106 / 110
第十二章 Beyond the Truth
第百七話 寄り添う心
しおりを挟む
もう辺りはすっかり暗くなり、最終便を見送った港には人影も無かった。本土から帰ってくる一便を待つのみとなった乗船所の建物の明かりが、ガラスを通して柔らかく二人に降り注ぎ、お互いの表情を有り有りと見せつけている。
「杏子のことが、好きで、好きで、堪らない。礼儀正しくて責任感が強いところも、情に厚くて感激屋なところも、すぐに人と打ち解けて懐に入ってくるところも好きだ。それから、男に免疫が無くて、俺の言葉にすぐ赤面したり動揺したりするところなんか、堪らなくいい。それに、思い込みが激しいところも、一人で明後日の方向へ思い詰めるところも、簡単に人を信用して本質を見ようとしないところも、困ったやつだけど本当は可愛いと思ってる。」
ただし、と続けた宮部の声音が急に低くなり、杏子は身構えた。
「他の男にまで愛想が良すぎるのはいただけないな。杏子は誰にも触らせたくない。誰にも渡さない。」
健のことを言ってるのだな、と杏子が思い至るのと同時に、杏子の視界は突如として暗転した。
宮部が杏子を、その胸に強く抱き寄せたのだった。
いつぶりの事だろうか、宮部の纏う野性味溢れる香りが杏子の鼻腔をくすぐって、まるで緑の大地に抱かれたような安心感と、逞しい腕と厚い胸板に感じる男の色香が相まって、杏子の胸が否応なしに高鳴った。宮部に応えるように、杏子が広い背中にそっと手を回すと、まるで愛おしさに堪えかねたように、宮部は杏子の頭に頬ずりをした。いつも杏子より幾分高い体温を持つ宮部は、今もまた、頬の温もりを杏子にじんわりと伝えてくれる。その熱が、頭から頬へ、頬から耳へと移ろい、やがて杏子は耳殻に宮部の唇を感じた。温かく柔らかいそれは、秋の夜の乾いた空気に負けたのか、杏子の知る以前のそれとは違い、湿り気のないかさついたものだった。しかし、そこに感じた数度の啄みは、その感触と音をもってして、杏子に、どこか別の場所への、より官能的でより甘い刺激を思い起こさせたのだった。
杏子がうっとりと宮部に身をゆだねていると、唇を杏子の耳に寄せたままの宮部が、そっと穏やかに囁いた。その低音は、杏子への慈愛に満ちあふれていた。
「ずっとこうして腕の中に閉じ込めて、杏子が少しも不安になったり寂しくなったりしないように、心も、体も、全部俺が満たしてやりたい。杏子は、どこもかしこも綺麗で魅力的だ。不細工なところなんて一つも無い。丸裸にして、隅から隅まで確かめた俺が言うんだから、間違いないだろ。」
「こら!なんてこと言うの!」
耳に心地よい低音で囁かれる、包み込むような愛の言葉に酔いしれていた杏子は、それが突如として方向を変え、杏子にあからさまな恥辱を与えるものに変わって、堪らず非難の声を上げて宮部の胸を叩いた。
「ついさっきまで、むくれてそっぽを向いてたと思えば、すっかりいつもの調子に戻ったじゃ無い。」
「さっきまで、杏子の気持ちが分からなかったからな。俺を詰りに来たのか嗤いに来たのか、とにかく無表情で質問ばかりして。だけど、俺を見て、前みたいに笑っただろ。それで初めて杏子の気持ちに気付いた。前と同じ、俺のことが大好きだってバレバレの笑顔。」
揶揄うようにそう言った宮部に、杏子は恥ずかしくなって、思わず真っ赤に頬を染めた。自分でも自覚があった。宮部を見ていると、心の奥底から抑えきれない想いが溢れてきて、自然と顔がにやけてしまうのだ。本人に、こうもはっきりと指摘されると、杏子は今更ながらに、穴があったら入りたいほどの羞恥を感じたのだった。
西日がすっかり宵闇に取って代わられ、ひんやりとした秋の夜の空気が辺りに立ちこめ始めた頃、上着も何も持たずに部屋着で駆けてきた杏子が、小さく一つくしゃみをしたのをきっかけにして、二人は杏子の自宅へと並んで引き返した。
歩いて20分の登り路は、杏子には此処へ越して来たとき以来のご無沙汰だったが、宮部と喋りながら並んで歩いていると、脚の怠さもすっかり忘れて、杏子は軽快な足取りで進むことができた。
乗るには天国だが押すには地獄である愛車は、さらにその前かごにトゲべを突っ込んで重さを増したが、丸ごと宮部が引き受けてくれて、そうして二人は無事に自宅へと帰り着いたのだった。
「杏子のことが、好きで、好きで、堪らない。礼儀正しくて責任感が強いところも、情に厚くて感激屋なところも、すぐに人と打ち解けて懐に入ってくるところも好きだ。それから、男に免疫が無くて、俺の言葉にすぐ赤面したり動揺したりするところなんか、堪らなくいい。それに、思い込みが激しいところも、一人で明後日の方向へ思い詰めるところも、簡単に人を信用して本質を見ようとしないところも、困ったやつだけど本当は可愛いと思ってる。」
ただし、と続けた宮部の声音が急に低くなり、杏子は身構えた。
「他の男にまで愛想が良すぎるのはいただけないな。杏子は誰にも触らせたくない。誰にも渡さない。」
健のことを言ってるのだな、と杏子が思い至るのと同時に、杏子の視界は突如として暗転した。
宮部が杏子を、その胸に強く抱き寄せたのだった。
いつぶりの事だろうか、宮部の纏う野性味溢れる香りが杏子の鼻腔をくすぐって、まるで緑の大地に抱かれたような安心感と、逞しい腕と厚い胸板に感じる男の色香が相まって、杏子の胸が否応なしに高鳴った。宮部に応えるように、杏子が広い背中にそっと手を回すと、まるで愛おしさに堪えかねたように、宮部は杏子の頭に頬ずりをした。いつも杏子より幾分高い体温を持つ宮部は、今もまた、頬の温もりを杏子にじんわりと伝えてくれる。その熱が、頭から頬へ、頬から耳へと移ろい、やがて杏子は耳殻に宮部の唇を感じた。温かく柔らかいそれは、秋の夜の乾いた空気に負けたのか、杏子の知る以前のそれとは違い、湿り気のないかさついたものだった。しかし、そこに感じた数度の啄みは、その感触と音をもってして、杏子に、どこか別の場所への、より官能的でより甘い刺激を思い起こさせたのだった。
杏子がうっとりと宮部に身をゆだねていると、唇を杏子の耳に寄せたままの宮部が、そっと穏やかに囁いた。その低音は、杏子への慈愛に満ちあふれていた。
「ずっとこうして腕の中に閉じ込めて、杏子が少しも不安になったり寂しくなったりしないように、心も、体も、全部俺が満たしてやりたい。杏子は、どこもかしこも綺麗で魅力的だ。不細工なところなんて一つも無い。丸裸にして、隅から隅まで確かめた俺が言うんだから、間違いないだろ。」
「こら!なんてこと言うの!」
耳に心地よい低音で囁かれる、包み込むような愛の言葉に酔いしれていた杏子は、それが突如として方向を変え、杏子にあからさまな恥辱を与えるものに変わって、堪らず非難の声を上げて宮部の胸を叩いた。
「ついさっきまで、むくれてそっぽを向いてたと思えば、すっかりいつもの調子に戻ったじゃ無い。」
「さっきまで、杏子の気持ちが分からなかったからな。俺を詰りに来たのか嗤いに来たのか、とにかく無表情で質問ばかりして。だけど、俺を見て、前みたいに笑っただろ。それで初めて杏子の気持ちに気付いた。前と同じ、俺のことが大好きだってバレバレの笑顔。」
揶揄うようにそう言った宮部に、杏子は恥ずかしくなって、思わず真っ赤に頬を染めた。自分でも自覚があった。宮部を見ていると、心の奥底から抑えきれない想いが溢れてきて、自然と顔がにやけてしまうのだ。本人に、こうもはっきりと指摘されると、杏子は今更ながらに、穴があったら入りたいほどの羞恥を感じたのだった。
西日がすっかり宵闇に取って代わられ、ひんやりとした秋の夜の空気が辺りに立ちこめ始めた頃、上着も何も持たずに部屋着で駆けてきた杏子が、小さく一つくしゃみをしたのをきっかけにして、二人は杏子の自宅へと並んで引き返した。
歩いて20分の登り路は、杏子には此処へ越して来たとき以来のご無沙汰だったが、宮部と喋りながら並んで歩いていると、脚の怠さもすっかり忘れて、杏子は軽快な足取りで進むことができた。
乗るには天国だが押すには地獄である愛車は、さらにその前かごにトゲべを突っ込んで重さを増したが、丸ごと宮部が引き受けてくれて、そうして二人は無事に自宅へと帰り着いたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる