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第十二章 Beyond the Truth
第百七話 寄り添う心
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もう辺りはすっかり暗くなり、最終便を見送った港には人影も無かった。本土から帰ってくる一便を待つのみとなった乗船所の建物の明かりが、ガラスを通して柔らかく二人に降り注ぎ、お互いの表情を有り有りと見せつけている。
「杏子のことが、好きで、好きで、堪らない。礼儀正しくて責任感が強いところも、情に厚くて感激屋なところも、すぐに人と打ち解けて懐に入ってくるところも好きだ。それから、男に免疫が無くて、俺の言葉にすぐ赤面したり動揺したりするところなんか、堪らなくいい。それに、思い込みが激しいところも、一人で明後日の方向へ思い詰めるところも、簡単に人を信用して本質を見ようとしないところも、困ったやつだけど本当は可愛いと思ってる。」
ただし、と続けた宮部の声音が急に低くなり、杏子は身構えた。
「他の男にまで愛想が良すぎるのはいただけないな。杏子は誰にも触らせたくない。誰にも渡さない。」
健のことを言ってるのだな、と杏子が思い至るのと同時に、杏子の視界は突如として暗転した。
宮部が杏子を、その胸に強く抱き寄せたのだった。
いつぶりの事だろうか、宮部の纏う野性味溢れる香りが杏子の鼻腔をくすぐって、まるで緑の大地に抱かれたような安心感と、逞しい腕と厚い胸板に感じる男の色香が相まって、杏子の胸が否応なしに高鳴った。宮部に応えるように、杏子が広い背中にそっと手を回すと、まるで愛おしさに堪えかねたように、宮部は杏子の頭に頬ずりをした。いつも杏子より幾分高い体温を持つ宮部は、今もまた、頬の温もりを杏子にじんわりと伝えてくれる。その熱が、頭から頬へ、頬から耳へと移ろい、やがて杏子は耳殻に宮部の唇を感じた。温かく柔らかいそれは、秋の夜の乾いた空気に負けたのか、杏子の知る以前のそれとは違い、湿り気のないかさついたものだった。しかし、そこに感じた数度の啄みは、その感触と音をもってして、杏子に、どこか別の場所への、より官能的でより甘い刺激を思い起こさせたのだった。
杏子がうっとりと宮部に身をゆだねていると、唇を杏子の耳に寄せたままの宮部が、そっと穏やかに囁いた。その低音は、杏子への慈愛に満ちあふれていた。
「ずっとこうして腕の中に閉じ込めて、杏子が少しも不安になったり寂しくなったりしないように、心も、体も、全部俺が満たしてやりたい。杏子は、どこもかしこも綺麗で魅力的だ。不細工なところなんて一つも無い。丸裸にして、隅から隅まで確かめた俺が言うんだから、間違いないだろ。」
「こら!なんてこと言うの!」
耳に心地よい低音で囁かれる、包み込むような愛の言葉に酔いしれていた杏子は、それが突如として方向を変え、杏子にあからさまな恥辱を与えるものに変わって、堪らず非難の声を上げて宮部の胸を叩いた。
「ついさっきまで、むくれてそっぽを向いてたと思えば、すっかりいつもの調子に戻ったじゃ無い。」
「さっきまで、杏子の気持ちが分からなかったからな。俺を詰りに来たのか嗤いに来たのか、とにかく無表情で質問ばかりして。だけど、俺を見て、前みたいに笑っただろ。それで初めて杏子の気持ちに気付いた。前と同じ、俺のことが大好きだってバレバレの笑顔。」
揶揄うようにそう言った宮部に、杏子は恥ずかしくなって、思わず真っ赤に頬を染めた。自分でも自覚があった。宮部を見ていると、心の奥底から抑えきれない想いが溢れてきて、自然と顔がにやけてしまうのだ。本人に、こうもはっきりと指摘されると、杏子は今更ながらに、穴があったら入りたいほどの羞恥を感じたのだった。
西日がすっかり宵闇に取って代わられ、ひんやりとした秋の夜の空気が辺りに立ちこめ始めた頃、上着も何も持たずに部屋着で駆けてきた杏子が、小さく一つくしゃみをしたのをきっかけにして、二人は杏子の自宅へと並んで引き返した。
歩いて20分の登り路は、杏子には此処へ越して来たとき以来のご無沙汰だったが、宮部と喋りながら並んで歩いていると、脚の怠さもすっかり忘れて、杏子は軽快な足取りで進むことができた。
乗るには天国だが押すには地獄である愛車は、さらにその前かごにトゲべを突っ込んで重さを増したが、丸ごと宮部が引き受けてくれて、そうして二人は無事に自宅へと帰り着いたのだった。
「杏子のことが、好きで、好きで、堪らない。礼儀正しくて責任感が強いところも、情に厚くて感激屋なところも、すぐに人と打ち解けて懐に入ってくるところも好きだ。それから、男に免疫が無くて、俺の言葉にすぐ赤面したり動揺したりするところなんか、堪らなくいい。それに、思い込みが激しいところも、一人で明後日の方向へ思い詰めるところも、簡単に人を信用して本質を見ようとしないところも、困ったやつだけど本当は可愛いと思ってる。」
ただし、と続けた宮部の声音が急に低くなり、杏子は身構えた。
「他の男にまで愛想が良すぎるのはいただけないな。杏子は誰にも触らせたくない。誰にも渡さない。」
健のことを言ってるのだな、と杏子が思い至るのと同時に、杏子の視界は突如として暗転した。
宮部が杏子を、その胸に強く抱き寄せたのだった。
いつぶりの事だろうか、宮部の纏う野性味溢れる香りが杏子の鼻腔をくすぐって、まるで緑の大地に抱かれたような安心感と、逞しい腕と厚い胸板に感じる男の色香が相まって、杏子の胸が否応なしに高鳴った。宮部に応えるように、杏子が広い背中にそっと手を回すと、まるで愛おしさに堪えかねたように、宮部は杏子の頭に頬ずりをした。いつも杏子より幾分高い体温を持つ宮部は、今もまた、頬の温もりを杏子にじんわりと伝えてくれる。その熱が、頭から頬へ、頬から耳へと移ろい、やがて杏子は耳殻に宮部の唇を感じた。温かく柔らかいそれは、秋の夜の乾いた空気に負けたのか、杏子の知る以前のそれとは違い、湿り気のないかさついたものだった。しかし、そこに感じた数度の啄みは、その感触と音をもってして、杏子に、どこか別の場所への、より官能的でより甘い刺激を思い起こさせたのだった。
杏子がうっとりと宮部に身をゆだねていると、唇を杏子の耳に寄せたままの宮部が、そっと穏やかに囁いた。その低音は、杏子への慈愛に満ちあふれていた。
「ずっとこうして腕の中に閉じ込めて、杏子が少しも不安になったり寂しくなったりしないように、心も、体も、全部俺が満たしてやりたい。杏子は、どこもかしこも綺麗で魅力的だ。不細工なところなんて一つも無い。丸裸にして、隅から隅まで確かめた俺が言うんだから、間違いないだろ。」
「こら!なんてこと言うの!」
耳に心地よい低音で囁かれる、包み込むような愛の言葉に酔いしれていた杏子は、それが突如として方向を変え、杏子にあからさまな恥辱を与えるものに変わって、堪らず非難の声を上げて宮部の胸を叩いた。
「ついさっきまで、むくれてそっぽを向いてたと思えば、すっかりいつもの調子に戻ったじゃ無い。」
「さっきまで、杏子の気持ちが分からなかったからな。俺を詰りに来たのか嗤いに来たのか、とにかく無表情で質問ばかりして。だけど、俺を見て、前みたいに笑っただろ。それで初めて杏子の気持ちに気付いた。前と同じ、俺のことが大好きだってバレバレの笑顔。」
揶揄うようにそう言った宮部に、杏子は恥ずかしくなって、思わず真っ赤に頬を染めた。自分でも自覚があった。宮部を見ていると、心の奥底から抑えきれない想いが溢れてきて、自然と顔がにやけてしまうのだ。本人に、こうもはっきりと指摘されると、杏子は今更ながらに、穴があったら入りたいほどの羞恥を感じたのだった。
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