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第四十話
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目を覚ました瞬間、
凪は――違和感に、眉をひそめた。
(……あれ……)
天井が、高い。
見慣れた半地下の、低い天井じゃない。
湿った空気も、薄暗さもない。
――自分の部屋だ。
凪は、ゆっくりと瞬きをする。
(……あぁ……)
少し遅れて、思い出す。
朔弥が、帰ってきたこと。
半地下を“家”だと言ったこと。
そして――
未来を、差し出してくれたこと。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……朔弥……)
昨夜、別れたばかりなのに。
ほんの数時間前まで、声を聞いていたのに。
それでも――
会いたい、と思ってしまう。
同じ家の中にいるはずなのに。
階段を下りれば、そこにいるはずなのに。
「……重症、だなぁ……」
自分で自分に、苦笑する。
凪は、布団の中で身体を丸め、
無意識に、胸元へ手を伸ばした。
そこにある、小さな箱。
――指輪。
昨夜、受け取ったもの。
まだ、はめていない約束。
それを、ぎゅっと抱きしめる。
(……会いたい)
それだけの気持ちなのに、
胸の奥が、少しだけ痛む。
――ほんの、わずかな不安。
また、置いていかれるんじゃないか。
また、一人で目を覚ます朝が来るんじゃないか。
理屈じゃない。
証拠もない。
ただ――
長い間、張りつめていた糸が、
ようやく緩んだからこそ滲んできた感情。
(……わがまま、だよね)
守られたからこそ、
選ばれたと知ったからこそ。
「そばにいてほしい」なんて、
言いたくなってしまう。
凪は、深く息を吸って、吐く。
大丈夫。
今は、逃げなくていい。
ゆっくり、布団を抜け出し、
ベッドの端に腰を下ろす。
そのまま、しばらく動けずに――
階段のある方向を、見つめた。
(……起きてる、かな……)
そう思ってしまう自分に、
また、小さく笑う。
「……ほんとに……」
指輪の箱を胸に抱いたまま、
凪は立ち上がった。
今日は、朝だ。
昨夜の続きじゃない。
ちゃんと、新しい一日。
それでも――
一番最初に会いたい顔は、
もう、決まってしまっていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
目を覚ました瞬間、
朔弥は、はっきりとした不快感に顔をしかめた。
(……だるい……)
頭が、重い。
身体が、言うことをきかない。
――眠気。
それは、つい最近まで
ほとんど縁のなかった感覚だった。
「……久しぶり、だな……」
掠れた声で呟いてから、
ふと、思う。
いや。
もともと、寝起きは良くなかったかもしれない。
ただ――
“人”になってからの眠気は、
やけに、生々しい。
身体が重い。
意識が、まだ水の底にあるような感覚。
朔弥は、ゆっくりと腕を伸ばす。
――空を掴む。
そこにあるはずの温もりは、ない。
「……」
独りだ。
それは、これまで何度も繰り返してきた朝のはずだった。
独寝の方が、遥かに多かった。
それなのに。
起きた瞬間、
“あの温もり”がないことが、
こんなにも胸に引っかかるとは思わなかった。
「……凪……」
名を呼ぶ。
返事は、ない。
当たり前だ。
昨夜、ちゃんと別れた。
おやすみ、と言って。
それでも――
胸の奥が、静かに疼く。
(……会いたい)
数刻前に別れたばかりなのに。
同じ家に、いるというのに。
距離は、数十歩。
階段一つ。
それだけなのに、
今すぐには埋められない距離のように感じる。
朔弥は、天井を見上げたまま、
深く息を吐いた。
触れたい。
手を伸ばしたい。
抱きしめて、
そこにいると確かめたい。
――欲しい。
その感情が、
驚くほど、はっきりと形を持っている。
(……私は……)
ゆっくりと、思考が浮上する。
(……こんなにも、独占欲が強かったのだな……)
凪を縛りたいわけじゃない。
閉じ込めたいわけでもない。
ただ――
自分の腕の中に、
戻ってきてほしいだけだ。
朔弥は、ベッドの上で身を起こす。
