90 / 102
後日談
無明の鐘 2
しおりを挟む
忠雅がかねてからの許嫁であった佐竹菊乃と祝言を挙げたのは、二十三歳の春のことだった。
祝言の場所は、普段は手習い所となっている法勝寺の離れである。春の遅い明野領で桜の花が満開となる時分に、影の弟分達や手習い所の子ども達、それに一時期菊乃が出家していた保月庵で茶の湯や裁縫を習っていた少女達にも祝福されて、夫婦となった。
本来この場所で祝言を挙げるのは、忠雅の竹馬の友である雅勝とその許嫁のおるいのはずだった。その時には忠雅も菊乃も出席する予定でいたのだが、まさか後々、自分達がこの場所で祝言を挙げる側に回るとは思ってもいなかった。
庭に植えられた桜の木から薄紅色の花弁が一枚、また一枚と降ってきて、小砂利の上に舞い落ちている。春の遅い明野領の空は今まさに春爛漫と言った感じで、開け放たれた障子の向こうから暖かな日差しが降り注いでいる。もう少したてば明野領名物・春の突風が吹き荒れるのは必須だが、今この時、吹き抜ける風の感触はどこまでも柔らかく暖かかい。
今、菊乃が身にまとっている花嫁衣裳は、かつての兄嫁――亡くなった先の佐竹当主・佐竹実雅の妻が用意してくれたものだ。夫婦仲がしっくり行っていなかった兄嫁は夫が亡くなると同時に実家に戻り、婚家との縁はほぼ切れていたのだが、このたびかつての義妹が法勝寺で祝言を挙げると知って、手ずから花嫁衣裳を縫ってくれたそうだ。
「菊乃殿。……すまないな」
集まったすべての人々に祝福され、夫婦の盃を交わしした席で、忠雅は自身の妻に対し心から謝罪した。
元影衆であり、清水の家臣となるはずだった雅勝とおるいの祝言であれば、法勝寺で身近な人達に祝福されれば充分に事足りる。だが明野領次席家老である清水忠雅と佐竹家の息女である菊乃との祝言は、そんなことでは済まされない。武智雅久の遺言をたてに弟・行久への明野領相続を認めさせる傍ら、忠雅は菊乃を正式に妻にする道を模索し続けた。清水家の当主は名実共に忠雅なのだが、家中においては、今なお隠居した父――志雲斎の存在が大きい。父の認めない婚姻を清水の親戚は頑として認めなかったし、勝手に出家し、その後還俗した菊乃は佐竹本家との縁が切れてしまっている。両家に認められた正式の婚姻は、忠雅がどう足掻いても不可能だった。
だから今日、この祝言はあくまで気持ちだけのものだ。武家の常識に当てはめれば、今日の祝言を終えてもなお、菊乃は忠雅の妻ではない。最大限に譲歩しても内妻――悪くいえばただの妾である。
「いいえ、忠雅様。菊乃はむしろ――この祝言の方が嬉しゅうございます」
彼女とて武家で生まれ育った身、忠雅の謝罪の意味がわからないはずもない。本来の婚礼であれば場所が法勝寺というのは考えられないし、両家の親族や明野領の重臣が誰もいないということもあり得ない。花嫁衣裳を用意したのが元兄嫁であるということ自体、佐竹の縁者には菊乃の婚礼の準備をしてくれる人間が誰もいなかったのだ。
しかし今、新妻は嬉しそうに笑って、顔見知りの子ども達と若い影衆達が陽気に騒いでいる姿を見守っている。
「ただ欲をいうなら……雅勝様とおるいさんにもこの場で祝って欲しかったのですけど」
樋口雅勝は忠雅の幼馴染であり、菊乃ともそれなりに親しく付き合ってきた。
本領で死んだことになっていた雅勝が生きていることがわかったのは、昨年の夏のことだった。影衆と敵対する葉隠衆の手に落ちて、過去の記憶を失くした雅勝を忠雅は斬った。その時は本気で殺すつもりであったのだが、幸いなことに雅勝は生還し、目が覚めた時には、過去の記憶を取り戻していた。
刀で斬られて海に落下し、生命にかかわるほど大量の血を失った。そのことが結果的に、身体から薬を抜くことに繋がったのではないか。
とは、診察した玄徳医師の言葉である。
秘薬を投与され続けたことによる肉体への負担が懸念材料ではあったが、玄徳が診たところ、日常生活における差し障りはなさそうだった。医師から遠出のお墨付きをもらった雅勝が妻子の許に旅立ったのは、今から半月程前のことだ。
本人はおるいに見放されているのでないかと恐れ慄いていたが、そんなことは起こりえないと断言できる。きっと今頃は最愛の妻と可愛い娘に囲まれて、明野領のことも忠雅のことも綺麗さっぱり忘れていることだろう。
「何も知らせてこないところを見ると、無事に猪瀬に着いたんだろう。あいつのことだ。今頃はおゆいを膝に乗せて、でれっでれの父親をやってるさ」
花嫁衣裳を身にまとった美しい妻の手を取って、忠雅も今はただ、この幸せに浸ることにした。
身内や世間が何と言おうとも、忠雅にとって妻は生涯菊乃ただ一人だ。二人が仲睦まじく暮らしてさえいれば、いずれは周囲から認められる日もやってくる――そう思って。
