに、宮部もまた、遂げられなかった恋を惜しんで悔いていたのだ。憎らしい女を、時間を掛けて丁寧に解してやるほどに、宮部は杏子を愛しく思ってくれていたのだ。そして、それでもなお、杏子を決して引き留めはしないほどに、やはり宮部は杏子を赦してはいないのだと、杏子は漸く気付き、改めて自らの罪深さを思い知った。
「私…、本当にごめんなさい。今日の、本当についさっきまで、自分の気持ちしか考えられていなかった。貴方に沢山謝ったけれど、貴方の気持ち、全然わかっていなかったんだわ。後悔して反省して、でもまた愚かなことをして、宮部さんが言うとおり、馬鹿な女。こんな私のことを…、好きになってくれてありがとう。」
駅前のロータリーに停車したところで、いよいよ車から降りねばならない段になって、漸く杏子は口を開くことができた。口先だけの謝罪とは違う、心の奥底から湧き出た飾り気のない言葉だった。
宮部はハンドルに手を掛けたまま、俯いて黙していた。いつも俯いてしまうのは杏子のほうだったのに、今日ばかりは違った。最後にもう一度ちらりと宮部を見遣ってから、杏子は静かに車から降りて、そしてドアを閉めた。空いた窓からは、まだ俯いた宮部の横顔が見える。苦虫を噛み潰したような表情だった。
いつまでもこうしているわけにはいかないと、後ろ髪を引かれつつも、杏子は立ち去ろうとした。そして、とうとう、杏子の耳に愛しい低音が届いた。
「杏子。待って。」
杏子が振り返ると、宮部が助手席に身を乗り出して、窓から何かを差し出していた。
それは一枚のメモ用紙で、見慣れないメールアドレスが記載されていた。
「真奈美のメールアドレス。もし…、お前が言うみたいに、真奈美とのことが本物だったなら、真奈美にとっても、お前の存在は意味があるはずだから。今からでも、力になってやってくれ。」
杏子が差し出された紙を受けとると、宮部はもう何も言うことはないというように、躊躇いなく走り去った。
最後に掛けられた言葉が、杏子とのことではなく、真奈美のことであったことに、落胆しなかったと言えば嘘になるだろう。しかし、あんなにも頭ごなしに否定していたナツキとの関係を、宮部が少しでも認めてくれたような気がして、杏子は救われたのだった。
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