まだ少し、ふらつく。
(……人間は、面倒だな……)
眠くて、重くて、
そして――
欲張りだ。
それでも。
そのすべてが、
凪に向いているのだと自覚してしまった今、
もう、引き返す気はなかった。
「……朝、か……」
小さく呟いて、
朔弥はベッドを降りた。
階段の向こうに、
今いちばん会いたい存在がいる。
それだけで――
この身体を動かす理由には、十分だった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
階段は、静かだった。
一段、また一段。
凪は、ゆっくりと足を下ろす。
半地下へ近づくにつれて、
空気が、ほんの少しだけ変わる。
(……いる)
理由は分からない。
音もしない。
でも、分かる。
凪が、最後の一段に足をかけた――
その時だった。
向こうから、足音。
「……凪」
低く、少し眠気の混じった声。
階段の途中で、
二人は、ぴたりと足を止めた。
ほんの数段分の距離。
手を伸ばせば届くのに、
まだ触れない距離。
昨夜、別れたばかりなのに。
数時間前に、おやすみと言ったばかりなのに。
凪の胸が、
ぎゅっと音を立てる。
「……朔弥……」
それだけで、限界だった。
次の瞬間――
凪は、階段を下りきるより先に、
朔弥に向かって一歩、踏み出した。
「……っ」
迷いはなかった。
朔弥の胸元に、
そのまま、額を押しつける。
「……会いたかった……!」
声が、震えた。
自分でも驚くほど、
抑えがきかない。
「同じ家にいるのに……
朝起きて、いなくて……
すごく、嫌だった……!」
ぎゅっと、
服を掴む指に力がこもる。
「置いていかれるみたいで……
……怖かった……!」
――わがままだ。
分かってる。
でも。
長い夜を、
一人で耐えてきた二十歳の心は、
もう、我慢をやめてしまった。
「……凪……」
朔弥の声が、
すぐ上から落ちてくる。
驚きと、安堵と、
そして――愛しさが、混ざった声。
次の瞬間。
朔弥の腕が、
ためらいなく、凪を包み込んだ。
強く。
逃げ道を塞がない、でも確かな力で。
「……あぁ……」
吐息のような声。
「それは……わがままではない」
凪の頭に、
顎がそっと乗る。
「……私もだ」
低く、静かに。
「起きた瞬間、
君がいなくて……
正直、かなり、きつかった」
凪の身体が、
ぴくりと震える。
「……え……」
「触れたくて……
会いたくて……」
朔弥は、少しだけ苦笑した。
「……自分が、こんなに欲張りだとは
思わなかった」
腕に、力がこもる。
「だが――」
凪の耳元で、
はっきりと言った。
「君が来てくれて、助かった」
凪の目に、
じわりと熱が溜まる。
「……いいの……?
こんなの……」
朔弥は、即答した。
「いい」
迷いのない声。
「凪はまだ二〇歳だろう?」
凪の額に、
そっと口づける。
「……私は百五十年分、
受け止める準備がある」
凪は、
ぎゅっと朔弥にしがみついた。
「……ずるい……」
「褒め言葉として受け取ろう」
静かな階段。
朝の気配。
そこにはもう、
不安も距離もなかった。
ただ――
“帰ってきた”という実感だけが、
確かに、二人を包んでいた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
凪は、朔弥の胸に顔を埋めたまま、
しばらく、何も言えずにいた。
呼吸だけが、重なる。
それから――
小さく、息を吸う。
「……ね……」
声が、震えた。
「……言っても、いい……?」
朔弥の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「……あぁ」
短く、迷いのない声。
それが、最後の後押しだった。
凪は、朔弥の服を握りしめる指に、力を込める。
「……私……」
言葉が、喉で一度つかえる。
「二年分……
ずっと……」
声が、掠れる。
「悲しくて……苦しくて……
怖くて……」
一つ一つ、
胸の奥に溜め込んできたものを、
無理やり引きずり出すみたいに。
「毎日……
置いていかれる気がしてた……」
その一言で、
朔弥の身体が、わずかに硬直した。
凪は、気づいている。
でも、止めない。
「……私ね……
昔から……」
震える声で、続ける。
「……大事な人ほど……
突然、いなくなるって……
どこかで……思ってて……」
両親の背中。
理由も分からないまま、
“残された”記憶。
それは、
凪の中で、ずっと消えない傷だった。
「……だから……」
ぎゅっと、
朔弥にしがみつく。
「……もう……
あんな思い……
したくない……」
涙が、
朔弥の服に、ぽとりと落ちる。
「……さくやを……
手放したくない……」
名前を呼ぶ声が、
子どもみたいに、縋る音になる。
「……そばに……居て……」
間。
「……離さないで……」
――突き刺さる。
それは、
理屈でも、約束でもない。
“恐怖から生まれた願い”。
朔弥は、
しばらく、何も言わなかった。
だが。
次の瞬間。
凪の背中に回された腕が、
はっきりと――
守る抱き方に変わる。
逃がさない。
でも、締めつけない。
「……凪」
低く、静かな声。
「それは……
わがままじゃない」
凪の髪に、
ゆっくりと指を通す。
「恐怖だ」
一拍。
「そして――
私に、預けてくれたものだ」
凪の額に、
そっと、額を重ねる。
「……私は……
もう、君を一人にはしない」
声に、揺らぎはない。
「置いていく選択肢は……
最初から、捨てている」
凪の頬を、
親指で、そっと拭う。
「……離さない」
静かに、
だが、確かに。
「それが怖いなら……
百五十年分、
証明し続けよう」
凪の身体が、
ふっと、力を抜いた。
「……さくや。だいすき……」
小さく、嗚咽混じりに呟く。
朔弥は、
凪を胸に抱いたまま、
微かに笑った。
「……知っている」
そして、
凪の頭を、胸に引き寄せる。
「だから……
溺れる覚悟で、来い」
階段の途中。
朝の気配。
そこにはもう、
恐怖を一人で抱える凪はいなかった。
凪は――違和感に、眉をひそめた。
(……あれ……)
天井が、高い。
見慣れた半地下の、低い天井じゃない。
湿った空気も、薄暗さもない。
――自分の部屋だ。
凪は、ゆっくりと瞬きをする。
(……あぁ……)
少し遅れて、思い出す。
朔弥が、帰ってきたこと。
半地下を“家”だと言ったこと。
そして――
未来を、差し出してくれたこと。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……朔弥……)
昨夜、別れたばかりなのに。
ほんの数時間前まで、声を聞いていたのに。
それでも――
会いたい、と思ってしまう。
同じ家の中にいるはずなのに。
階段を下りれば、そこにいるはずなのに。
「……重症、だなぁ……」
自分で自分に、苦笑する。
凪は、布団の中で身体を丸め、
無意識に、胸元へ手を伸ばした。
そこにある、小さな箱。
――指輪。
昨夜、受け取ったもの。
まだ、はめていない約束。
それを、ぎゅっと抱きしめる。
(……会いたい)
それだけの気持ちなのに、
胸の奥が、少しだけ痛む。
――ほんの、わずかな不安。
また、置いていかれるんじゃないか。
また、一人で目を覚ます朝が来るんじゃないか。
理屈じゃない。
証拠もない。
ただ――
長い間、張りつめていた糸が、
ようやく緩んだからこそ滲んできた感情。
(……わがまま、だよね)
守られたからこそ、
選ばれたと知ったからこそ。
「そばにいてほしい」なんて、
言いたくなってしまう。
凪は、深く息を吸って、吐く。
大丈夫。
今は、逃げなくていい。
ゆっくり、布団を抜け出し、
ベッドの端に腰を下ろす。
そのまま、しばらく動けずに――
階段のある方向を、見つめた。
(……起きてる、かな……)
そう思ってしまう自分に、
また、小さく笑う。
「……ほんとに……」
指輪の箱を胸に抱いたまま、
凪は立ち上がった。
今日は、朝だ。
昨夜の続きじゃない。
ちゃんと、新しい一日。
それでも――
一番最初に会いたい顔は、
もう、決まってしまっていた。
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目を覚ました瞬間、
朔弥は、はっきりとした不快感に顔をしかめた。
(……だるい……)
頭が、重い。
身体が、言うことをきかない。
――眠気。
それは、つい最近まで
ほとんど縁のなかった感覚だった。
「……久しぶり、だな……」
掠れた声で呟いてから、
ふと、思う。
いや。
もともと、寝起きは良くなかったかもしれない。
ただ――
“人”になってからの眠気は、
やけに、生々しい。
身体が重い。
意識が、まだ水の底にあるような感覚。
朔弥は、ゆっくりと腕を伸ばす。
――空を掴む。
そこにあるはずの温もりは、ない。
「……」
独りだ。
それは、これまで何度も繰り返してきた朝のはずだった。
独寝の方が、遥かに多かった。
それなのに。
起きた瞬間、
“あの温もり”がないことが、
こんなにも胸に引っかかるとは思わなかった。
「……凪……」
名を呼ぶ。
返事は、ない。
当たり前だ。
昨夜、ちゃんと別れた。
おやすみ、と言って。
それでも――
胸の奥が、静かに疼く。
(……会いたい)
数刻前に別れたばかりなのに。
同じ家に、いるというのに。
距離は、数十歩。
階段一つ。
それだけなのに、
今すぐには埋められない距離のように感じる。
朔弥は、天井を見上げたまま、
深く息を吐いた。
触れたい。
手を伸ばしたい。
抱きしめて、
そこにいると確かめたい。
――欲しい。
その感情が、
驚くほど、はっきりと形を持っている。
(……私は……)
ゆっくりと、思考が浮上する。
(……こんなにも、独占欲が強かったのだな……)
凪を縛りたいわけじゃない。
閉じ込めたいわけでもない。
ただ――
自分の腕の中に、
戻ってきてほしいだけだ。
朔弥は、ベッドの上で身を起こす。
まだ少し、ふらつく。
(……人間は、面倒だな……)
眠くて、重くて、
そして――
欲張りだ。
それでも。
そのすべてが、
凪に向いているのだと自覚してしまった今、
もう、引き返す気はなかった。
「……朝、か……」
小さく呟いて、
朔弥はベッドを降りた。
階段の向こうに、
今いちばん会いたい存在がいる。
それだけで――
この身体を動かす理由には、十分だった。
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階段は、静かだった。
一段、また一段。
凪は、ゆっくりと足を下ろす。
半地下へ近づくにつれて、
空気が、ほんの少しだけ変わる。
(……いる)
理由は分からない。
音もしない。
でも、分かる。
凪が、最後の一段に足をかけた――
その時だった。
向こうから、足音。
「……凪」
低く、少し眠気の混じった声。
階段の途中で、
二人は、ぴたりと足を止めた。
ほんの数段分の距離。
手を伸ばせば届くのに、
まだ触れない距離。
昨夜、別れたばかりなのに。
数時間前に、おやすみと言ったばかりなのに。
凪の胸が、
ぎゅっと音を立てる。
「……朔弥……」
それだけで、限界だった。
次の瞬間――
凪は、階段を下りきるより先に、
朔弥に向かって一歩、踏み出した。
「……っ」
迷いはなかった。
朔弥の胸元に、
そのまま、額を押しつける。
「……会いたかった……!」
声が、震えた。
自分でも驚くほど、
抑えがきかない。
「同じ家にいるのに……
朝起きて、いなくて……
すごく、嫌だった……!」
ぎゅっと、
服を掴む指に力がこもる。
「置いていかれるみたいで……
……怖かった……!」
――わがままだ。
分かってる。
でも。
長い夜を、
一人で耐えてきた二十歳の心は、
もう、我慢をやめてしまった。
「……凪……」
朔弥の声が、
すぐ上から落ちてくる。
驚きと、安堵と、
そして――愛しさが、混ざった声。
次の瞬間。
朔弥の腕が、
ためらいなく、凪を包み込んだ。
強く。
逃げ道を塞がない、でも確かな力で。
「……あぁ……」
吐息のような声。
「それは……わがままではない」
凪の頭に、
顎がそっと乗る。
「……私もだ」
低く、静かに。
「起きた瞬間、
君がいなくて……
正直、かなり、きつかった」
凪の身体が、
ぴくりと震える。
「……え……」
「触れたくて……
会いたくて……」
朔弥は、少しだけ苦笑した。
「……自分が、こんなに欲張りだとは
思わなかった」
腕に、力がこもる。
「だが――」
凪の耳元で、
はっきりと言った。
「君が来てくれて、助かった」
凪の目に、
じわりと熱が溜まる。
「……いいの……?
