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第十一章 Break the Ice
第八十二話 芸術の島
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瀬戸内の夏は、小豆島を代表する諸島に限って言えば、案外と涼しかった。杏子が新天地に選んだ小島も、真夏の平均気温が二十度台後半ほどで、平均最高気温も三十度を少し上回る程度である。海の生き物を連想させる生っぽい臭いを感じながら、涼しい海風を頬に受けること二十分、岡山からほんの僅かの時間で、杏子はその島に降り立った。
島全体がアートであると話題のその地は、緑豊かな海岸線にぐるりと囲まれて、まるでこんもりとした緑の小山が碧い海原にぽっかりと浮いているように見えた。杏子が最初に目にした船着き場の建物は、前衛的な現代建築もさながらの小洒落た外観をしており、訪れた者の期待感を存分に高めた。島の玄関口であるその港の周辺は開けた公園になっていて、海に向かって真新しいベンチがいくつか据えられ、所々にアクセントとなるモダンなモニュメントが点在していた。
ここに至るまで、杏子の心は別のことで占拠されていたが、島おこしに奮闘する町役場の面々の思惑通りに、杏子は、この新たな地での再出発に想いを馳せて気分が高揚するを感じたのだった。
杏子が借りる家は、島おこしの取り組みの一環である、古民家再生プロジェクトで改築された家屋の一つで、大家は別にいるものの町が管理を請け負っていた。着くなり町役場へ真っ直ぐに向かった杏子は、家の鍵を受け取って転入手続きを済ますと、島の観光案内のパンフレットや暮らしの手引きなどの資料をもらって、漸く新居へと向かうことができた。引っ越し業者との約束の時間まで、もうあと三十分というぎりぎりの時間だったが、それは何も町役場で足止めを食らったせいではなく、宮部との予定外の情事に時間を大きく取られたせいに他ならない。
杏子にとっても、宮部にとっても、それは正に予定外の展開だった。宮部の手を取って熱の籠もった艶っぽい視線を送った杏子さえ、そこまでの展開を期待していたかと言えば否である。宮部にしても、あれほど全身で杏子を拒んでいたのだから、伯母の家で、それも玄関先の固い床の上で、憎らしい女を初めて抱くことになろうとは夢にも思わなかったに違いない。もとより、杏子の体つきを好んでいた宮部が、誘惑に我を忘れて箍を外したのだとしても、不用意に事を遂げることを躊躇う程には冷静であった。それを、幸か不幸か、月の障りが重く低用量ピルを常用していた杏子は、息も絶え絶えに事情を説明し、そうして、恋しい男の全てを余すところなく、深く深く受け入れるに至ったのだった。
過去の出来事に囚われてしばしば思考を占拠されるというのは杏子の常であったが、回顧する内容がこうも色めいた出来事であれば、それはもはや妄想と言っても良いだろう。惚けてみたり、羞恥に藻掻いてみたり、暗く沈んでみたり、端から見れば頭のおかしい女にしか見えない様子で、杏子は新居までの道のりを歩いた。船着き場前の広場から、小山を二十分ほど登った処にある古びた一軒家がそれである。この地でも愛車は活躍してくれそうであると、杏子は電動アシスト付きを選んだ自分の選択を褒め称えつつ、家の周りを一度ぐるりと回って確認してから、鍵を開けて中に入った。
鄙びた印象の外観とは打って変わって、家の中はモダンにリノベーションされていた。煤けて黒光りする梁や、玄関から台所まで続く土間など、古き良き雰囲気の内装はそのままに、壁や建具や畳といった面積の大きいところは綺麗に手が入れられている。風呂やトイレも、こぢんまりとしたスペースに、新しい浴槽や便器が取り付けられており、壁や床のタイルはモザイクのようなガラスの質感が美しい。和と洋、古と新が絶妙に均衡した、センスの良い家だと、杏子は深く感じ入った。
先の引っ越しも、下心なしに純粋に住みやすさを追求して探していれば、このような地にたどり着いたかも知れないと杏子は思ったが、宮部との出会いや恋を無かったことにしたいとは、杏子には到底思えなかった。
