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序章
しおりを挟む雨上がりの匂いがまだ残る夕方の風が、
名取家の玄関先を静かに撫でていた。
段ボールが積まれ、
大人たちがせわしなく行き来する。
だけど――
それら全部が遠くに霞むほど、
世界に取り残されていたのは“兄弟”の二人だけだった。
兄・**世那*10歳。
弟・** 大我* 7歳。
ほんの一歩の距離。
でも大我には、その一歩が“永遠の別れ”のように見えた。
「……兄ちゃん、行くの?」
震えた声が、夕方の空気を揺らす。
世那は一瞬迷って、
そっと手を伸ばし、大我の髪を梳いた。
「行くよ。母さんと一緒に。
……でもな、大我。」
声は強がりみたいにまっすぐだけど、
奥にかすかな震えが混じっている。
「離れても、“兄弟じゃなくなる”わけじゃない。」
大我の肩がびくっと揺れた。
「……おれ、父さんと残る……」
「うん。大我がいてくれた方が、父さんは助かるよ。」
言いながら笑った世那の目は、
泣き出しそうなのに、必死でこらえていた。
そこで世那は、ランドセルをごそごそと探り、
小さな箱を取り出した。
白地に青い模様の入った――
便箋と封筒の“兄弟セット”。
「大我。これ、お前に渡したかったんだ。」
大我が目を丸くする。
世那は箱のふたを開いて見せた。
同じ柄の便箋と封筒がふたつ。
世那と大我にひとつずつ。
「これ、ふたりのおそろいの便箋。
俺も同じの持ってるから……
手紙は“この紙”で書こう。」
「……兄ちゃんと……おそろい……?」
たまらず、声が震える。
世那は小さくうなずいた。
「大我が書いた手紙、全部大事に取っておく。
だから大我も……俺の手紙、絶対捨てんなよ?」
大我は箱をぎゅっと胸に抱きしめ、
目がうるんだまま叫ぶように言った。
「すてない!!
ずっともってる!!
兄ちゃんの手紙、ぜったい!!」
世那はしゃがんで弟の肩をつかみ、
目線を合わせる。
「大我。
離れても――ずっと兄弟だ。」
「……うんっ……!」
「大我がどんな大人になっても、
俺はずっと、お前の兄ちゃん。」
ぽた、と涙が落ちる。
そのとき――
母の声が玄関に響いた。
「世那、行くわよ。」
二人の距離が、ゆっくり開いていく。
大我はこらえきれず兄の服をつかんだ。
「……やだ……兄ちゃん……行かないで……!」
世那は、もう笑えなかった。
でも泣きもしなかった。
代わりに――
弟の頭をぐしゃぐしゃっと、痛いほど強く撫でた。
「大我。俺は大丈夫。
だから……お前も大丈夫になれ。」
車のドアが閉まり、
動き出した瞬間。
世那は窓に手をついて叫んだ。
「絶対手紙書く!!
ずっと兄弟だ!!」
「ずっとだよ!!」
大我も泣きながら叫び返す。
車が遠ざかり、
兄の姿が小さくなって、やがて消えた。
のこされた大我の両手には、
壊れそうなほど抱きしめた“便箋セット”。
——この小さな便箋が、
数年後、兄弟の運命を変えるとは
まだ誰も知らなかった。
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