こんなの……」
朔弥は、即答した。
「いい」
迷いのない声。
「凪はまだ二〇歳だろう?」
凪の額に、
そっと口づける。
「……私は百五十年分、
受け止める準備がある」
凪は、
ぎゅっと朔弥にしがみついた。
「……ずるい……」
「褒め言葉として受け取ろう」
静かな階段。
朝の気配。
そこにはもう、
不安も距離もなかった。
ただ――
“帰ってきた”という実感だけが、
確かに、二人を包んでいた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
凪は、朔弥の胸に顔を埋めたまま、
しばらく、何も言えずにいた。
呼吸だけが、重なる。
それから――
小さく、息を吸う。
「……ね……」
声が、震えた。
「……言っても、いい……?」
朔弥の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「……あぁ」
短く、迷いのない声。
それが、最後の後押しだった。
凪は、朔弥の服を握りしめる指に、力を込める。
「……私……」
言葉が、喉で一度つかえる。
「二年分……
ずっと……」
声が、掠れる。
「悲しくて……苦しくて……
怖くて……」
一つ一つ、
胸の奥に溜め込んできたものを、
無理やり引きずり出すみたいに。
「毎日……
置いていかれる気がしてた……」
その一言で、
朔弥の身体が、わずかに硬直した。
凪は、気づいている。
でも、止めない。
「……私ね……
昔から……」
震える声で、続ける。
「……大事な人ほど……
突然、いなくなるって……
どこかで……思ってて……」
両親の背中。
理由も分からないまま、
“残された”記憶。
それは、
凪の中で、ずっと消えない傷だった。
「……だから……」
ぎゅっと、
朔弥にしがみつく。
「……もう……
あんな思い……
したくない……」
涙が、
朔弥の服に、ぽとりと落ちる。
「……さくやを……
手放したくない……」
名前を呼ぶ声が、
子どもみたいに、縋る音になる。
「……そばに……居て……」
間。
「……離さないで……」
――突き刺さる。
それは、
理屈でも、約束でもない。
“恐怖から生まれた願い”。
朔弥は、
しばらく、何も言わなかった。
だが。
次の瞬間。
凪の背中に回された腕が、
はっきりと――
守る抱き方に変わる。
逃がさない。
でも、締めつけない。
「……凪」
低く、静かな声。
「それは……
わがままじゃない」
凪の髪に、
ゆっくりと指を通す。
「恐怖だ」
一拍。
「そして――
私に、預けてくれたものだ」
凪の額に、
そっと、額を重ねる。
「……私は……
もう、君を一人にはしない」
声に、揺らぎはない。
「置いていく選択肢は……
最初から、捨てている」
凪の頬を、
親指で、そっと拭う。
「……離さない」
静かに、
だが、確かに。
「それが怖いなら……
百五十年分、
証明し続けよう」
凪の身体が、
ふっと、力を抜いた。
「……さくや。だいすき……」
小さく、嗚咽混じりに呟く。
朔弥は、
凪を胸に抱いたまま、
微かに笑った。
「……知っている」
そして、
凪の頭を、胸に引き寄せる。
「だから……
溺れる覚悟で、来い」
階段の途中。
朝の気配。
そこにはもう、
恐怖を一人で抱える凪はいなかった。
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