39 / 43
第三十九話
しおりを挟む
半地下の階段を上がると、
空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
(……静か)
扉を閉めたはずなのに、
まだ、胸の奥に朔弥の気配が残っている。
凪は、ゆっくりと自分の部屋へ向かう。
電気はつけない。
この夜は、暗いままがいい気がした。
ベッドに腰を下ろし、
無意識に、胸元へ手を伸ばす。
――ない。
そこに、チョーカーはもうない。
代わりに、
指輪の入った小さな箱が、
そっと抱きしめるように握られていた。
(……プロポーズ、されたんだよね……)
実感は、まだ追いついてこない。
「私の妻に、なる事を」
低くて、落ち着いた声。
逃げ場を塞がない、あの言い方。
(……ずるい)
そう思って、
凪は小さく笑ってしまった。
決めなくていい、と言われたのに。
急がなくていい、と言われたのに。
胸の奥では、
もう答えが静かに形を持ち始めている。
凪は、箱を開ける。
間接照明の代わりに、
窓から差し込む月明かりが、
細身の指輪を淡く照らした。
派手じゃない。
でも、朔弥らしい。
(……家出中に作った、って……)
思い出して、
また、少しだけ笑う。
不器用で、真面目で、
なのに肝心なところで大胆な人。
「……ほんとに……」
小さく呟いて、
凪は指輪を指にはめ――
……かけて、やめた。
(……まだ、だよね)
約束だから。
ゆっくり、考えるって言ったから。
凪は、指輪を外し、
胸元へ引き寄せる。
(……でも)
胸の奥が、
じんわりと温かい。
布団に横になり、
天井を見上げる。
今日の出来事を、
一つずつ、なぞるように思い出す。
指輪を返したこと。
チョーカーを返されなかったこと。
そして――
「帰りたい」と言われたこと。
(……帰りたい、か……)
それは、
誰かに言われたことのない言葉だった。
守る、とも。
連れて行く、とも違う。
“帰りたい”。
凪の胸が、きゅっと締まる。
(……朔弥、今……)
一人だ。
きっと、半地下で。
凪は、無意識に身体を起こしかけ――
途中で、止まった。
(……今日は……だめ)
今日は、
それぞれの夜を過ごす日だ。
そうしないと、
ちゃんと、未来を選べなくなる。
凪は、深く息を吸い、
ゆっくりと吐いた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく。
「……ちゃんと、考えるから」
それは、
自分自身への約束だった。
目を閉じる。
静かな夜。
でも、もう――
独りじゃない夜。
凪の胸元で、
小さな箱が、確かな重みを持っていた。
その向こうに、
同じ方向を向いた未来があることを、
凪はもう、知っていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
官邸の執務室は、深夜でも灯りが落ちなかった。
書類の山。
報告書。
極秘指定のファイル。
葛城は、最後の一枚に目を通し、静かにペンを置いた。
「――これで、終わりだな」
そう言ってから、
ほんの一瞬だけ、目を閉じる。
吸血鬼騒動。
行方不明者。
表に出せない“死因の改竄”。
すべては、
“存在しなかった事件”として処理された。
「……国は、嘘の上に立っている」
ぽつりと、独り言のように呟く。
だが、その嘘が
誰かの明日を守るなら――
自分が引き受けるべきだと、葛城は分かっていた。
「……一体、何人の人間を守り……
何人の“化け物”を失った?」
返事はない。
ただ、
机の端に置かれた一枚の写真――
南雲朔夜の記録が、
もう“抹消済”の判を押されている。
葛城は、それを裏返した。
「……国を変える、か」
誰に言うでもなく、呟く。
化け物に頼らなければ守れない国なら、
最初から、歪んでいる。
「……次は、人間の責任だ」
覚悟は、もう逃げ場を持たなかった。
⸻
一方――
官邸の一角、控えの部屋。
山南一心は、
ソファに深く腰を下ろし、
静かに息を吐いていた。
「……終わったな」
隣に立つ一護は、
壁にもたれたまま、黙っている。
「吸血鬼騒動、完全終結。
これで凪ちゃんも――
もう、狙われない」
一心の声には、
官僚としてではない、
ひとりの大人の温度があった。
「……あの子」
視線が、宙を彷徨う。
「普通の人生を、
送らせてやりたかった」
言葉が、少しだけ震えた。
一護は、それを聞いても、
何も言わない。
「だが……」
一心は、目を伏せる。
「普通じゃないものに
手を伸ばしたのは――
あの子自身だ」
凪が選んだ。
恐怖も、痛みも、覚悟も。
そして――
“帰る場所”も。
「……親ってのはな」
一心は、苦く笑った。
「守れないと分かってても、
心配する生き物なんだ」
一護は、
その言葉を、静かに受け止めていた。
⸻
夜明け前。
一護は、官邸の外に出ていた。
冷たい空気。
遠くで、街が眠っている。
(……終わった)
役目は、果たした。
吸血鬼は消えた。
凪は、守られた。
それなのに――
胸の奥には、
小さな空白が残っている。
(……俺は、ここまでだ)
自分は“守る側”だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
一護は、
無意識にポケットの中で拳を握る。
凪が、
誰の側に帰るのか。
もう、分かっている。
(……手を伸ばさない)
それが、
自分にできる最大の誠実さだ。
想いを告げることより、
身を引くことの方が
ずっと、強い時もある。
一護は、空を見上げた。
夜が、
ほんの少しだけ薄くなっている。
「……幸せになれ」
声には出さない。
それでいい。
彼は、背を向けて歩き出す。
守る役目を終えた者の、
静かな背中だった。
⸻
同じ夜。
それぞれが、
違う覚悟を胸に抱いていた。
国を変える者。
子を想う者。
身を引く者。
そして――
帰る場所を、選ぼうとしている者。
夜は、まだ明けない。
だが、
もう誰も、闇に飲まれはしなかった。
空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
(……静か)
扉を閉めたはずなのに、
まだ、胸の奥に朔弥の気配が残っている。
凪は、ゆっくりと自分の部屋へ向かう。
電気はつけない。
この夜は、暗いままがいい気がした。
ベッドに腰を下ろし、
無意識に、胸元へ手を伸ばす。
――ない。
そこに、チョーカーはもうない。
代わりに、
指輪の入った小さな箱が、
そっと抱きしめるように握られていた。
(……プロポーズ、されたんだよね……)
実感は、まだ追いついてこない。
「私の妻に、なる事を」
低くて、落ち着いた声。
逃げ場を塞がない、あの言い方。
(……ずるい)
そう思って、
凪は小さく笑ってしまった。
決めなくていい、と言われたのに。
急がなくていい、と言われたのに。
胸の奥では、
もう答えが静かに形を持ち始めている。
凪は、箱を開ける。
間接照明の代わりに、
窓から差し込む月明かりが、
細身の指輪を淡く照らした。
派手じゃない。
でも、朔弥らしい。
(……家出中に作った、って……)
思い出して、
また、少しだけ笑う。
不器用で、真面目で、
なのに肝心なところで大胆な人。
「……ほんとに……」
小さく呟いて、
凪は指輪を指にはめ――
……かけて、やめた。
(……まだ、だよね)
約束だから。
ゆっくり、考えるって言ったから。
凪は、指輪を外し、
胸元へ引き寄せる。
(……でも)
胸の奥が、
じんわりと温かい。
布団に横になり、
天井を見上げる。
今日の出来事を、
一つずつ、なぞるように思い出す。
指輪を返したこと。
チョーカーを返されなかったこと。
そして――
「帰りたい」と言われたこと。
(……帰りたい、か……)
それは、
誰かに言われたことのない言葉だった。
守る、とも。
連れて行く、とも違う。
“帰りたい”。
凪の胸が、きゅっと締まる。
(……朔弥、今……)
一人だ。
きっと、半地下で。
凪は、無意識に身体を起こしかけ――
途中で、止まった。
(……今日は……だめ)
今日は、
それぞれの夜を過ごす日だ。
そうしないと、
ちゃんと、未来を選べなくなる。
凪は、深く息を吸い、
ゆっくりと吐いた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく。
