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第八話
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──それから、いくつかの夜が過ぎた。
嵐はとっくに去り、
山道も少しずつ復旧に向かっているらしい。
けれど、この家の中だけは——
別の“嵐”が、静かに続いていた。
サクの“食事”という名の時間。
*
「……サク。今日は、どこがいいですか?」
夕食の食器を片付け終え、
凪はいつものように、当たり前の顔でそう言った。
(“どこがいいですか”って……)
サクは思わずこめかみを押さえたくなる。
「……凪。そういう言い方をするものじゃない。」
「え、あ、ごめんなさい……。
でも……サクがいちばん楽なところで……。」
まっすぐな眼差し。
どこにも打算のない声。
“ここにいる間は、私を食事にしてほしいの”。
あの日、凪が言った言葉を、
サクはまだうまく飲み込めずにいた。
(……決めた女は、強いっていうが……本当だな……)
一度決めたら、退かない。
「やめろ」と言っても、
「サクが困るなら、やめますけど」と、こちらに選択肢を押し返してくる。
結局、折れるのはいつもサクのほうだった。
「……今日は、手でいい。」
「指先……ですか?」
凪が椅子に腰掛け、テーブルの向こうからそっと手を差し出す。
白くて細い指。
爪もきちんと整えられていて、
香水屋の仕事柄か、ほんのりいい香りがした。
サクは小さく息をつく。
「……少しだけでいい。無理はさせない」
「うん……大丈夫です。」
凪は、迷いなく頷いた。
(……どうして、そんな顔で……)
まるで“ただの家事の一つ”みたいに。
そのくせ、かすかに頬は赤いのだ。
サクは凪の手を取った。
指先に唇を寄せる。
カチリ、と牙が伸びる音が、まだ耳に微かに響いている気がする。
「っ……」
軽く皮膚を裂く感触。
かすかな血の匂い。
サクは、自分の喉が先に鳴りそうになるのを必死に抑えた。
(……落ち着け。これは“食事”だ。……ただの行為だ。)
……だが。
凪の血が舌に触れた瞬間、理性が軋んだ。
(……っ……やっぱり……おかしいだろ、これは……)
甘い。
温かい。
深い。
ただ飢えを誤魔化すための液体じゃない。
喉を通るたび、胸の奥の“別の渇き”まで満たそうとしてくる。
凪の指が、かすかに震えた。
「……い、痛くないですよ……」
強がるように笑う声。
でも、その指先には緊張がしっかり伝わってくる。
サクは、わざと動きをゆっくりにした。
(……怖くないと、思わせたいくせに……
これじゃ、余計に……)
舌先で血をすくい、傷口に触れないよう注意しながら舐めとっていく。
それだけなのに——
凪の肩が、びくりと揺れた。
「……っ……」
「……痛むか?」
唇を離して問えば、
凪はぶんぶんと首を振る。
「い、いえ……その……なんか……
くすぐったい、というか……変な感じで……」
耳まで赤い。
(……“変な感じ”って……)
サクは思わず視線を逸らした。
「……ごめん。」
「謝らないでください……。
サクが……少しでも楽になるなら、それで……」
凪は、そっと微笑んだ。
その笑顔が——
致命的だった。
(……あぁ……)
胸の奥に落ちる“何か”の音がした。
ただの“食事”じゃない。
ただの“血”じゃない。
この子は、自分の血を
“サクの役に立てる”ことが嬉しそうで。
傷を塞ぐため、サクは最後にそっと指先へ唇を落とす。
キスにも似た、短い触れ方。
「っ……!」
凪の身体がびくんと跳ねた。
「……これで、もう痛くない。」
「は、はい……っ」
凪の声は、すっかり上擦っていた。
(……余計なことをしたか……?)
思いながらも、サクの胸の奥は、
その反応にひどく甘い痛みを覚えていた。
(……どうして私は……
この子を“守る”以外のことでこんなにも揺らいでいる……?)
それからも、日々の暮らしの中で
“食事”の時間は静かに積み重なっていく。
朝は普通に挨拶をして、
一緒に朝食をとり、
凪は店の準備に向かい、サクは半地下で仕事を片付ける。
そして、夜。
店を閉め、片付けが終わると——
「……今日も、ちゃんと食べてくださいね。」
凪がさりげなく近づいてくる。
手首を差し出す日もあれば、
指先の日もある。
ある日は、腕の内側。
「ここの方が、たぶん……吸いやすいですよね……?」
そんなことまで気遣って、
まっすぐな瞳で見上げてくる。
(……やめろ。そんな顔をするな。)
サクは、心の中だけで頭を抱える。
本能は、凪の血を求める。
けれど——
心のどこか別の場所は、
凪の“善意”そのものに溺れそうだった。
「……サク。」
ある夜、血を吸い終えたあと、
凪がぽつりと名前を呼んだ。
「……何だ。」
「……あの、もし……サクが……
私以外の誰かの血を飲むようになっても……」
そこで言葉が少し震える。
「……そうなっても、仕方ないって、わかってるんです。
私がここを出たら、サクはまた別の“食事”を——」
サクの胸に、チクリと棘が刺さった。
「……凪。」
「……でも。」
凪は、拳をぎゅっと握る。
「ここにいる間くらいは……
サクの“いちばん近く”で、サクの役に立ちたいんです。」
(……あぁ。)
悟ってしまう。
(もう、この子は……
“好き”を、認めてしまっているんだな。)
