107 / 110
第十二章 Beyond the Truth
第百八話 元鞘
しおりを挟む
宮部と出会った四月頃から半年あまり、それ以前のナツキとの遣り取りを含めると実に一年以上も、杏子はこの壮大な一連の茶番劇に翻弄されてきた。真奈美の悪気のない成りすましに端を発し、秘密を抱えて宮部に近づいた杏子、そしてその杏子に対する意趣返しとばかりに、今度は宮部が真奈美に成りすました。三者がそれぞれに、誰かを傷つけようだとか苦しめようだとか、そんな悪感情は一切なしに、ただ寂しさや恋しさや腹立ちから弄してしまった謂わば苦肉の策は、今日の今日まで、杏子と宮部を必要以上に拗らせてきた。それさえ無ければ、もっとずっと以前に、かつて宮部と杏子の心が限りなく近づいたあの時に、二人は何の問題も無く想いを交わし恋人同士となれたのだろう。
皮肉な運命に翻弄されたと、そう天を恨むなど、烏滸がましいのだと杏子は思った。抗いがたい病的な孤独に苛まれていた真奈美はともかく、宮部と杏子に限って言えば、単なる自業自得なのである。そして、宮部も杏子も、それ相応の報いを受けた今では、杏子の心には何の遺恨もなく、ただ宮部への抑えきれないほどの恋慕が残るのみだった。それは、以前のような焦燥感や不安感を伴うものとは異なり、相手も自分と同じ思いでいるのだという自信に裏打ちされた安心感に満ちあふれ、この上なく杏子を幸せな気分にさせた。
そんな杏子が、坂の道中、宮部とのメールの遣り取りについて好奇心から色々と問えば、宮部はまだ気まずさが拭えないのか渋い答えが返ってきて、杏子はやはり可笑しくなってしまった。
とりわけ、真奈美扮するナツキにまで嫉妬をしていたのかと問うたときに、宮部が妙に誇らしげに答えたことには、杏子は大爆笑したのだった。曰く、確かにかつては杏子とナツキの親密さを面白く思わなかったものだが、今ではそんな想いは微塵も無いと言うのである。それも、文字の遣り取りに関して言えば、真奈美よりも自分の方がずっと杏子と深く通じ合ったのだからという理由を知って、これが笑わずに居られようか。チャットのことをあれほど馬鹿にしたその同じ口で、そう言ってのけた宮部は、余裕綽々と大人の魅力を振りまく、杏子が恋に落ちたかつての姿とは程遠かったが、杏子はそんな宮部がどうしようもなく愛しく思えてならなかった。
誰しもが、そんなものなのだろうと、杏子は思い至った。大人だからといって、トレンディドラマのようなスマートな恋愛が現実にできるわけが無いのだ。歳を重ねて、酸いも甘いも一通りは囓ったような顔をしていても、その実、恋に身を焦がし嫉妬に駆られて形振り構わず幸せをつかみ取ろうとする泥臭さが、大人にだってあるのだと、杏子はそう感じた。
気付けば、もう杏子の家はすぐそこだった。玄関脇に愛車を停めてもらい、前かごから小さい鉢を取り出して、扉を開けて入った土間に、杏子はそっとそれを据えた。台所の三和土の上の、あの黒ずんだ染みにちょうど重なる同じ位置に、本来そこにあるべきだった物を、杏子は漸く元に戻すことができたのだ。それはまるで、杏子と宮部の血と涙を散々吸った抜き身の刃が、音も立てずにそっと、元の鞘に戻されたかのようだった。
床に置かれたプヤを見て深く感じ入っていた杏子は、やがて気が済んで、上がり框に腰掛けてこちらを見ていた宮部の元へと戻った。杏子を優しく見つめそのふっくらとした手を取って、宮部は腰掛けたまま、折り曲げてもなお長い自らの脚の間へと、杏子をゆっくり導いた。
いつもと違う視点で上から見下ろして見る宮部は、どこか幼げで頼りなく、杏子の胸の奥の柔いところを擽るような、そんなこそばゆさを杏子に感じさせた。たまらず愛しくなって、杏子は宮部の頭を胸に抱いた。母が子を慈しむように、そっと優しく宮部の髪を梳き、ずいぶん堅そうだと想像していたその短髪が、意外に柔らかく指の間を滑っていくことに、杏子は驚いた。
しかし、そんな驚きは、すぐに別の感覚に取って代わられた。抱いた胸元のじんわりとした宮部の温もりが、刹那、鋭くも甘い疼きに変わったのだ。杏子の豊満な胸に顔を埋めた宮部が、そう長くは大人しくしていられるはずも無く、杏子を瞬時にして女の欲に引きずり込むのに最も適当な処を、最も適当な強さで甘噛みしたのである。それは、たとえ数枚の布越しであっても、寸分違わずその場所を捉えて、しっとりと色めいた音を杏子の口から引き出した。
「もう、玄関はいやよ。」
胸先のその甘い疼きが、これから始まるめくるめく官能の一時の序幕に過ぎないことを既に知っている杏子は、ただ一言だけを言い置いて、身も心も、杏子の持てるもの全てを、迷い無く宮部に委ねた。
もう以前とは違い、この愛の行為の末には虚しい別れなどない。その先に何があるのか、漸く確かめることができるのだ。胸元から首筋へ、首筋から唇へと移ろい、次第に全身へと広がっていく宮部の熱を感じながら、杏子は甘い期待に胸を膨らませたのだった。