「……ちゃんと、考えるから」
それは、
自分自身への約束だった。
目を閉じる。
静かな夜。
でも、もう――
独りじゃない夜。
凪の胸元で、
小さな箱が、確かな重みを持っていた。
その向こうに、
同じ方向を向いた未来があることを、
凪はもう、知っていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
官邸の執務室は、深夜でも灯りが落ちなかった。
書類の山。
報告書。
極秘指定のファイル。
葛城は、最後の一枚に目を通し、静かにペンを置いた。
「――これで、終わりだな」
そう言ってから、
ほんの一瞬だけ、目を閉じる。
吸血鬼騒動。
行方不明者。
表に出せない“死因の改竄”。
すべては、
“存在しなかった事件”として処理された。
「……国は、嘘の上に立っている」
ぽつりと、独り言のように呟く。
だが、その嘘が
誰かの明日を守るなら――
自分が引き受けるべきだと、葛城は分かっていた。
「……一体、何人の人間を守り……
何人の“化け物”を失った?」
返事はない。
ただ、
机の端に置かれた一枚の写真――
南雲朔夜の記録が、
もう“抹消済”の判を押されている。
葛城は、それを裏返した。
「……国を変える、か」
誰に言うでもなく、呟く。
化け物に頼らなければ守れない国なら、
最初から、歪んでいる。
「……次は、人間の責任だ」
覚悟は、もう逃げ場を持たなかった。
⸻
一方――
官邸の一角、控えの部屋。
山南一心は、
ソファに深く腰を下ろし、
静かに息を吐いていた。
「……終わったな」
隣に立つ一護は、
壁にもたれたまま、黙っている。
「吸血鬼騒動、完全終結。
これで凪ちゃんも――
もう、狙われない」
一心の声には、
官僚としてではない、
ひとりの大人の温度があった。
「……あの子」
視線が、宙を彷徨う。
「普通の人生を、
送らせてやりたかった」
言葉が、少しだけ震えた。
一護は、それを聞いても、
何も言わない。
「だが……」
一心は、目を伏せる。
「普通じゃないものに
手を伸ばしたのは――
あの子自身だ」
凪が選んだ。
恐怖も、痛みも、覚悟も。
そして――
“帰る場所”も。
「……親ってのはな」
一心は、苦く笑った。
「守れないと分かってても、
心配する生き物なんだ」
一護は、
その言葉を、静かに受け止めていた。
⸻
夜明け前。
一護は、官邸の外に出ていた。
冷たい空気。
遠くで、街が眠っている。
(……終わった)
役目は、果たした。
吸血鬼は消えた。
凪は、守られた。
それなのに――
胸の奥には、
小さな空白が残っている。
(……俺は、ここまでだ)
自分は“守る側”だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
一護は、
無意識にポケットの中で拳を握る。
凪が、
誰の側に帰るのか。
もう、分かっている。
(……手を伸ばさない)
それが、
自分にできる最大の誠実さだ。
想いを告げることより、
身を引くことの方が
ずっと、強い時もある。
一護は、空を見上げた。
夜が、
ほんの少しだけ薄くなっている。
「……幸せになれ」
声には出さない。
それでいい。
彼は、背を向けて歩き出す。
守る役目を終えた者の、
静かな背中だった。
⸻
同じ夜。
それぞれが、
違う覚悟を胸に抱いていた。
国を変える者。
子を想う者。
身を引く者。
そして――
帰る場所を、選ぼうとしている者。
夜は、まだ明けない。
だが、
もう誰も、闇に飲まれはしなかった。
0
あなたにおすすめの小説
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
私の願いは貴方の幸せです
mahiro
恋愛
「君、すごくいいね」
滅多に私のことを褒めることがないその人が初めて会った女の子を褒めている姿に、彼の興味が私から彼女に移ったのだと感じた。
私は2人の邪魔にならないよう出来るだけ早く去ることにしたのだが。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる