茜さす

横山美香

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後日談

無明の鐘 2

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  忠雅がかねてからの許嫁であった佐竹菊乃と祝言を挙げたのは、二十三歳の春のことだった。
 祝言の場所は、普段は手習い所となっている法勝寺の離れである。春の遅い明野領で桜の花が満開となる時分に、影の弟分達や手習い所の子ども達、それに一時期菊乃が出家していた保月庵で茶の湯や裁縫を習っていた少女達にも祝福されて、夫婦となった。
 本来この場所で祝言を挙げるのは、忠雅の竹馬の友である雅勝とその許嫁のおるいのはずだった。その時には忠雅も菊乃も出席する予定でいたのだが、まさか後々、自分達がこの場所で祝言を挙げる側に回るとは思ってもいなかった。
 庭に植えられた桜の木から薄紅色の花弁が一枚、また一枚と降ってきて、小砂利の上に舞い落ちている。春の遅い明野領の空は今まさに春爛漫と言った感じで、開け放たれた障子の向こうから暖かな日差しが降り注いでいる。もう少したてば明野領名物・春の突風が吹き荒れるのは必須だが、今この時、吹き抜ける風の感触はどこまでも柔らかく暖かかい。
 今、菊乃が身にまとっている花嫁衣裳は、かつての兄嫁――亡くなった先の佐竹当主・佐竹実雅の妻が用意してくれたものだ。夫婦仲がしっくり行っていなかった兄嫁は夫が亡くなると同時に実家に戻り、婚家との縁はほぼ切れていたのだが、このたびかつての義妹が法勝寺で祝言を挙げると知って、手ずから花嫁衣裳を縫ってくれたそうだ。
「菊乃殿。……すまないな」
 集まったすべての人々に祝福され、夫婦の盃を交わしした席で、忠雅は自身の妻に対し心から謝罪した。
 元影衆であり、清水の家臣となるはずだった雅勝とおるいの祝言であれば、法勝寺で身近な人達に祝福されれば充分に事足りる。だが明野領次席家老である清水忠雅と佐竹家の息女である菊乃との祝言は、そんなことでは済まされない。武智雅久の遺言をたてに弟・行久への明野領相続を認めさせる傍ら、忠雅は菊乃を正式に妻にする道を模索し続けた。清水家の当主は名実共に忠雅なのだが、家中においては、今なお隠居した父――志雲斎の存在が大きい。父の認めない婚姻を清水の親戚は頑として認めなかったし、勝手に出家し、その後還俗した菊乃は佐竹本家との縁が切れてしまっている。両家に認められた正式の婚姻は、忠雅がどう足掻いても不可能だった。
 だから今日、この祝言はあくまで気持ちだけのものだ。武家の常識に当てはめれば、今日の祝言を終えてもなお、菊乃は忠雅の妻ではない。最大限に譲歩しても内妻――悪くいえばただの妾である。
「いいえ、忠雅様。菊乃はむしろ――この祝言の方が嬉しゅうございます」
 彼女とて武家で生まれ育った身、忠雅の謝罪の意味がわからないはずもない。本来の婚礼であれば場所が法勝寺というのは考えられないし、両家の親族や明野領の重臣が誰もいないということもあり得ない。花嫁衣裳を用意したのが元兄嫁であるということ自体、佐竹の縁者には菊乃の婚礼の準備をしてくれる人間が誰もいなかったのだ。
 しかし今、新妻は嬉しそうに笑って、顔見知りの子ども達と若い影衆達が陽気に騒いでいる姿を見守っている。
「ただ欲をいうなら……雅勝様とおるいさんにもこの場で祝って欲しかったのですけど」
 樋口雅勝は忠雅の幼馴染であり、菊乃ともそれなりに親しく付き合ってきた。
 本領で死んだことになっていた雅勝が生きていることがわかったのは、昨年の夏のことだった。影衆と敵対する葉隠衆の手に落ちて、過去の記憶を失くした雅勝を忠雅は斬った。その時は本気で殺すつもりであったのだが、幸いなことに雅勝は生還し、目が覚めた時には、過去の記憶を取り戻していた。
 刀で斬られて海に落下し、生命にかかわるほど大量の血を失った。そのことが結果的に、身体から薬を抜くことに繋がったのではないか。
 とは、診察した玄徳医師の言葉である。
 秘薬を投与され続けたことによる肉体への負担が懸念材料ではあったが、玄徳が診たところ、日常生活における差し障りはなさそうだった。医師から遠出のお墨付きをもらった雅勝が妻子の許に旅立ったのは、今から半月程前のことだ。
 本人はおるいに見放されているのでないかと恐れ慄いていたが、そんなことは起こりえないと断言できる。きっと今頃は最愛の妻と可愛い娘に囲まれて、明野領のことも忠雅のことも綺麗さっぱり忘れていることだろう。
「何も知らせてこないところを見ると、無事に猪瀬に着いたんだろう。あいつのことだ。今頃はおゆいを膝に乗せて、でれっでれの父親をやってるさ」
 花嫁衣裳を身にまとった美しい妻の手を取って、忠雅も今はただ、この幸せに浸ることにした。
 身内や世間が何と言おうとも、忠雅にとって妻は生涯菊乃ただ一人だ。二人が仲睦まじく暮らしてさえいれば、いずれは周囲から認められる日もやってくる――そう思って。
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