本人の口からはまだ言葉になっていない。
けれど、その瞳も、声も、仕草も——
全部が、物語ってしまっている。
「……凪。」
サクは、思わずその頭を抱き寄せた。
もふ、と髪が腕の中に収まる。
体温が伝わる。
小さな肩が、自分の胸元で少し震える。
「……サク……?」
「……私は、君の“取引”に甘えているだけだ。」
それ以上を、口にする勇気はない。
(……認めたら、終わりだ。
私は吸血鬼で、君は人間で……)
それでも——
凪の髪に指を滑らせる手は、
ひどく愛おしげだった。
(決めた女に……
“男”が抗えるはずがない、か……)
サクは自嘲気味に笑う。
(抗うどころか……もう、とっくに沈んでいる。)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
──その夜は、いつもより静かだった。
風もほとんどない。
雨も降っていない。
ただ、家の中の時計の音と、
凪の心臓の鼓動だけが、妙に大きく聞こえる。
(……なんで、こんなに……ドキドキしてるんだろ……)
凪は、自分の胸に手を当てた。
さっき、サクに血をあげたばかり。
今日は手首からだった。
「……少し、多くないか?」
と心配されて、
「大丈夫です」と笑ってみせた。
傷はもう塞がっている。
痛みもない。
……でも。
(サクが……さっき、手首を持ったとき……)
まるで壊れ物を扱うみたいに
丁寧で、優しい指先だった。
唇が触れたところが、
まだ熱を持っている気がする。
「……はぁ……」
自分の“好き”を、ようやく認めてしまった今、
その一つひとつが、全部“特別な意味”を持ってしまう。
(……サクが、私を“食べやすいように”……
って思ってたのに……)
胸の奥がぎゅうっとなる。
(本当は……違う。
ただ、近くにいたくて。
サクに触れてほしくて。
サクが、私のことを必要としてくれるのが……うれしくて……)
「……最低だな、私……」
苦笑しながらも、
凪の足は自然と半地下へ向かっていた。
──その頃、半地下では。
サクが、机に両肘をつき、こめかみを押さえていた。
(……限界、が近いな……)
凪の血は、空腹を癒す。
けれど同時に、
別の飢えを育てていく。
「……ディープブラッド……」
ぽつりと、サクは呟いた。
(吸血鬼を生む“首筋”へのキス。
静脈からの吸血——ヴァンパイアドロップ。)
それは吸血鬼の世界で、もっとも禁じられた行為の一つだ。
ただ血を飲むためだけなら、動脈で十分。
けれど、首の静脈から吸うと——
血を媒介に、命まで絡み取ってしまう。
(……傀儡ではない。
永遠に、こちら側に引きずり込むキスだ……)
さっき、凪の手首に唇を寄せたとき——
ふと、視線が滑った。
手首から、腕。
首筋へ。
少し髪をかき分ければ見えるであろう、白いうなじ。
「……っ」
サクは自分の喉を押さえた。
(近づくな。そこを見てはいけない。)
わかっているのに、目が離せなくなる瞬間がある。
凪が笑ったとき。
振り向いたとき。
髪をまとめ上げたとき。
ふわりと露わになる首筋。
そこを流れる静脈の鼓動。
(噛みたい。)
本能が囁く。
(そこに牙を立てて。
血を、全部、自分のものにしてしまえ、と。)
「……馬鹿か、私は。」
サクは笑おうとして、笑えなかった。
(あれをしたら終わりだ。
凪は人間ではいられなくなる。
“私の”吸血鬼として、この先ずっと……)
そこまで想像した瞬間、
胸が甘く、痛く締め付けられる。
(……心のどこかで、それを望んでいる自分までいるから……
質が悪い……)
コンコン。
控えめなノックの音。
「……サク?」
凪の声が、扉越しに落ちてきた。
サクの心臓が、一拍遅れて跳ねる。
「……どうぞ。」
扉が開く。
ふわりと、凪の香りが流れ込んできた。
「さっきは、ありがとうございました。」
いつも通り、少しだけ照れた笑顔。
けれど、その頬はさっきより赤い。
(……来るな。)
心の中で、そう叫ぶ。
口に出せないのは、
それを言えば、本当に遠ざけることになるからだ。
「……具合はどうだ?」
「元気です。サクこそ……顔色、少し悪くないですか?」
凪が心配そうに近づく。
一歩。
また一歩。
(やめろ。)
サクは無意識に後ずさった。
「さ、サク?」
背中が、壁に当たる。
逃げ場がなくなる。
「……凪。」
サクは低く名前を呼んだ。
「はい……?」
凪は、すぐ目の前まで来てしまっている。
顔を上げれば、首筋が、はっきり見える距離。
白い肌。
かすかに浮かぶ血管。
そこに指を滑らせれば、脈が、きっと触れる。
喉が鳴った。
(……あぁ、もう……だめだ。)
「凪。」
呼ぶ声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「……サク?」
凪が少し不安そうに眉を寄せる。
(この子は、知らない。
今、私は君の首筋しか見ていないことを。)
視線が吸い寄せられる。
牙が疼く。
“ここに牙を立てろ”。
“噛めば、お前だけのものだ”。
“ヴァンパイアドロップを”。
(……うるさい。)
サクは、自分の本能に歯噛みした。
(もうこれ以上は、危険すぎる……)
ディープブラッド。
吸血鬼殺し。
その血を、ヴァンパイアドロップで繋いでしまったら——
何が起きるか、誰にもわからない。
(……だから、もう……終わらせるしかない。)
凪を、これ以上、自分の渇きに巻き込まないために。
サクは、ゆっくりと凪に手を伸ばした。
「さ、サク……?」
「……凪。少し……目を閉じてくれ。」
「え……? ど、どうして……」
「いいから。」
低い声に、凪は戸惑いながらも、素直にまぶたを閉じる。
その瞬間——
サクは、自分の指先に爪を立てた。
ちくり、とした痛み。
赤い血が滲む。
それを悟られないよう、一歩詰める。
「……サク?」
凪の唇が、かすかに震える。
息がかかる距離。
(……ごめん、凪。)
心の中で小さく呟きながら、
サクは、そっと自分の指を凪の唇へ当てた。
「っ……」
冷たい感触に、凪の肩が小さく跳ねる。
じわり、と滲んだ血が、
唇の隙間から凪の口内へ流れ込む。
鉄のような味。
それでも、どこか甘い香りの混ざった血。
サクの血。
「さ、サク……?」
凪が目を開けようとした瞬間——
「……凪。」
サクの赤黒い瞳が、夜の闇より深く光った。
低く、囁くような声。
「凪、ダメだ。……もう私に、近づくな。」
その言葉には、吸血鬼の“血の暗示”が込められていた。
自分の血を飲ませ、命令を流し込む。
それは、彼らにとって簡単な術。
人間に“忘れろ”“離れろ”と言い聞かせるための、半ば反則のような方法。
(これで、君は……私から離れられる。)
胸が千切れるように痛む。
(あぁ。認めよう……)
サクは、固く目を閉じた。
(私は凪が好きなのだ。“女”として。
凪の笑顔も、声も、血の匂いも、全部。
だが、これは……許されない感情だ……)
吸血鬼が、人間の女を“好き”になる。
それだけならまだいい。
けれど、ディープブラッドを持つ少女を
自分の渇きで縛りつけることは、罪だ。
(だから、これでいい。
君は、いつか安全な場所で——普通の人生を——)
そのとき。
凪の身体から、ふっと力が抜けた。
「……っ!」
咄嗟に抱きとめる。
腕の中に、柔らかな重みが落ちてくる。
「……さようなら、凪。……ありがとう。」
心の中で、そっと別れを告げた。
それだけで終わるはずだった。
——ぎゅっ。
サクの服の裾を、小さな指が掴んだ。
「……え……?」
腕の中の凪が、かすかに動く。
(効いていない……? いや、そんなはずは——)
「……サク……」
か細い声。
サクの名前を、呼んだ。
ふわりと香る、いつもの凪の匂い。
肌の温度。
鼓動。
その全部が、サクの理性を貫いた。
「な……んで?」
喉が震える。
(暗示が……通っていない……?)
凪は、ゆっくりと顔を上げた。
まだ少し焦点の合わない瞳。
それでも——
まっすぐに、サクだけを見ていた。
「……サク。」
唇が震えながらも、言葉を紡ぐ。
「……わたし……」
胸の奥から絞り出すような声。
「わたし……サクが好き……」
その一言で——
サクの世界が、音を立てて止まった。
「…………っ」
呼吸が途切れる。
心臓が、一瞬、本当に止まったような錯覚。
(……“血の暗示”よりも……
自分の“好き”を選んだ、だと……?)
腕の中で、凪の手が
必死にサクの服を掴んでいる。
“離れろ”と言い聞かせたはずなのに。
“近づくな”と命じたはずなのに。
そのどれも、凪には届いていない。
届いているのは——
サクへの“好き”という、ただひとつの感情だけ。
サクは、何も言えなかった。
凪の鼓動が、自分の胸元で早鐘を打つ。
自分の鼓動も、それに追いつくように乱れていく。
(……凪……)
この感情が、どれほど危険か。
どれほど禁忌か。
そのすべてを知っているのに——
サクは、その夜、初めて
“吸血鬼としてではなく、
一人の“男”として”
胸を締めつけられていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
サクの世界が止まったはずのその瞬間——
凪の身体が、小さく震えた。
「……凪?」
腕の中で抱きしめているはずの少女が、
ぎゅっとサクの服を掴んだまま、
その指に力をこめた。
そして——
ぽたり。
涙が、サクの胸元に落ちた。
「……っ、凪……?」
「サク……ッ……!」
顔を上げた凪の瞳は、涙で濡れて赤くなっている。
けれど、その奥にははっきりと怒りが宿っていた。
震える声で、でもまっすぐに。
「……サク……暗示なんて……っ……やめてよ……!」
サクの呼吸が止まった。
(——気づいていた……!?)
凪はサクの胸元をぎゅっと掴んだまま、
涙をこぼし、声を震わせて叫んだ。
「嫌なら……!
わたしのこと、嫌いなら……!
自分で離れればいいじゃない……!」
サクの心臓に鋭い痛みが走る。
「凪、違う、私は——」
「違うなら!!」
凪が叫ぶように遮った。
涙で濡れた頬。
怒りと悲しみが混ざった、必死の声。
「やめてほしいなら、ちゃんと言ってよ……!
“もう血は飲まないでほしい”とか……
“近づくな”って、あなたが言えばいい……!」
サクの喉が、声を失う。
凪は震えながら続けた。
「でも……!
でも、サク……わたしの気持ちを……
勝手に縛らないで……!」
胸を押しつけるほど強く抱きしめて、
涙の熱が、サクの首元にぽたぽた落ちる。
「わたしが……サクを好きだって思うことまで……
“近づくな”なんて……命令で消そうとしないで……!」
サクの心臓が、ぐらりと揺らいだ。
(……凪……そんな……)
暗示が効いていなかった理由が、はっきりした。
——“好き”が強すぎて、壊れたのだ。
吸血鬼の術が、人間の感情に負けた。
(……そんなことが……本当に……?)
凪は涙を流しながら、さらに言葉を放つ。
「わたし……サクが好きで……
どうしようもないの……!」
サクの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
凪の手はサクの服を掴んだまま離さない。
涙の中で、揺れながらもまっすぐ。
「サクが嫌なら……
“もう好きにならないで”って言えばいい……!」
サクの瞳が大きく揺れた。
(言えるわけが——ない)
凪は続ける。
「でも……っ……
わたしの気持ちは……サクのものじゃない……」
ぽたり、涙。
「だから……勝手に消さないで……」
サクは言葉を失って動けなかった。
吸血鬼としての本能ではなく、
ただ一人の“男”として——
胸の奥が、焼けるように痛む。
凪は泣きながら息を吸い、震える声で言った。
「……サクが……
わたしのこと……好きじゃなくてもいい……
迷惑でも、重くても、困っても……いい……」
「……凪……」
「でも……わたしの“好き”だけは……
わたしのものなの……!」
涙に濡れた瞳が、まっすぐサクを射抜いた。
「……サクが……
それすら奪おうとするのは……嫌……っ……!」
サクの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
抑えていた感情。
蓋をしていた渇き。
隠していた恋情。
全部——凪の涙に触れた瞬間、溢れ出しそうになる。
「凪……やめろ……そんな顔で言うな……」
声が震えていた。
凪は涙で滲んだまま、サクに縋りつく。
「……サク……サクが好き……
離れたくない……!」
その言葉が、真っ直ぐサクの胸に落ちる。
(……あぁ……もう……)
サクは凪の肩を抱きしめ返し、
押しつけるように胸へ引き寄せた。
凪の涙の熱が、首筋に触れる。
逃げられない。
否定できない。
(……私は……この子が好きだ……
“女”として……心の底から……)
吸血鬼としての禁忌も、
理性も、
戒めも、
すべてが崩れていく。
サクは震える声で、凪の耳元に落とした。
「……凪……っ……
そんなふうに泣かれたら……
もう我慢なんて……できない……」
胸の奥の渇きとは違う、
もっと深く甘い熱が、ふつふつと込み上げていく。
凪が涙で濡れた瞳で見上げる。
「サク……」
サクの指が、凪の頬をそっと拭う。
(もう“離れろ”と言えない……
言えるわけがない……)
サクは凪の頬に触れた指を震わせながら、
ひどく優しい声で囁いた。
「……凪。
君の“好き”を奪うことなんて……できない……」
それは、ほぼ“降伏宣言”だった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
サクは、泣きじゃくる凪をそっと腕の中から離した。
そのままゆっくりと立ち上がり、
深く深く……胸の底まで届くような息をつく。
「……凪。」
サクはソファに腰を下ろし、
膝に肘を置いた姿勢で、しばらく黙った。
いつもの静けさと違う。
何かを決めた大人の男の空気だった。
そして——
「凪。……おいで。」
低く、優しく、逆らえない声。
凪は涙を手の甲で拭い、
少し戸惑いながらもゆっくりサクへ歩み寄った。
サクは凪の腕をそっと取る。
細い手首をふわりと包み込む力が、驚くほど優しい。
そして——そのまま凪を、自分の膝の上に座らせた。
「きゃ……っ」
驚いた声を上げた凪の腰を、サクの片腕がしっかり支える。
「落ち着いて。」
凪の背中に手を添え、安心させるように撫でる。
鼓動が近い。
凪の体温が、サクの胸の上で小さく震えている。
しばらく黙っていたサクが、ぽつりと口を開いた。
「……凪。
私は吸血鬼だ。でも……元を辿れば、人間だった。」
凪の睫毛が震えた。
「……サク……?」
「つまりね。
私は“人間を吸血鬼に変える力”を持ってる。」
凪の身体が、ぴくりと固くなった。
サクはそれを感じ取りながら、穏やかに続けた。
「吸血鬼には……本能がある。
“伴侶”を求めたとき、その相手をこちら側に引き込みたくなるんだ。」
凪はサクを見た。
その目は怯えていたわけじゃない。
不安でも、拒絶でもなかった。
ただ——“サクの言葉の重さ”を受け止めようと必死だった。
サクはそっと凪の髪をかき分ける。
白く細い首筋が露わになる。
そして、凪の首筋へ指先をすべらせた。
す……っと指がなぞるたび、
凪の身体がびくり、と震える。
「ここ。」
サクの声が低く落ちた。
「首の静脈。
ここを吸血鬼が噛めば……人間は吸血鬼になる。」
凪は息を呑む。
サクの指が、脈のある場所をそっと押した。
わずかに跳ね返る温度。
そこには“命”があった。
「……凪。
これが“ヴァンパイアドロップ”。
吸血鬼の本能が“伴侶”に選んだ相手だけに働く、禁忌の行為。」
凪の喉が小さく動く。
サクは続ける。
「普通の吸血とは違う。
血をもらうだけじゃなく……“命”を結びつけてしまう行為なんだ。」
サクは凪をそっと抱き寄せた。
首筋へ添えた指を、最後まで離さず。
まるで——
“ここに牙を立てられる”と無意識に伝えるように。
「……吸えば最後。
凪はもう人間には戻れない。
永遠に生きる身体になる。
私と……同じ側の存在になる。」
凪は震える声で尋ねる。
「……サク。
もし……サクが、わたしを噛んだら……」
「君は、私の“伴侶”になる。」
サクの声は、ひどく静かで……ひどく甘い。
凪の胸が早く打つ。
「……でも私は……そんなこと……」
サクは、凪の両頬を優しく包み込んだ。
赤黒い瞳が、ほんのわずかに揺れている。
「……凪。
私が今、どれだけ君の首を噛みたかったか……わかる?」
凪の肩が震える。
サクの指先が、凪の首筋に添えられたまま動かない。
「血の匂いじゃない。
本能じゃない。
……君を“手放したくない”って……身体ごと求めてしまう。」
凪の頬が赤く染まっていく。
「サク……」
「でも——」
サクの腕が、凪の腰をぎゅっと抱き寄せた。
「これをしたら……君の人生を奪う。
君の未来を奪い、君の命を私に縛りつける。」
「……そんな……」
サクは凪の額に自分の額を重ねた。
吐息が混ざる距離。
「だから……凪。
私は君を噛めない。」
その声は、苦しげで、切なくて、
それでも“誰よりも凪を想っている”と伝わる声音だった。
嵐はとっくに去り、
山道も少しずつ復旧に向かっているらしい。
けれど、この家の中だけは——
別の“嵐”が、静かに続いていた。
サクの“食事”という名の時間。
*
「……サク。今日は、どこがいいですか?」
夕食の食器を片付け終え、
凪はいつものように、当たり前の顔でそう言った。
(“どこがいいですか”って……)
サクは思わずこめかみを押さえたくなる。
「……凪。そういう言い方をするものじゃない。」
「え、あ、ごめんなさい……。
でも……サクがいちばん楽なところで……。」
まっすぐな眼差し。
どこにも打算のない声。
“ここにいる間は、私を食事にしてほしいの”。
あの日、凪が言った言葉を、
サクはまだうまく飲み込めずにいた。
(……決めた女は、強いっていうが……本当だな……)
一度決めたら、退かない。
「やめろ」と言っても、
「サクが困るなら、やめますけど」と、こちらに選択肢を押し返してくる。
結局、折れるのはいつもサクのほうだった。
「……今日は、手でいい。」
「指先……ですか?」
凪が椅子に腰掛け、テーブルの向こうからそっと手を差し出す。
白くて細い指。
爪もきちんと整えられていて、
香水屋の仕事柄か、ほんのりいい香りがした。
サクは小さく息をつく。
「……少しだけでいい。無理はさせない」
「うん……大丈夫です。」
凪は、迷いなく頷いた。
(……どうして、そんな顔で……)
まるで“ただの家事の一つ”みたいに。
そのくせ、かすかに頬は赤いのだ。
サクは凪の手を取った。
指先に唇を寄せる。
カチリ、と牙が伸びる音が、まだ耳に微かに響いている気がする。
「っ……」
軽く皮膚を裂く感触。
かすかな血の匂い。
サクは、自分の喉が先に鳴りそうになるのを必死に抑えた。
(……落ち着け。これは“食事”だ。……ただの行為だ。)
……だが。
凪の血が舌に触れた瞬間、理性が軋んだ。
(……っ……やっぱり……おかしいだろ、これは……)
甘い。
温かい。
深い。
ただ飢えを誤魔化すための液体じゃない。
喉を通るたび、胸の奥の“別の渇き”まで満たそうとしてくる。
凪の指が、かすかに震えた。
「……い、痛くないですよ……」
強がるように笑う声。
でも、その指先には緊張がしっかり伝わってくる。
サクは、わざと動きをゆっくりにした。
(……怖くないと、思わせたいくせに……
これじゃ、余計に……)
舌先で血をすくい、傷口に触れないよう注意しながら舐めとっていく。
それだけなのに——
凪の肩が、びくりと揺れた。
「……っ……」
「……痛むか?」
唇を離して問えば、
凪はぶんぶんと首を振る。
「い、いえ……その……なんか……
くすぐったい、というか……変な感じで……」
耳まで赤い。
(……“変な感じ”って……)
サクは思わず視線を逸らした。
「……ごめん。」
「謝らないでください……。
サクが……少しでも楽になるなら、それで……」
凪は、そっと微笑んだ。
その笑顔が——
致命的だった。
(……あぁ……)
胸の奥に落ちる“何か”の音がした。
ただの“食事”じゃない。
ただの“血”じゃない。
この子は、自分の血を
“サクの役に立てる”ことが嬉しそうで。
傷を塞ぐため、サクは最後にそっと指先へ唇を落とす。
キスにも似た、短い触れ方。
「っ……!」
凪の身体がびくんと跳ねた。
「……これで、もう痛くない。」
「は、はい……っ」
凪の声は、すっかり上擦っていた。
(……余計なことをしたか……?)
思いながらも、サクの胸の奥は、
その反応にひどく甘い痛みを覚えていた。
(……どうして私は……
この子を“守る”以外のことでこんなにも揺らいでいる……?)
それからも、日々の暮らしの中で
“食事”の時間は静かに積み重なっていく。
朝は普通に挨拶をして、
一緒に朝食をとり、
凪は店の準備に向かい、サクは半地下で仕事を片付ける。
そして、夜。
店を閉め、片付けが終わると——
「……今日も、ちゃんと食べてくださいね。」
凪がさりげなく近づいてくる。
手首を差し出す日もあれば、
指先の日もある。
ある日は、腕の内側。
「ここの方が、たぶん……吸いやすいですよね……?」
そんなことまで気遣って、
まっすぐな瞳で見上げてくる。
(……やめろ。そんな顔をするな。)
サクは、心の中だけで頭を抱える。
本能は、凪の血を求める。
けれど——
心のどこか別の場所は、
凪の“善意”そのものに溺れそうだった。
「……サク。」
ある夜、血を吸い終えたあと、
凪がぽつりと名前を呼んだ。
「……何だ。」
「……あの、もし……サクが……
私以外の誰かの血を飲むようになっても……」
そこで言葉が少し震える。
「……そうなっても、仕方ないって、わかってるんです。
私がここを出たら、サクはまた別の“食事”を——」
サクの胸に、チクリと棘が刺さった。
「……凪。」
「……でも。」
凪は、拳をぎゅっと握る。
「ここにいる間くらいは……
サクの“いちばん近く”で、サクの役に立ちたいんです。」
(……あぁ。)
悟ってしまう。
(もう、この子は……
“好き”を、認めてしまっているんだな。)
本人の口からはまだ言葉になっていない。
けれど、その瞳も、声も、仕草も——
全部が、物語ってしまっている。
「……凪。」
サクは、思わずその頭を抱き寄せた。
もふ、と髪が腕の中に収まる。
体温が伝わる。
小さな肩が、自分の胸元で少し震える。
「……サク……?」
「……私は、君の“取引”に甘えているだけだ。」
それ以上を、口にする勇気はない。
(……認めたら、終わりだ。
私は吸血鬼で、君は人間で……)
それでも——
凪の髪に指を滑らせる手は、
ひどく愛おしげだった。
(決めた女に……
“男”が抗えるはずがない、か……)
サクは自嘲気味に笑う。
(抗うどころか……もう、とっくに沈んでいる。)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
──その夜は、いつもより静かだった。
風もほとんどない。
雨も降っていない。
ただ、家の中の時計の音と、
凪の心臓の鼓動だけが、妙に大きく聞こえる。
(……なんで、こんなに……ドキドキしてるんだろ……)
凪は、自分の胸に手を当てた。
さっき、サクに血をあげたばかり。
今日は手首からだった。
「……少し、多くないか?」
と心配されて、
「大丈夫です」と笑ってみせた。
傷はもう塞がっている。
痛みもない。
……でも。
(サクが……さっき、手首を持ったとき……)
まるで壊れ物を扱うみたいに
丁寧で、優しい指先だった。
唇が触れたところが、
まだ熱を持っている気がする。
「……はぁ……」
自分の“好き”を、ようやく認めてしまった今、
その一つひとつが、全部“特別な意味”を持ってしまう。
(……サクが、私を“食べやすいように”……
って思ってたのに……)
胸の奥がぎゅうっとなる。
(本当は……違う。
ただ、近くにいたくて。
サクに触れてほしくて。
サクが、私のことを必要としてくれるのが……うれしくて……)
「……最低だな、私……」
苦笑しながらも、
凪の足は自然と半地下へ向かっていた。
──その頃、半地下では。
サクが、机に両肘をつき、こめかみを押さえていた。
(……限界、が近いな……)
凪の血は、空腹を癒す。
けれど同時に、
別の飢えを育てていく。
「……ディープブラッド……」
ぽつりと、サクは呟いた。
(吸血鬼を生む“首筋”へのキス。
静脈からの吸血——ヴァンパイアドロップ。)
それは吸血鬼の世界で、もっとも禁じられた行為の一つだ。
ただ血を飲むためだけなら、動脈で十分。
けれど、首の静脈から吸うと——
血を媒介に、命まで絡み取ってしまう。
(……傀儡ではない。
永遠に、こちら側に引きずり込むキスだ……)
さっき、凪の手首に唇を寄せたとき——
ふと、視線が滑った。
手首から、腕。
首筋へ。
少し髪をかき分ければ見えるであろう、白いうなじ。
「……っ」
サクは自分の喉を押さえた。
(近づくな。そこを見てはいけない。)
わかっているのに、目が離せなくなる瞬間がある。
凪が笑ったとき。
振り向いたとき。
髪をまとめ上げたとき。
ふわりと露わになる首筋。
そこを流れる静脈の鼓動。
(噛みたい。)
本能が囁く。
(そこに牙を立てて。
血を、全部、自分のものにしてしまえ、と。)
「……馬鹿か、私は。」
サクは笑おうとして、笑えなかった。
(あれをしたら終わりだ。
凪は人間ではいられなくなる。
“私の”吸血鬼として、この先ずっと……)
そこまで想像した瞬間、
胸が甘く、痛く締め付けられる。
(……心のどこかで、それを望んでいる自分までいるから……
質が悪い……)
コンコン。
控えめなノックの音。
「……サク?」
凪の声が、扉越しに落ちてきた。
サクの心臓が、一拍遅れて跳ねる。
「……どうぞ。」
扉が開く。
ふわりと、凪の香りが流れ込んできた。
「さっきは、ありがとうございました。」
いつも通り、少しだけ照れた笑顔。
けれど、その頬はさっきより赤い。
(……来るな。)
心の中で、そう叫ぶ。
口に出せないのは、
それを言えば、本当に遠ざけることになるからだ。
「……具合はどうだ?」
「元気です。サクこそ……顔色、少し悪くないですか?」
凪が心配そうに近づく。
一歩。
また一歩。
(やめろ。)
サクは無意識に後ずさった。
「さ、サク?」
背中が、壁に当たる。
逃げ場がなくなる。
「……凪。」
サクは低く名前を呼んだ。
「はい……?」
凪は、すぐ目の前まで来てしまっている。
顔を上げれば、首筋が、はっきり見える距離。
白い肌。
かすかに浮かぶ血管。
そこに指を滑らせれば、脈が、きっと触れる。
喉が鳴った。
(……あぁ、もう……だめだ。)
「凪。」
呼ぶ声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「……サク?」
凪が少し不安そうに眉を寄せる。
(この子は、知らない。
今、私は君の首筋しか見ていないことを。)
視線が吸い寄せられる。
牙が疼く。
“ここに牙を立てろ”。
“噛めば、お前だけのものだ”。
“ヴァンパイアドロップを”。
(……うるさい。)
サクは、自分の本能に歯噛みした。
(もうこれ以上は、危険すぎる……)
ディープブラッド。
吸血鬼殺し。
その血を、ヴァンパイアドロップで繋いでしまったら——
何が起きるか、誰にもわからない。
(……だから、もう……終わらせるしかない。)
凪を、これ以上、自分の渇きに巻き込まないために。
サクは、ゆっくりと凪に手を伸ばした。
「さ、サク……?」
「……凪。少し……目を閉じてくれ。」
「え……? ど、どうして……」
「いいから。」
低い声に、凪は戸惑いながらも、素直にまぶたを閉じる。
その瞬間——
サクは、自分の指先に爪を立てた。
ちくり、とした痛み。
赤い血が滲む。
それを悟られないよう、一歩詰める。
「……サク?」
凪の唇が、かすかに震える。
息がかかる距離。
(……ごめん、凪。)
心の中で小さく呟きながら、
サクは、そっと自分の指を凪の唇へ当てた。
「っ……」
冷たい感触に、凪の肩が小さく跳ねる。
じわり、と滲んだ血が、
唇の隙間から凪の口内へ流れ込む。
鉄のような味。
それでも、どこか甘い香りの混ざった血。
サクの血。
「さ、サク……?」
凪が目を開けようとした瞬間——
「……凪。」
サクの赤黒い瞳が、夜の闇より深く光った。
低く、囁くような声。
「凪、ダメだ。……もう私に、近づくな。」
その言葉には、吸血鬼の“血の暗示”が込められていた。
自分の血を飲ませ、命令を流し込む。
それは、彼らにとって簡単な術。
人間に“忘れろ”“離れろ”と言い聞かせるための、半ば反則のような方法。
(これで、君は……私から離れられる。)
胸が千切れるように痛む。
(あぁ。認めよう……)
サクは、固く目を閉じた。
(私は凪が好きなのだ。“女”として。
凪の笑顔も、声も、血の匂いも、全部。
だが、これは……許されない感情だ……)
吸血鬼が、人間の女を“好き”になる。
それだけならまだいい。
けれど、ディープブラッドを持つ少女を
自分の渇きで縛りつけることは、罪だ。
(だから、これでいい。
君は、いつか安全な場所で——普通の人生を——)
そのとき。
凪の身体から、ふっと力が抜けた。
「……っ!」
咄嗟に抱きとめる。
腕の中に、柔らかな重みが落ちてくる。
「……さようなら、凪。……ありがとう。」
心の中で、そっと別れを告げた。
それだけで終わるはずだった。
——ぎゅっ。
サクの服の裾を、小さな指が掴んだ。
「……え……?」
腕の中の凪が、かすかに動く。
(効いていない……? いや、そんなはずは——)
「……サク……」
か細い声。
サクの名前を、呼んだ。
ふわりと香る、いつもの凪の匂い。
肌の温度。
鼓動。
その全部が、サクの理性を貫いた。
「な……んで?」
喉が震える。
(暗示が……通っていない……?)
凪は、ゆっくりと顔を上げた。
まだ少し焦点の合わない瞳。
それでも——
まっすぐに、サクだけを見ていた。
「……サク。」
唇が震えながらも、言葉を紡ぐ。
「……わたし……」
胸の奥から絞り出すような声。
「わたし……サクが好き……」
その一言で——
サクの世界が、音を立てて止まった。
「…………っ」
呼吸が途切れる。
心臓が、一瞬、本当に止まったような錯覚。
(……“血の暗示”よりも……
自分の“好き”を選んだ、だと……?)
腕の中で、凪の手が
必死にサクの服を掴んでいる。
“離れろ”と言い聞かせたはずなのに。
“近づくな”と命じたはずなのに。
そのどれも、凪には届いていない。
届いているのは——
サクへの“好き”という、ただひとつの感情だけ。
サクは、何も言えなかった。
凪の鼓動が、自分の胸元で早鐘を打つ。
自分の鼓動も、それに追いつくように乱れていく。
(……凪……)
この感情が、どれほど危険か。
どれほど禁忌か。
そのすべてを知っているのに——
サクは、その夜、初めて
“吸血鬼としてではなく、
一人の“男”として”
胸を締めつけられていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
サクの世界が止まったはずのその瞬間——
凪の身体が、小さく震えた。
「……凪?」
腕の中で抱きしめているはずの少女が、
ぎゅっとサクの服を掴んだまま、
その指に力をこめた。
そして——
ぽたり。
涙が、サクの胸元に落ちた。
「……っ、凪……?」
「サク……ッ……!」
顔を上げた凪の瞳は、涙で濡れて赤くなっている。
けれど、その奥にははっきりと怒りが宿っていた。
震える声で、でもまっすぐに。
「……サク……暗示なんて……っ……やめてよ……!」
サクの呼吸が止まった。
(——気づいていた……!?)
凪はサクの胸元をぎゅっと掴んだまま、
涙をこぼし、声を震わせて叫んだ。
「嫌なら……!
わたしのこと、嫌いなら……!
自分で離れればいいじゃない……!」
サクの心臓に鋭い痛みが走る。
「凪、違う、私は——」
「違うなら!!」
凪が叫ぶように遮った。
涙で濡れた頬。
怒りと悲しみが混ざった、必死の声。
「やめてほしいなら、ちゃんと言ってよ……!
“もう血は飲まないでほしい”とか……
“近づくな”って、あなたが言えばいい……!」
サクの喉が、声を失う。
凪は震えながら続けた。
「でも……!
でも、サク……わたしの気持ちを……
勝手に縛らないで……!」
胸を押しつけるほど強く抱きしめて、
涙の熱が、サクの首元にぽたぽた落ちる。
「わたしが……サクを好きだって思うことまで……
“近づくな”なんて……命令で消そうとしないで……!」
サクの心臓が、ぐらりと揺らいだ。
(……凪……そんな……)
暗示が効いていなかった理由が、はっきりした。
——“好き”が強すぎて、壊れたのだ。
吸血鬼の術が、人間の感情に負けた。
(……そんなことが……本当に……?)
凪は涙を流しながら、さらに言葉を放つ。
「わたし……サクが好きで……
どうしようもないの……!」
サクの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
凪の手はサクの服を掴んだまま離さない。
涙の中で、揺れながらもまっすぐ。
「サクが嫌なら……
“もう好きにならないで”って言えばいい……!」
サクの瞳が大きく揺れた。
(言えるわけが——ない)
凪は続ける。
「でも……っ……
わたしの気持ちは……サクのものじゃない……」
ぽたり、涙。
「だから……勝手に消さないで……」
サクは言葉を失って動けなかった。
吸血鬼としての本能ではなく、
ただ一人の“男”として——
胸の奥が、焼けるように痛む。
凪は泣きながら息を吸い、震える声で言った。
「……サクが……
わたしのこと……好きじゃなくてもいい……
迷惑でも、重くても、困っても……いい……」
「……凪……」
「でも……わたしの“好き”だけは……
わたしのものなの……!」
涙に濡れた瞳が、まっすぐサクを射抜いた。
「……サクが……
それすら奪おうとするのは……嫌……っ……!」
サクの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
抑えていた感情。
蓋をしていた渇き。
隠していた恋情。
全部——凪の涙に触れた瞬間、溢れ出しそうになる。
「凪……やめろ……そんな顔で言うな……」
声が震えていた。
凪は涙で滲んだまま、サクに縋りつく。
「……サク……サクが好き……
離れたくない……!」
その言葉が、真っ直ぐサクの胸に落ちる。
(……あぁ……もう……)
サクは凪の肩を抱きしめ返し、
押しつけるように胸へ引き寄せた。
凪の涙の熱が、首筋に触れる。
逃げられない。
否定できない。
(……私は……この子が好きだ……
“女”として……心の底から……)
吸血鬼としての禁忌も、
理性も、
戒めも、
すべてが崩れていく。
サクは震える声で、凪の耳元に落とした。
「……凪……っ……
そんなふうに泣かれたら……
もう我慢なんて……できない……」
胸の奥の渇きとは違う、
もっと深く甘い熱が、ふつふつと込み上げていく。
凪が涙で濡れた瞳で見上げる。
「サク……」
サクの指が、凪の頬をそっと拭う。
(もう“離れろ”と言えない……
言えるわけがない……)
サクは凪の頬に触れた指を震わせながら、
ひどく優しい声で囁いた。
「……凪。
君の“好き”を奪うことなんて……できない……」
それは、ほぼ“降伏宣言”だった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
サクは、泣きじゃくる凪をそっと腕の中から離した。
そのままゆっくりと立ち上がり、
深く深く……胸の底まで届くような息をつく。
「……凪。」
サクはソファに腰を下ろし、
膝に肘を置いた姿勢で、しばらく黙った。
いつもの静けさと違う。
何かを決めた大人の男の空気だった。
そして——
「凪。……おいで。」
低く、優しく、逆らえない声。
凪は涙を手の甲で拭い、
少し戸惑いながらもゆっくりサクへ歩み寄った。
サクは凪の腕をそっと取る。
細い手首をふわりと包み込む力が、驚くほど優しい。
そして——そのまま凪を、自分の膝の上に座らせた。
「きゃ……っ」
驚いた声を上げた凪の腰を、サクの片腕がしっかり支える。
「落ち着いて。」
凪の背中に手を添え、安心させるように撫でる。
鼓動が近い。
凪の体温が、サクの胸の上で小さく震えている。
しばらく黙っていたサクが、ぽつりと口を開いた。
「……凪。
私は吸血鬼だ。でも……元を辿れば、人間だった。」
凪の睫毛が震えた。
「……サク……?」
「つまりね。
私は“人間を吸血鬼に変える力”を持ってる。」
凪の身体が、ぴくりと固くなった。
サクはそれを感じ取りながら、穏やかに続けた。
「吸血鬼には……本能がある。
“伴侶”を求めたとき、その相手をこちら側に引き込みたくなるんだ。」
凪はサクを見た。
その目は怯えていたわけじゃない。
不安でも、拒絶でもなかった。
ただ——“サクの言葉の重さ”を受け止めようと必死だった。
サクはそっと凪の髪をかき分ける。
白く細い首筋が露わになる。
そして、凪の首筋へ指先をすべらせた。
す……っと指がなぞるたび、
凪の身体がびくり、と震える。
「ここ。」
サクの声が低く落ちた。
「首の静脈。
ここを吸血鬼が噛めば……人間は吸血鬼になる。」
凪は息を呑む。
サクの指が、脈のある場所をそっと押した。
わずかに跳ね返る温度。
そこには“命”があった。
「……凪。
これが“ヴァンパイアドロップ”。
吸血鬼の本能が“伴侶”に選んだ相手だけに働く、禁忌の行為。」
凪の喉が小さく動く。
サクは続ける。
「普通の吸血とは違う。
血をもらうだけじゃなく……“命”を結びつけてしまう行為なんだ。」
サクは凪をそっと抱き寄せた。
首筋へ添えた指を、最後まで離さず。
まるで——
“ここに牙を立てられる”と無意識に伝えるように。
「……吸えば最後。
凪はもう人間には戻れない。
永遠に生きる身体になる。
私と……同じ側の存在になる。」
凪は震える声で尋ねる。
「……サク。
もし……サクが、わたしを噛んだら……」
「君は、私の“伴侶”になる。」
サクの声は、ひどく静かで……ひどく甘い。
凪の胸が早く打つ。
「……でも私は……そんなこと……」
サクは、凪の両頬を優しく包み込んだ。
赤黒い瞳が、ほんのわずかに揺れている。
「……凪。
私が今、どれだけ君の首を噛みたかったか……わかる?」
凪の肩が震える。
サクの指先が、凪の首筋に添えられたまま動かない。
「血の匂いじゃない。
本能じゃない。
……君を“手放したくない”って……身体ごと求めてしまう。」
凪の頬が赤く染まっていく。
「サク……」
「でも——」
サクの腕が、凪の腰をぎゅっと抱き寄せた。
「これをしたら……君の人生を奪う。
君の未来を奪い、君の命を私に縛りつける。」
「……そんな……」
サクは凪の額に自分の額を重ねた。
吐息が混ざる距離。
「だから……凪。
私は君を噛めない。」
その声は、苦しげで、切なくて、
それでも“誰よりも凪を想っている”と伝わる声音だった。
0
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