DEEP BLOOD

SAKU

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第十話

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サクは凪の輪郭をそっとなぞるように指を動かした。
深く息を吸うと、その瞳に静かな決意が宿る。

「……ならば、始まりの話をしよう。」

凪はまばたきをし、少し身を乗り出す。

「始まり……?」

「私が化け物になった始まりだよ。」

凪の胸がかすかに鳴る。
サクは苦しげに微笑んだ。どこか懐かしさの混じるそれは、
長い年月を越え、閉ざしていた記憶の扉を開く合図だった。

「……私の名前が“サクヤ”だと言うのは、伝えたね?」

「えぇ。山間の村で生まれたことも……」

サクは小さくうなずき、視線を落とす。

「うん。でもね、日本での記憶は本当にそれだけなんだ。」

言葉とともに、空気がゆっくりと沈む。

サクの声が、遠い過去へ凪を連れていく。

 

――145年前。
乾いた風が吹き抜ける、中東・オスマン帝国の地。

「とぉちゃん……? かあちゃん……?」

小さな声が砂埃にかき消される。
サクヤ――当時5歳の少年は、見知らぬ世界に放り出されていた。

目の前には知らない人々。
耳に飛び込むのは聞いたことのない言語。

足には鉄の拘束具。
逃げることすら許されない。

不安で胸が締めつけられ、
サクヤはぐずりながら呟いた。

「……ふぇぇ……」

そのときだった。
「Bunu alacağım.」
(こいつは私が引き取ろう)

「Ne kadar?」
(いくらだ?)

濁った市場の喧騒の中、
ひとりの男がサクヤの前に歩み出た。

顔立ちは異国の血を感じさせるのに、
その目だけが不思議なほど優しかった。

「ボウズ。日本人だな? 話せるか?」

サクヤは涙の跡を残しながら、小さくうなずいた。

「……は、い……」

それが――
ウルドとの出会いだった。

 

ウルドはサクヤを“買った”のではなく、
誰にも奪わせないために引き取ったのだと、後になって分かる。

それからの生活は、孤独ではあったが、悲惨ではなかった。

ウルドは父のようだった。

文字を教え、言葉を教え、
世界の広さを教え、
生きていくために必要な技をすべて与えてくれた。

叱るときも、抱くときも、
ウルドはいつだってサクヤの“帰る場所”だった。

そして、20歳になったある日。

夕暮れの光の中で、ウルドは静かに言った。

「サクヤ……お前はもう、ひとりで大丈夫だな?」

サクヤは微笑んだ。
その笑みには、幼い頃にはなかった自信があった。

「ウルド。……色々ありがとう。
 大丈夫だよ。もう一人で生きていける。」

ウルドは何も言わず眉を下げ、
ただ深くうなずいた。

まるで、子が家を出るのを見送る父のように。

***

――それから数年後。
サクヤは突然、激しい咳に襲われた。

最初は風邪だと思った。
だがすぐに血が混じり、呼吸も苦しい。

医師の言葉は冷たかった。

「……結核だ。」

体は弱り、熱にうなされ、
夜明けを迎えるたびに命が削れていくのが分かった。

友はいない。
帰る家もない。
ウルドも、どこにいるのか分からない。

死が近づいていることだけが確かで。

(……もう……終わるのか……
 ウルド……どこ……)

薄れる意識の中、
足音が近づいた。

「サクヤ。」

懐かしい声だった。

サクヤは震える手で顔を上げた。

「……ウルド……?」

そこには20歳で別れたあの日から変わらないウルドがいた。

サクヤは混乱しながら掠れた声を絞る。

「どう……して……
 そんな姿で……」

ウルドは震えるサクヤの手を取った。

「サクヤ。……生きたいか?」

問いかけはあまりに静かで、
それでいて逃れられないほど重かった。

サクヤは涙を流し、必死にうなずいた。

「……いきたい……
 死にたく……ない……!」

ウルドは胸の奥で何かを決めたように目を閉じた。

そして囁いた。

「ならば――生きるがいい。」

次の瞬間。
熱と痛みはなく、
ただ甘く深い“夜の気配”が首筋を満たした。

世界が揺らぎ、
遠のき、
やがて光が途切れた。

サクヤは死に、
吸血鬼“サクヤ”が生まれた。

 

それからの20年。
ウルドは吸血鬼としての生き方をすべて教えた。

人を襲わずに血を得る術。
理性の保ち方。
夜での歩き方。
自分を怪物にしないための知恵。

「……誇りを捨てるな、サクヤ。」

その言葉を、サクヤは胸に刻んだ。

しかし、平穏は長く続かなかった。

暴走した吸血鬼たちが人を殺し、
恐怖が帝国全土を覆った。

軍は吸血鬼狩りを始め、
仲間は次々と殺されていった。

そして、夜明け前。

「ウルド……来る、軍が……!」

逃げ場はない。

日の出は刻一刻と迫っている。

ウルドはサクヤを見つめた。
その目は静かな覚悟に満ちていた。

「サクヤ。……行きなさい。」

「何言ってるんだ! 一緒に逃げよう!」

ウルドは首を振った。

「私はもう十分に生きた。
 もう……死にたいんだ。」

サクヤは叫ぶ。

「やめろウルド! そんなこと――!」

ウルドは、父の顔で微笑んだ。

「最後くらい……父として息子を守らせてくれ。」

日の光が差し込み、
ウルドの肌が焼け始めた。

「ウルド――!!」

ウルドはサクヤの手に銀のリングを握らせた。
古い刻印が、朝日に小さく輝く。

「サクヤ。……私の息子でいてくれて……ありがとう。」

「いやだ……行くな……!」

ウルドは最後の言葉を残す。

「さが……なさい……
 ディープ…ブラッド……」

光がウルドを飲み込む。

燃え上がる炎の中で、
サクヤの身体も焼けはじめる。

「ウルド!!
 父さん!!
 父さぁぁぁん!!」

その叫びだけが、
朝の空に取り残された。

 

――サクはゆっくりと目を開いた。

記憶の奥に沈んだ悲しみを、
凪の前で初めて言葉にした。

止まった時間。
奪われた父。
背負ってきた苦しみ。

全てがそこにあった。

サクの声は震えていた。

「……これが私の始まりだよ、凪。」

凪は何も言えず、
ただ涙をこぼしながらサクの手を包んだ。

サクの時間は、
その日――二十五歳で止まったままなのだ。

ふたりを包む沈黙は、
痛みと、
優しさと、
これから変わっていく未来の気配で満ちていた。 
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