間もなくやってきた引っ越しトラックから、ほんの僅かしか無い荷物を搬出してもらい、最低限の片付けと掃除を終えると、今回も杏子の引っ越しは呆気なく済んだ。
得意のコーヒーを淹れて一息つくと、杏子は鞄からメモ用紙を取り出した。別れ際に宮部から手渡された、あれである。セキュリティのためか冗長なアドレスを目で辿り、メーラーの新規作成ウィンドウに入力してみたが、ナツキを語っていた真奈美に、一体何を綴れば良いのか、杏子は途方に暮れたのだった。
島全体がアートであると話題のその地は、緑豊かな海岸線にぐるりと囲まれて、まるでこんもりとした緑の小山が碧い海原にぽっかりと浮いているように見えた。杏子が最初に目にした船着き場の建物は、前衛的な現代建築もさながらの小洒落た外観をしており、訪れた者の期待感を存分に高めた。島の玄関口であるその港の周辺は開けた公園になっていて、海に向かって真新しいベンチがいくつか据えられ、所々にアクセントとなるモダンなモニュメントが点在していた。
ここに至るまで、杏子の心は別のことで占拠されていたが、島おこしに奮闘する町役場の面々の思惑通りに、杏子は、この新たな地での再出発に想いを馳せて気分が高揚するを感じたのだった。
杏子が借りる家は、島おこしの取り組みの一環である、古民家再生プロジェクトで改築された家屋の一つで、大家は別にいるものの町が管理を請け負っていた。着くなり町役場へ真っ直ぐに向かった杏子は、家の鍵を受け取って転入手続きを済ますと、島の観光案内のパンフレットや暮らしの手引きなどの資料をもらって、漸く新居へと向かうことができた。引っ越し業者との約束の時間まで、もうあと三十分というぎりぎりの時間だったが、それは何も町役場で足止めを食らったせいではなく、宮部との予定外の情事に時間を大きく取られたせいに他ならない。
杏子にとっても、宮部にとっても、それは正に予定外の展開だった。宮部の手を取って熱の籠もった艶っぽい視線を送った杏子さえ、そこまでの展開を期待していたかと言えば否である。宮部にしても、あれほど全身で杏子を拒んでいたのだから、伯母の家で、それも玄関先の固い床の上で、憎らしい女を初めて抱くことになろうとは夢にも思わなかったに違いない。もとより、杏子の体つきを好んでいた宮部が、誘惑に我を忘れて箍を外したのだとしても、不用意に事を遂げることを躊躇う程には冷静であった。それを、幸か不幸か、月の障りが重く低用量ピルを常用していた杏子は、息も絶え絶えに事情を説明し、そうして、恋しい男の全てを余すところなく、深く深く受け入れるに至ったのだった。
過去の出来事に囚われてしばしば思考を占拠されるというのは杏子の常であったが、回顧する内容がこうも色めいた出来事であれば、それはもはや妄想と言っても良いだろう。惚けてみたり、羞恥に藻掻いてみたり、暗く沈んでみたり、端から見れば頭のおかしい女にしか見えない様子で、杏子は新居までの道のりを歩いた。船着き場前の広場から、小山を二十分ほど登った処にある古びた一軒家がそれである。この地でも愛車は活躍してくれそうであると、杏子は電動アシスト付きを選んだ自分の選択を褒め称えつつ、家の周りを一度ぐるりと回って確認してから、鍵を開けて中に入った。
鄙びた印象の外観とは打って変わって、家の中はモダンにリノベーションされていた。煤けて黒光りする梁や、玄関から台所まで続く土間など、古き良き雰囲気の内装はそのままに、壁や建具や畳といった面積の大きいところは綺麗に手が入れられている。風呂やトイレも、こぢんまりとしたスペースに、新しい浴槽や便器が取り付けられており、壁や床のタイルはモザイクのようなガラスの質感が美しい。和と洋、古と新が絶妙に均衡した、センスの良い家だと、杏子は深く感じ入った。
先の引っ越しも、下心なしに純粋に住みやすさを追求して探していれば、このような地にたどり着いたかも知れないと杏子は思ったが、宮部との出会いや恋を無かったことにしたいとは、杏子には到底思えなかった。
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