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第十二章 Beyond the Truth
第百八話 元鞘
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宮部と出会った四月頃から半年あまり、それ以前のナツキとの遣り取りを含めると実に一年以上も、杏子はこの壮大な一連の茶番劇に翻弄されてきた。真奈美の悪気のない成りすましに端を発し、秘密を抱えて宮部に近づいた杏子、そしてその杏子に対する意趣返しとばかりに、今度は宮部が真奈美に成りすました。三者がそれぞれに、誰かを傷つけようだとか苦しめようだとか、そんな悪感情は一切なしに、ただ寂しさや恋しさや腹立ちから弄してしまった謂わば苦肉の策は、今日の今日まで、杏子と宮部を必要以上に拗らせてきた。それさえ無ければ、もっとずっと以前に、かつて宮部と杏子の心が限りなく近づいたあの時に、二人は何の問題も無く想いを交わし恋人同士となれたのだろう。
皮肉な運命に翻弄されたと、そう天を恨むなど、烏滸がましいのだと杏子は思った。抗いがたい病的な孤独に苛まれていた真奈美はともかく、宮部と杏子に限って言えば、単なる自業自得なのである。そして、宮部も杏子も、それ相応の報いを受けた今では、杏子の心には何の遺恨もなく、ただ宮部への抑えきれないほどの恋慕が残るのみだった。それは、以前のような焦燥感や不安感を伴うものとは異なり、相手も自分と同じ思いでいるのだという自信に裏打ちされた安心感に満ちあふれ、この上なく杏子を幸せな気分にさせた。
そんな杏子が、坂の道中、宮部とのメールの遣り取りについて好奇心から色々と問えば、宮部はまだ気まずさが拭えないのか渋い答えが返ってきて、杏子はやはり可笑しくなってしまった。
とりわけ、真奈美扮するナツキにまで嫉妬をしていたのかと問うたときに、宮部が妙に誇らしげに答えたことには、杏子は大爆笑したのだった。曰く、確かにかつては杏子とナツキの親密さを面白く思わなかったものだが、今ではそんな想いは微塵も無いと言うのである。それも、文字の遣り取りに関して言えば、真奈美よりも自分の方がずっと杏子と深く通じ合ったのだからという理由を知って、これが笑わずに居られようか。チャットのことをあれほど馬鹿にしたその同じ口で、そう言ってのけた宮部は、余裕綽々と大人の魅力を振りまく、杏子が恋に落ちたかつての姿とは程遠かったが、杏子はそんな宮部がどうしようもなく愛しく思えてならなかった。
誰しもが、そんなものなのだろうと、杏子は思い至った。大人だからといって、トレンディドラマのようなスマートな恋愛が現実にできるわけが無いのだ。歳を重ねて、酸いも甘いも一通りは囓ったような顔をしていても、その実、恋に身を焦がし嫉妬に駆られて形振り構わず幸せをつかみ取ろうとする泥臭さが、大人にだってあるのだと、杏子はそう感じた。
気付けば、もう杏子の家はすぐそこだった。玄関脇に愛車を停めてもらい、前かごから小さい鉢を取り出して、扉を開けて入った土間に、杏子はそっとそれを据えた。台所の三和土の上の、あの黒ずんだ染みにちょうど重なる同じ位置に、本来そこにあるべきだった物を、杏子は漸く元に戻すことができたのだ。それはまるで、杏子と宮部の血と涙を散々吸った抜き身の刃が、音も立てずにそっと、元の鞘に戻されたかのようだった。
床に置かれたプヤを見て深く感じ入っていた杏子は、やがて気が済んで、上がり框に腰掛けてこちらを見ていた宮部の元へと戻った。杏子を優しく見つめそのふっくらとした手を取って、宮部は腰掛けたまま、折り曲げてもなお長い自らの脚の間へと、杏子をゆっくり導いた。
いつもと違う視点で上から見下ろして見る宮部は、どこか幼げで頼りなく、杏子の胸の奥の柔いところを擽るような、そんなこそばゆさを杏子に感じさせた。たまらず愛しくなって、杏子は宮部の頭を胸に抱いた。母が子を慈しむように、そっと優しく宮部の髪を梳き、ずいぶん堅そうだと想像していたその短髪が、意外に柔らかく指の間を滑っていくことに、杏子は驚いた。
しかし、そんな驚きは、すぐに別の感覚に取って代わられた。抱いた胸元のじんわりとした宮部の温もりが、刹那、鋭くも甘い疼きに変わったのだ。杏子の豊満な胸に顔を埋めた宮部が、そう長くは大人しくしていられるはずも無く、杏子を瞬時にして女の欲に引きずり込むのに最も適当な処を、最も適当な強さで甘噛みしたのである。それは、たとえ数枚の布越しであっても、寸分違わずその場所を捉えて、しっとりと色めいた音を杏子の口から引き出した。
「もう、玄関はいやよ。」
胸先のその甘い疼きが、これから始まるめくるめく官能の一時の序幕に過ぎないことを既に知っている杏子は、ただ一言だけを言い置いて、身も心も、杏子の持てるもの全てを、迷い無く宮部に委ねた。
もう以前とは違い、この愛の行為の末には虚しい別れなどない。その先に何があるのか、漸く確かめることができるのだ。胸元から首筋へ、首筋から唇へと移ろい、次第に全身へと広がっていく宮部の熱を感じながら、杏子は甘い期待に胸を膨らませたのだった。
皮肉な運命に翻弄されたと、そう天を恨むなど、烏滸がましいのだと杏子は思った。抗いがたい病的な孤独に苛まれていた真奈美はともかく、宮部と杏子に限って言えば、単なる自業自得なのである。そして、宮部も杏子も、それ相応の報いを受けた今では、杏子の心には何の遺恨もなく、ただ宮部への抑えきれないほどの恋慕が残るのみだった。それは、以前のような焦燥感や不安感を伴うものとは異なり、相手も自分と同じ思いでいるのだという自信に裏打ちされた安心感に満ちあふれ、この上なく杏子を幸せな気分にさせた。
そんな杏子が、坂の道中、宮部とのメールの遣り取りについて好奇心から色々と問えば、宮部はまだ気まずさが拭えないのか渋い答えが返ってきて、杏子はやはり可笑しくなってしまった。
とりわけ、真奈美扮するナツキにまで嫉妬をしていたのかと問うたときに、宮部が妙に誇らしげに答えたことには、杏子は大爆笑したのだった。曰く、確かにかつては杏子とナツキの親密さを面白く思わなかったものだが、今ではそんな想いは微塵も無いと言うのである。それも、文字の遣り取りに関して言えば、真奈美よりも自分の方がずっと杏子と深く通じ合ったのだからという理由を知って、これが笑わずに居られようか。チャットのことをあれほど馬鹿にしたその同じ口で、そう言ってのけた宮部は、余裕綽々と大人の魅力を振りまく、杏子が恋に落ちたかつての姿とは程遠かったが、杏子はそんな宮部がどうしようもなく愛しく思えてならなかった。
誰しもが、そんなものなのだろうと、杏子は思い至った。大人だからといって、トレンディドラマのようなスマートな恋愛が現実にできるわけが無いのだ。歳を重ねて、酸いも甘いも一通りは囓ったような顔をしていても、その実、恋に身を焦がし嫉妬に駆られて形振り構わず幸せをつかみ取ろうとする泥臭さが、大人にだってあるのだと、杏子はそう感じた。
気付けば、もう杏子の家はすぐそこだった。玄関脇に愛車を停めてもらい、前かごから小さい鉢を取り出して、扉を開けて入った土間に、杏子はそっとそれを据えた。台所の三和土の上の、あの黒ずんだ染みにちょうど重なる同じ位置に、本来そこにあるべきだった物を、杏子は漸く元に戻すことができたのだ。それはまるで、杏子と宮部の血と涙を散々吸った抜き身の刃が、音も立てずにそっと、元の鞘に戻されたかのようだった。
床に置かれたプヤを見て深く感じ入っていた杏子は、やがて気が済んで、上がり框に腰掛けてこちらを見ていた宮部の元へと戻った。杏子を優しく見つめそのふっくらとした手を取って、宮部は腰掛けたまま、折り曲げてもなお長い自らの脚の間へと、杏子をゆっくり導いた。
いつもと違う視点で上から見下ろして見る宮部は、どこか幼げで頼りなく、杏子の胸の奥の柔いところを擽るような、そんなこそばゆさを杏子に感じさせた。たまらず愛しくなって、杏子は宮部の頭を胸に抱いた。母が子を慈しむように、そっと優しく宮部の髪を梳き、ずいぶん堅そうだと想像していたその短髪が、意外に柔らかく指の間を滑っていくことに、杏子は驚いた。
しかし、そんな驚きは、すぐに別の感覚に取って代わられた。抱いた胸元のじんわりとした宮部の温もりが、刹那、鋭くも甘い疼きに変わったのだ。杏子の豊満な胸に顔を埋めた宮部が、そう長くは大人しくしていられるはずも無く、杏子を瞬時にして女の欲に引きずり込むのに最も適当な処を、最も適当な強さで甘噛みしたのである。それは、たとえ数枚の布越しであっても、寸分違わずその場所を捉えて、しっとりと色めいた音を杏子の口から引き出した。
「もう、玄関はいやよ。」
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