君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
上 下
110 / 110
第十二章 Beyond the Truth

第百十一話 幸せな女

しおりを挟む
夢を見ることもないほどに深く眠っていた杏子が、まだ空が白むよりもずっとずっと前に、何故目を覚ますことになったのかと言えば、それは、背中から包み込むように杏子を抱き締めていた宮部が、夢うつつに杏子の乳房を弄っていたからだった。立しても十分に質量のあるそれは、横臥すればますますたっぷりと肉感を増し、手に触れれば揉みしだかずにはいられない程の魅力があった。

半ば強引に眠りから覚めさせられた杏子が、寝惚けた宮部の悪戯を嫌がって身を捩ると、釣られて宮部も目覚めたようだった。
「杏子の胸、すげぇ気持ちいい。絶対に痩せんなよ。」
寝起きらしいくぐもったその声を聞いて、宮部は肉付きの良いボディラインが相当に好みなのだなと感心しつつも、杏子は別のことに思いを馳せていた。
母の志保里である。

志保里は杏子よりも小柄で、杏子とは比べるべくもないほどに華奢で繊細な体つきをしていた。ところが、アンバランスなことに、胸だけは人並み以上に大きかったのである。もちろん、あっちもこっちも肉付きの良い杏子と比べれば、カップサイズは幾分小さいのかもしれないが、およそ人間の形質が全て遺伝子のなせる技であるならば、杏子の巨乳を司る遺伝子は、間違いなく志保里に由来するものなのだ。やはり自分は母の娘なのだと、今更ながらに当然の事実を再認識した杏子は、いつか志保里が言ったように、自分にはまだ他にも、母に似たところがあるのだろうと思い至った。

志保里は、杏子と母子をやり直したいのだと言った。二人の似たところを一つ見つけて、もっともっと見つけていきたいのだと言った。志保里は、もはや杏子を諦めてはいないのだ。今や、杏子と志保里の間には、他の多くの家族と同様に、泣いても怒っても笑っても、何をしても切れない絆が生まれ始めたのかも知れない。それはまだ、注連縄のように何重にも紙撚られた太さはないのだろう。わずか一本の絹糸のようなものかもしれない。それでも、杏子と志保里の間には、そこを繋ぐ何かが、確かに生まれ始めていた。そしてそれは、例え母子が海を隔てて数年離れていたとしても、きっと変わらないのではないだろうか。
もしかすると、志保里も杏子と同じに、日に当たれば赤く爛れるのだろうか。もしかすると、杏子と同じに、月の障りが重いのだろうか。例え離れていても、文字を交わし言葉を交わし、そうして志保里との共通点を一つ一つ発見していくうちに、いつの日か普通の母子のようになれるのではないだろうか。
杏子には、そう思えてならなかった。

「大丈夫よ。たぶん、痩せたって胸は大きいままだわ。」
母を思い浮かべそう答えた杏子に、いつもの低音は返ってこなかった。小鳥たちの朝の囀りが始まる前の、しんとした明けの静寂の中で、規則的な寝息だけが背後から聞こえてくる。
胸元を覆う手はすっかり大人しくなり、ただそこに在って杏子に温もりを伝えている。
宮部の大きくて温かい手。時には頭を撫でて労り、また時には背を撫でて宥め、そしてしばしば杏子を翻弄するその手もまた、杏子を放すことはないに違いない。一度は離れて行った杏子を、形振り構わず連れ戻してくれた力強いこの手は、今や確りと杏子のそれを掴み、二度と放さないだろう。宮部本人の言葉通り、例え杏子が数年アメリカへ行ったとしても、宮部が杏子を諦めることなどないと、杏子はそう確信していた。

どちらの道を選んでも良いのだ。宮部と志保里、どちらを選んでも、選ばなかったもう片方との絆が切れることなどないだろう。宮部と志保里、そのどちらもが、杏子を諦めることなど二度とないのだ。そして杏子も、もう二度と二人を諦めない。

この上なく満ち足りた幸福感に浸りつつ、宮部の温かい腕に包まれて、杏子は再び眠りに落ち、そして夢を見た。
心地好い風が吹き抜ける陽だまりの場所で、生命力に溢れた美しいものたちが、風に揺られて優しい音を奏でている。目の前には、雄大に葉を広げる艶めく緑のそれ。天高く伸びた茎の先には、撓わに咲き誇る花々がこちらを見下ろしている。芳醇な蜜の香りに混じって、どこかスパイシーな大地の香りが鼻を擽る。礫を踏む乾いた音が、一歩、また一歩と近づいて、そしてとうとう、杏子は温もりに包まれた。

杏子はもう、孤独な女ではなかった。
杏子は、幸せな女だった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...