祝言の場所は、普段は手習い所となっている法勝寺の離れである。春の遅い明野領で桜の花が満開となる時分に、影の弟分達や手習い所の子ども達、それに一時期菊乃が出家していた保月庵で茶の湯や裁縫を習っていた少女達にも祝福されて、夫婦となった。
本来この場所で祝言を挙げるのは、忠雅の竹馬の友である雅勝とその許嫁のおるいのはずだった。その時には忠雅も菊乃も出席する予定でいたのだが、まさか後々、自分達がこの場所で祝言を挙げる側に回るとは思ってもいなかった。
庭に植えられた桜の木から薄紅色の花弁が一枚、また一枚と降ってきて、小砂利の上に舞い落ちている。春の遅い明野領の空は今まさに春爛漫と言った感じで、開け放たれた障子の向こうから暖かな日差しが降り注いでいる。もう少したてば明野領名物・春の突風が吹き荒れるのは必須だが、今この時、吹き抜ける風の感触はどこまでも柔らかく暖かかい。
今、菊乃が身にまとっている花嫁衣裳は、かつての兄嫁――亡くなった先の佐竹当主・佐竹実雅の妻が用意してくれたものだ。夫婦仲がしっくり行っていなかった兄嫁は夫が亡くなると同時に実家に戻り、婚家との縁はほぼ切れていたのだが、このたびかつての義妹が法勝寺で祝言を挙げると知って、手ずから花嫁衣裳を縫ってくれたそうだ。
「菊乃殿。……すまないな」
集まったすべての人々に祝福され、夫婦の盃を交わしした席で、忠雅は自身の妻に対し心から謝罪した。
元影衆であり、清水の家臣となるはずだった雅勝とおるいの祝言であれば、法勝寺で身近な人達に祝福されれば充分に事足りる。だが明野領次席家老である清水忠雅と佐竹家の息女である菊乃との祝言は、そんなことでは済まされない。武智雅久の遺言をたてに弟・行久への明野領相続を認めさせる傍ら、忠雅は菊乃を正式に妻にする道を模索し続けた。清水家の当主は名実共に忠雅なのだが、家中においては、今なお隠居した父――志雲斎の存在が大きい。父の認めない婚姻を清水の親戚は頑として認めなかったし、勝手に出家し、その後還俗した菊乃は佐竹本家との縁が切れてしまっている。両家に認められた正式の婚姻は、忠雅がどう足掻いても不可能だった。
だから今日、この祝言はあくまで気持ちだけのものだ。武家の常識に当てはめれば、今日の祝言を終えてもなお、菊乃は忠雅の妻ではない。最大限に譲歩しても内妻――悪くいえばただの妾である。
「いいえ、忠雅様。菊乃はむしろ――この祝言の方が嬉しゅうございます」
彼女とて武家で生まれ育った身、忠雅の謝罪の意味がわからないはずもない。本来の婚礼であれば場所が法勝寺というのは考えられないし、両家の親族や明野領の重臣が誰もいないということもあり得ない。花嫁衣裳を用意したのが元兄嫁であるということ自体、佐竹の縁者には菊乃の婚礼の準備をしてくれる人間が誰もいなかったのだ。
しかし今、新妻は嬉しそうに笑って、顔見知りの子ども達と若い影衆達が陽気に騒いでいる姿を見守っている。
「ただ欲をいうなら……雅勝様とおるいさんにもこの場で祝って欲しかったのですけど」
樋口雅勝は忠雅の幼馴染であり、菊乃ともそれなりに親しく付き合ってきた。
本領で死んだことになっていた雅勝が生きていることがわかったのは、昨年の夏のことだった。影衆と敵対する葉隠衆の手に落ちて、過去の記憶を失くした雅勝を忠雅は斬った。その時は本気で殺すつもりであったのだが、幸いなことに雅勝は生還し、目が覚めた時には、過去の記憶を取り戻していた。
刀で斬られて海に落下し、生命にかかわるほど大量の血を失った。そのことが結果的に、身体から薬を抜くことに繋がったのではないか。
とは、診察した玄徳医師の言葉である。
秘薬を投与され続けたことによる肉体への負担が懸念材料ではあったが、玄徳が診たところ、日常生活における差し障りはなさそうだった。医師から遠出のお墨付きをもらった雅勝が妻子の許に旅立ったのは、今から半月程前のことだ。
本人はおるいに見放されているのでないかと恐れ慄いていたが、そんなことは起こりえないと断言できる。きっと今頃は最愛の妻と可愛い娘に囲まれて、明野領のことも忠雅のことも綺麗さっぱり忘れていることだろう。
「何も知らせてこないところを見ると、無事に猪瀬に着いたんだろう。あいつのことだ。今頃はおゆいを膝に乗せて、でれっでれの父親をやってるさ」
花嫁衣裳を身にまとった美しい妻の手を取って、忠雅も今はただ、この幸せに浸ることにした。
身内や世間が何と言おうとも、忠雅にとって妻は生涯菊乃ただ一人だ。二人が仲睦まじく暮らしてさえいれば、いずれは周囲から認められる日もやってくる――そう思って。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
仇討浪人と座頭梅一
克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。
旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる