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第十七話
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朝の光がやわらかく差し込むキッチン。
サクはエプロンもつけず、無駄のない動きでフライパンを返していた。
火を操る姿があまりにも自然で——
“吸血鬼の朝”という現実を、凪に忘れさせるほどだった。
(……なんでサクがこんな普通に料理してるの……?)
サクは火を弱めると、振り返りながら言った。
「凪、口を開けて。」
「ん……」
凪が小さく口を開けると、サクのスプーンがそっと運ばれてくる。
「美味しい?」
「……うん。おいし……っ」
言い終えるより早く、
サクの腕が凪の腰をふわりと包んだ。
抱き寄せたまま、離れる気配がない。
(ちょっ……! なんでそんな自然に抱くの……!?)
「サ、サク……味見でお腹いっぱいになっちゃうよ……」
「いっぱいなのは“胸”だろう?」
軽く胸元をつつかれ、凪の顔は一瞬で真っ赤に染まった。
「サクっ……!」
ふっと微笑むその表情は、どこまでも余裕で、どこまでも甘い。
「凪が美味しそうに食べるから、つい。」
「つ、ついって……何それ……」
サクは視線を落とし、静かに言った。
「……嬉しいんだよ。
君が食べる姿を見るのが。
大事に扱っている感じがして……好きなんだ。」
凪の胸が跳ね、呼吸が止まりかける。
少しうつむきながら、凪はそっと呟いた。
「じゃあ……わたしにも食べさせて。
サクに……してみたい。」
サクはわずかに目を見開き、すぐに柔らかな笑みをこぼす。
「……凪が、私に?」
「……うん。」
「ふふ……それは楽しみだ。」
──その時だった。
朝の光がサクの手元を照らし、
親指の指輪の刻印がきらりと光った。
ウルドの形見。
装飾を嫌うサクが、唯一外さない指輪。
(……あ……この模様……)
胸の奥がざわり、と波立つ。
確かにどこかで見た——
けれど記憶の底に霧がかかるように、思い出せない。
「ねぇ……サク。
その指輪……少し見せて?」
サクは素直に手を差し出した。
「これかい? 外さなくていいのか?」
「うん。つけたままで。」
凪はそっとサクの手を包み、刻印を見つめる。
理由のないざわめきが胸を撫でた。
その揺れを感じ取ったのか、サクは静かに口を開いた。
「……料理の話の続きだがね。」
凪は顔を上げる。
サクは遠くを見るように言った。
「人間だった頃、私はずっと自炊をしていた。
質素で、特別美味しいわけでもなかったが……
“温かい食事”には救われていた。」
凪は息をのみ、耳を澄ませる。
「吸血鬼になってからも、ウルドとよく食べた。
薄いスープ、焦げたパン、辛すぎてむせたソースもあった。」
懐かしげな笑み。
「美味しいとは言えなかったが……
どれも“生きていた時間”だった。」
凪の胸がじん、と熱を帯びる。
サクは続けた。
「だから私は、必要なくても食べる。
あの時間を忘れたくないから。」
そして凪の瞳をまっすぐ見つめた。
「……今は、もっと理由ができた。」
「え……?」
サクは凪の指先をそっと持ち上げ、
その爪へ触れるだけの軽いキスを落とした。
「凪と同じものを食べられるのが……嬉しい。
“美味しいね”って言い合えるだけで、
私は少しだけ……人間に戻れる気がする。」
凪の目に熱がにじむ。
サクは凪の頬に手を添え、静かに抱き寄せた。
「だから、凪。
君に食べてもらう料理は……私にとって特別なんだ。」
凪は胸がいっぱいになって、小さく息を吸った。
「……じゃぁ……サク……」
凪は勇気を出して言った。
「……わたしが作ったものも……サク、覚えててくれる……?」
サクは一瞬で動きを止めた。
深紅の瞳が、凪の不安をまるごと受け止める。
「……凪。」
そっと頬に触れ、距離を縮める。
「忘れるわけがないだろう。」
その声はあたたかく、少しだけ切なかった。
「君が作ったものなら、全部覚えている。
味も、香りも、温度も……
“君が横にいた時間”ごと大事にしている。」
凪は胸の奥がじんじんして、視線を落とす。
サクは凪の手を取り、甲へ優しくキスを落とした。
「だからまた作ってくれ。
私は何度でも覚えるよ。
君の味を——凪との時間を。」
凪の胸が熱く震えた。
少し息を整えてから、凪は小さくファイルを取り出し、
サクの前に置いた。
コトリ、と音がした。
サクが不思議そうに目を瞬かせる。
「……凪?」
凪はファイルを指先でなぞりながら、静かに言った。
「これ……お母さんのレシピなの。
私が作る料理は、全部“母の味”なんだ。」
サクの瞳が揺れる。
凪は続けた。
「小さい頃にお母さんを亡くしてね……
すごく寂しくて……忘れてしまいそうで……」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でも、押し入れからこのレシピを見つけて……
作ってみたらね、お母さんの味だったの。」
声が震える。
「その時、あぁ……お母さんは“居たんだ”って。
私の中に、ちゃんと生きてたんだって。
そう思えたの。」
サクは静かに、凪のすべてを受け止めるように聞いている。
凪は胸に手を当て、小さく微笑んだ。
「だから……わたしの料理は、お母さんが生きてた証で。
それをサクが覚えててくれるの……すごく嬉しいの。」
サクはそっと息を吸い、凪の手を包んだ。
「……凪。」
声がかすかに震えている。
「そんな大切な味を……私は忘れない。
君のためでも、君のお母さんのためでもある。」
凪の瞳が大きく揺れる。
サクは凪の指にもう一度キスを落とし、囁く。
「君が大事にしているものは……全部覚えているよ。」
堪えきれず、凪はサクの胸にそっと顔を押しつけた。
サクの腕がふわりと凪を包む。
優しくて、あたたかくて、
そしてなにより——二人の過去が重なり合う抱擁。
それは“朝の光よりも柔らかい時間”だった。
サクはエプロンもつけず、無駄のない動きでフライパンを返していた。
火を操る姿があまりにも自然で——
“吸血鬼の朝”という現実を、凪に忘れさせるほどだった。
(……なんでサクがこんな普通に料理してるの……?)
サクは火を弱めると、振り返りながら言った。
「凪、口を開けて。」
「ん……」
凪が小さく口を開けると、サクのスプーンがそっと運ばれてくる。
「美味しい?」
「……うん。おいし……っ」
言い終えるより早く、
サクの腕が凪の腰をふわりと包んだ。
抱き寄せたまま、離れる気配がない。
(ちょっ……! なんでそんな自然に抱くの……!?)
「サ、サク……味見でお腹いっぱいになっちゃうよ……」
「いっぱいなのは“胸”だろう?」
軽く胸元をつつかれ、凪の顔は一瞬で真っ赤に染まった。
「サクっ……!」
ふっと微笑むその表情は、どこまでも余裕で、どこまでも甘い。
「凪が美味しそうに食べるから、つい。」
「つ、ついって……何それ……」
サクは視線を落とし、静かに言った。
「……嬉しいんだよ。
君が食べる姿を見るのが。
大事に扱っている感じがして……好きなんだ。」
凪の胸が跳ね、呼吸が止まりかける。
少しうつむきながら、凪はそっと呟いた。
「じゃあ……わたしにも食べさせて。
サクに……してみたい。」
サクはわずかに目を見開き、すぐに柔らかな笑みをこぼす。
「……凪が、私に?」
「……うん。」
「ふふ……それは楽しみだ。」
──その時だった。
朝の光がサクの手元を照らし、
親指の指輪の刻印がきらりと光った。
ウルドの形見。
装飾を嫌うサクが、唯一外さない指輪。
(……あ……この模様……)
胸の奥がざわり、と波立つ。
確かにどこかで見た——
けれど記憶の底に霧がかかるように、思い出せない。
「ねぇ……サク。
その指輪……少し見せて?」
サクは素直に手を差し出した。
「これかい? 外さなくていいのか?」
「うん。つけたままで。」
凪はそっとサクの手を包み、刻印を見つめる。
理由のないざわめきが胸を撫でた。
その揺れを感じ取ったのか、サクは静かに口を開いた。
「……料理の話の続きだがね。」
凪は顔を上げる。
サクは遠くを見るように言った。
「人間だった頃、私はずっと自炊をしていた。
質素で、特別美味しいわけでもなかったが……
“温かい食事”には救われていた。」
凪は息をのみ、耳を澄ませる。
「吸血鬼になってからも、ウルドとよく食べた。
薄いスープ、焦げたパン、辛すぎてむせたソースもあった。」
懐かしげな笑み。
「美味しいとは言えなかったが……
どれも“生きていた時間”だった。」
凪の胸がじん、と熱を帯びる。
サクは続けた。
「だから私は、必要なくても食べる。
あの時間を忘れたくないから。」
そして凪の瞳をまっすぐ見つめた。
「……今は、もっと理由ができた。」
「え……?」
サクは凪の指先をそっと持ち上げ、
その爪へ触れるだけの軽いキスを落とした。
「凪と同じものを食べられるのが……嬉しい。
“美味しいね”って言い合えるだけで、
私は少しだけ……人間に戻れる気がする。」
凪の目に熱がにじむ。
サクは凪の頬に手を添え、静かに抱き寄せた。
「だから、凪。
君に食べてもらう料理は……私にとって特別なんだ。」
凪は胸がいっぱいになって、小さく息を吸った。
「……じゃぁ……サク……」
凪は勇気を出して言った。
「……わたしが作ったものも……サク、覚えててくれる……?」
サクは一瞬で動きを止めた。
深紅の瞳が、凪の不安をまるごと受け止める。
「……凪。」
そっと頬に触れ、距離を縮める。
「忘れるわけがないだろう。」
その声はあたたかく、少しだけ切なかった。
「君が作ったものなら、全部覚えている。
味も、香りも、温度も……
“君が横にいた時間”ごと大事にしている。」
凪は胸の奥がじんじんして、視線を落とす。
サクは凪の手を取り、甲へ優しくキスを落とした。
「だからまた作ってくれ。
私は何度でも覚えるよ。
君の味を——凪との時間を。」
凪の胸が熱く震えた。
少し息を整えてから、凪は小さくファイルを取り出し、
サクの前に置いた。
コトリ、と音がした。
サクが不思議そうに目を瞬かせる。
「……凪?」
凪はファイルを指先でなぞりながら、静かに言った。
「これ……お母さんのレシピなの。
私が作る料理は、全部“母の味”なんだ。」
サクの瞳が揺れる。
凪は続けた。
「小さい頃にお母さんを亡くしてね……
すごく寂しくて……忘れてしまいそうで……」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でも、押し入れからこのレシピを見つけて……
作ってみたらね、お母さんの味だったの。」
声が震える。
「その時、あぁ……お母さんは“居たんだ”って。
私の中に、ちゃんと生きてたんだって。
そう思えたの。」
サクは静かに、凪のすべてを受け止めるように聞いている。
凪は胸に手を当て、小さく微笑んだ。
「だから……わたしの料理は、お母さんが生きてた証で。
それをサクが覚えててくれるの……すごく嬉しいの。」
サクはそっと息を吸い、凪の手を包んだ。
「……凪。」
声がかすかに震えている。
「そんな大切な味を……私は忘れない。
君のためでも、君のお母さんのためでもある。」
凪の瞳が大きく揺れる。
サクは凪の指にもう一度キスを落とし、囁く。
「君が大事にしているものは……全部覚えているよ。」
堪えきれず、凪はサクの胸にそっと顔を押しつけた。
サクの腕がふわりと凪を包む。
優しくて、あたたかくて、
そしてなにより——二人の過去が重なり合う抱擁。
それは“朝の光よりも柔らかい時間”だった。
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