皮肉な運命に翻弄されたと、そう天を恨むなど、烏滸がましいのだと杏子は思った。抗いがたい病的な孤独に苛まれていた真奈美はともかく、宮部と杏子に限って言えば、単なる自業自得なのである。そして、宮部も杏子も、それ相応の報いを受けた今では、杏子の心には何の遺恨もなく、ただ宮部への抑えきれないほどの恋慕が残るのみだった。それは、以前のような焦燥感や不安感を伴うものとは異なり、相手も自分と同じ思いでいるのだという自信に裏打ちされた安心感に満ちあふれ、この上なく杏子を幸せな気分にさせた。
そんな杏子が、坂の道中、宮部とのメールの遣り取りについて好奇心から色々と問えば、宮部はまだ気まずさが拭えないのか渋い答えが返ってきて、杏子はやはり可笑しくなってしまった。
とりわけ、真奈美扮するナツキにまで嫉妬をしていたのかと問うたときに、宮部が妙に誇らしげに答えたことには、杏子は大爆笑したのだった。曰く、確かにかつては杏子とナツキの親密さを面白く思わなかったものだが、今ではそんな想いは微塵も無いと言うのである。それも、文字の遣り取りに関して言えば、真奈美よりも自分の方がずっと杏子と深く通じ合ったのだからという理由を知って、これが笑わずに居られようか。チャットのことをあれほど馬鹿にしたその同じ口で、そう言ってのけた宮部は、余裕綽々と大人の魅力を振りまく、杏子が恋に落ちたかつての姿とは程遠かったが、杏子はそんな宮部がどうしようもなく愛しく思えてならなかった。
誰しもが、そんなものなのだろうと、杏子は思い至った。大人だからといって、トレンディドラマのようなスマートな恋愛が現実にできるわけが無いのだ。歳を重ねて、酸いも甘いも一通りは囓ったような顔をしていても、その実、恋に身を焦がし嫉妬に駆られて形振り構わず幸せをつかみ取ろうとする泥臭さが、大人にだってあるのだと、杏子はそう感じた。
気付けば、もう杏子の家はすぐそこだった。玄関脇に愛車を停めてもらい、前かごから小さい鉢を取り出して、扉を開けて入った土間に、杏子はそっとそれを据えた。台所の三和土の上の、あの黒ずんだ染みにちょうど重なる同じ位置に、本来そこにあるべきだった物を、杏子は漸く元に戻すことができたのだ。それはまるで、杏子と宮部の血と涙を散々吸った抜き身の刃が、音も立てずにそっと、元の鞘に戻されたかのようだった。
床に置かれたプヤを見て深く感じ入っていた杏子は、やがて気が済んで、上がり框に腰掛けてこちらを見ていた宮部の元へと戻った。杏子を優しく見つめそのふっくらとした手を取って、宮部は腰掛けたまま、折り曲げてもなお長い自らの脚の間へと、杏子をゆっくり導いた。
いつもと違う視点で上から見下ろして見る宮部は、どこか幼げで頼りなく、杏子の胸の奥の柔いところを擽るような、そんなこそばゆさを杏子に感じさせた。たまらず愛しくなって、杏子は宮部の頭を胸に抱いた。母が子を慈しむように、そっと優しく宮部の髪を梳き、ずいぶん堅そうだと想像していたその短髪が、意外に柔らかく指の間を滑っていくことに、杏子は驚いた。
しかし、そんな驚きは、すぐに別の感覚に取って代わられた。抱いた胸元のじんわりとした宮部の温もりが、刹那、鋭くも甘い疼きに変わったのだ。杏子の豊満な胸に顔を埋めた宮部が、そう長くは大人しくしていられるはずも無く、杏子を瞬時にして女の欲に引きずり込むのに最も適当な処を、最も適当な強さで甘噛みしたのである。それは、たとえ数枚の布越しであっても、寸分違わずその場所を捉えて、しっとりと色めいた音を杏子の口から引き出した。
「もう、玄関はいやよ。」
胸先のその甘い疼きが、これから始まるめくるめく官能の一時の序幕に過ぎないことを既に知っている杏子は、ただ一言だけを言い置いて、身も心も、杏子の持てるもの全てを、迷い無く宮部に委ねた。
もう以前とは違い、この愛の行為の末には虚しい別れなどない。その先に何があるのか、漸く確かめることができるのだ。胸元から首筋へ、首筋から唇へと移ろい、次第に全身へと広がっていく宮部の熱を感じながら、杏子は甘い期待に胸を膨らませたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
辺境伯夫人は領地を紡ぐ
やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。
しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。
物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。
戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。
これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。
全50話の予定です
※表紙はイメージです
※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる