兄嫁〜あなたがくれた世界で〜

SAKU

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二十二章

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昼下がりのコンビニ帰り。
職場からの書類を受け取りに出ただけのはずなのに──
日常の空気が突然ひやりと揺れた。

「世那くん?」

背中のほうから聞こえたその名前に、
大我の足は反射的に止まった。

胸がどくん、と跳ねる。

(……いま……兄貴の……?)

振り向くと、スーツ姿の男性が目を丸くして立っていた。

「あ。いや。人違いです。すみません……」

男は慌てて頭を下げるが、
その目はじっと大我の顔を見つめている。

「……あの?」

「すみません、すみません……
 ちょっと……知り合いに……いえ、えっと……」

言葉を探すように、男は額に手をやった。

「世那……名取世那なとりせな……ですよね。それ」

大我の心臓が一瞬止まる。

「……え……」

その反応に、男は確信したように目を細めた。

「名取世那は兄ですが……あなたは?」

大我の声は、自分でも驚くほど静かだった。

男は深く息を吸って──
仕事の顔に戻るように名刺入れを開いた。

「弟さん……。
 どうりで似ていると思いました。」

差し出された名刺には、出版社の名前。

「わたし、世那くんの担当をさせてもらってました。
 編集者の──
 森園雄二もりぞのゆうじと申します。」

大我の喉が、ごくりと鳴った。

(兄貴の……担当編集……?)

森園は名刺を渡したあと、
大我の表情を見てそっと声を落とした。

「……すみません。
 突然お声をかけて、驚かせましたよね。」

「い、いや……大丈夫です。」

本当は大丈夫じゃなかった。

兄の名を、他人の口から
こんな鮮明に呼ばれるなんて思っていなかった。

森園は続ける。

「世那くんが亡くなったのは、頭では理解してるんです。でも、あの子の作品が…文字が…生きてて…僕にとって、彼は特別でした。あんな魂ごと優しさで包める文章を書ける作家はいない…。」

「やはりご兄弟ですね。世那くんと同じ空気を持ってらっしゃる。世那くんよりも強い眼差しと…あ。いえすみません…職業病というか」

森園は頭を掻きながら俯く。

「あの…俺、ずっと兄とは暮らしてなくて…よかったら教えてくれませんか?作家、名取世那の事。」

森園の目がほっと緩む。

「僕でよければ!
 ……話してもいいんですか?
 ご家族の方にこうして直接聞かれるの、初めてで……なんだか嬉しいです。」

大我は小さくうなずいた。

「分かりました。
 じゃあ……少し長くなりますが。」

コンビニの横の、風が通る細い道。
人通りが途切れたのを確認して、
森園はゆっくり話し始めた。

「世那くんは……とにかく“優しい”作家でした。
 編集としてはもっとわがまま言ってほしいくらいに。」

「……優しい……」

「はい。
 でもそれは“人に甘い”とかじゃなくて……
 “読者を信じきっている”優しさなんです。」

森園の声は、どこか誇らしげだった。

「どんな苦しい描写を書いても、
 その先に必ず救いを置こうとする。
 “読んだ人がひとりでも、明日を信じられるならいい”
 それが彼の口癖でした。」

大我の胸が熱く揺れる。

(兄貴……らしい……)

森園は続けた。

「それと……担当として、ずっと心に残ってることがあります。」

「……?」

「世那くん、打ち合わせの日……
 必ず早く来てたんです。」

「え……?兄貴が……?」

「えぇ。30分、1時間は当たり前。
 『弟が早く来るから、絶対先に着いて待ってるって癖が抜けない』って笑ってましたよ。」

大我の手がびくりと震えた。

(……そう言えば……俺…兄貴を待った事…ない…)

胸の奥で、懐かしい痛みがじんじん広がる。

森園は気づかないふりをして続ける。

「でね、話題になるのはいつも“弟さん”だったんです。」

「俺、の……?」

「えぇ。
 『うちの弟、最近背が伸びてきたんです』
 『頑張り屋なんで、俺よりすごいことするかもしれませんよ』
 『ちょっと不器用だけど、あれがいいんですよ』
 ──こんなふうに、いつも誇らしそうで。」

大我の視界がにじんだ。

(……兄貴……
 そんなふうに……俺を……)

森園は、少し遠くを見るような目で微笑む。

「だから……いまこうして弟さんと会えて……
 なんだか僕も救われた気がします。」

大我は俯き、深く息を吸った。

「……俺……兄貴に……
 何も返せなかったのに……」

「返すとかじゃないですよ。」

森園は大我の言葉を否定せず、
柔らかく包み込むように言った。

「世那くんはね。
 あなたが“生きてる”ってだけで十分だったんです。」

大我の喉から、静かな息が漏れた。

(……生きているだけで……
 十分……?)

森園は名刺入れを閉じると、
ふっと表情を柔らかく緩めた。

「名取世那という作家は……
 最後まで、弟さんを誇っていました。」

その言葉は、大我の胸の中心に
静かに、だけど深く沈んでいった。

ずっと抱えていた
“兄に何も返せなかった”という痛みが
少しずつ形を変えていく。

大我はゆっくりと息を吸い、小さく頭を下げた。

「……教えてくれて……
 本当に、ありがとうございます。」

森園は首を横に振った。

「いえ。
 こちらこそ……感謝しています。
 それから──」

森園は鞄の中をごそごそと探り、
丁寧に布で包んだ小さな封筒を取り出した。

「これを。
 ずっと手放せなくて……
 でも、世那くんはきっと……弟さんに渡したかったのかもしれません。」

「……ッ! これ……」

震える指で封筒を受け取る。

触れた瞬間に分かった。
知っている──
この“紙”の厚み、兄の字の癖。

「世那くんの、最後の作品のプロットです。」

森園は静かに目を伏せた。

「形にはなりませんでした。
 けれど……多分とても大切な人の話だった。
 命を削って書いていた気がします。」

大我の胸が痛いほど跳ねた。

「兄貴……遺品の中に……書きかけの原稿が、あって……
 これ……たぶん、その続き……?」

森園は頷いた。

「えぇ。
 “彼女を守る物語を書きたい”って言ってました。」

大我の呼吸が止まる。

(……“彼女”……
 兄貴の……大切な……)

春の風がふたりの間をそっと撫でる。

封筒の中にあるものは、
もう二度と増えることのない兄の“最後の物語”。

その物語の主人公が誰なのか──
考えるまでもなかった。

胸の奥が、苦しくて、痛くて、
でも……どこか温かい。

森園は大我の表情を見て、
優しく笑った。

「兄弟って、不思議ですよね。
 どれだけ離れていても……
 どれだけ別々の人生を歩んでも……
 大事に思っているものは、似るものです。」

大我はプロットの封筒を胸に抱いた。

(兄貴……
 冴夢ちゃんのこと、最後まで……)

そして小さく、決意を込めて思う。

(……冴夢ちゃんにも、ちゃんと伝えよう。
 兄貴がどんな気持ちで生きて……
 俺たちを、どう見てたのかを。)

長い間触れたくなかった痛みが、
ゆっくりと光に変わっていく。

胸に抱いた封筒の温度は、
大我には“重さ”ではなく
“不思議なあたたかさ”として伝わっていた。

兄の字。
兄の癖。
兄の息づかい。

そして──
兄が最後に守ろうとした“誰か”。

そのすべてが、
薄い紙の中に静かに息をしている。

森園は、その様子を穏やかに見守りながら言った。

「……もし、つらくなったら。
 読むのをやめてもいいんです。
 でも……世那くんはきっと、
 “弟さんなら最後まで読んでくれる”って、
 そう信じて書いていたと思います。」

大我はゆっくりと頷いた。

「……読みます。
 ちゃんと……全部。」

声はかすれていた。
けれど迷いはなかった。

森園はほっと息をつき、
深く一礼した。

「今日は、本当にありがとうございました。
 また……何かあればいつでも。」

そして静かに去っていく姿が角を曲がると、
大我はその場に立ち尽くしたまま、
しばらく微動だにできなかった。

(兄貴……
 本当に……俺を……
 こんなに……)

気づけば目のふちが熱い。
泣くつもりなんてなかったのに。

でも──
涙は痛くなかった。

初めて、
“救われる涙”だった。

胸に抱いた封筒が
ぽつ、と小さな音を立てたように思えた。

それはたぶん、
兄からの「ありがとう」だった。

そして同時に──
もうひとつの感情が胸に広がる。

(冴夢ちゃんにも……
 早く見せてやりたい……
 兄貴がどれだけ大事にしていたか……)

春の風が吹く。

その風は、
今日だけは冷たくなかった。

大我は静かに息を吸い、
胸の前で封筒をそっと握りしめた。

——兄の物語は終わってしまった。
 でも
 兄が守りたかった“彼女”との物語は、
 いま俺が続きに触れている。

その事実が、
静かに優しく、大我の背中を押した。

(冴夢ちゃん……会いたい。
 この気持ちを……
 今すぐ伝えたい。)

誰もいない路地で、
恋人の名前が胸の中にそっと灯る。

その灯りは、過去の痛みも未来の不安も照らして──
やがてひとつの想いに形を変えた。

「……冴夢。」

小さく呟いたその名前は、春の風に揺れて消えていった。

でも大我の中には、
強く、やわらかく残っていた。

——帰ろう。

兄の想いを抱えたまま。
新しい恋を胸にしたまま。

大学の前の道は、夕方の光がゆっくり色を変えていく時間だった。

講義を終えた学生たちがぞろぞろ帰っていく中、
冴夢は門の前でスマホをしまおうとした——そのとき。

「冴夢ちゃん。」

あの声が、ふっと背中から落ちてきた。

振り返ると、
いつものスーツ姿の大我が立っていた。

でも——
いつもと違う。

表情が少し硬い。
でも目だけは、強く、優しく、揺れている。

冴夢は胸がぎゅっと縮む。

「大我……?どうしたの?」

大我はゆっくり近づいてきて、
ポケットの上を無意識に押さえた。

そこには——
今日受け取った、兄の最後のプロット。

「冴夢ちゃん。話があるんだ……」

静かな声だった。

でもその静けさが、
逆にどれだけ大事な話なのかを伝えてくる。

冴夢は一歩、大我に近づいた。

「……うん。いいよ。」

夕方の光がふたりの影を長く伸ばし、
その間に、ほんの少しだけ風が通った。

大我は息を吸い込み、
胸ポケットをそっと押さえたまま言った。

「今日……兄貴の“編集者”に会った。」

冴夢のまつげが小さく揺れる。

「……世那くんの……?」

「うん。」

大我の声は震えているようで、
でも、逃げる気配はまったくなかった。

「それで……兄貴が最後に書いてた“物語”を……
 俺、預かってきた。」

冴夢の胸に、静かな影が落ちた。

(……世那くんの……最後……)

大我は自分の胸を押さえたまま、
言葉を探すように目を伏せる。

「冴夢ちゃん。
 渡したいんだけど……」

そして、顔を上げる。

その目には、
痛みでも罪悪感でもなく——

覚悟 があった。

「……読むの、怖いんだ。」

冴夢は、はっと息をのむ。

「大我……」

「でも……冴夢ちゃんにも、知ってほしい。
 兄貴がどんな気持ちで生きて……
 最後に何を残そうとしてたのか。」

夕方の風に揺れながら、
大我は胸ポケットの封筒を、ゆっくり触れた。

「でもな……
 今、ここで渡したら……
 冴夢ちゃんが泣くんじゃねぇかって……」

冴夢の心臓が、痛いほど跳ねた。

大我は続ける。

「泣かせたくねぇんだよ。
 今日……もう泣いてほしくねぇ。」

冴夢は小さく笑う。

「大我……いま、わたしのこと……
 すごく大事にしてくれてる顔してる。」

大我は照れたように眉を寄せた。

「……してるよ。
 大事に決まってんだろ……。」

冴夢は、その言葉だけで涙がにじみそうになった。

それを見た大我が、慌てて言う。

「ほら……!
 だから言っただろ……今渡したらこうなるって……!」

冴夢はくすっと笑って、
大我の胸にそっと手を添えた。

「……大我。
 泣いてもいいよ。
 泣かされても……いいよ。」

大我の目がゆっくり揺れる。

冴夢は真っ直ぐに見つめた。

「世那くんのことなら……
 一緒に泣くよ。
 一緒に読むよ。
 一緒に受け止めるよ。」

大我は息を飲んだ。

そして──
胸ポケットから封筒をゆっくり取り出した。

薄い紙が、夕方の光でほんの少し透ける。

大我の声は、震えながらも優しかった。

「……冴夢ちゃん。
 一緒に……読んでくれる?」

冴夢は迷いなく、静かに頷いた。

「うん。読むよ。
 大我と一緒に。」

その瞬間。
大我の肩から、長い間抱えていた重りの一部が
音もなく落ちた気がした。

ふたりの間に、
春の風がそっと通り抜けた。

兄が残した最後の物語へ。
ふたりで歩き出すために——。

──────────────────────────

冴夢の部屋の窓から、
夕方の光がゆっくりと夜へ変わっていく。

テーブルの上には──
森園から渡された、
世那の最後のプロット。

薄い封筒なのに、
大我にとっては重くて重くて仕方なかった。

「……大我。ゆっくりでいいよ。」

冴夢の声は、
春みたいに柔らかかった。

大我は深く息を吸って、
封筒を両手で開いた。

紙が、かすかに震えている。
大我の指も、同じように震えていた。

冴夢は黙って隣に座り、
ただ、その震えを見守った。

紙を取り出し──
大我は最初の一行を見た。

たった一行。
たったそれだけなのに。

瞬間、
大我の呼吸が止まった。

「……あ……」

声にならない息が漏れる。

紙が手の中で、くしゃりと揺れた。

冴夢はそっと覗き込む。

そこに書かれていたのは──

『――彼女は、笑った。
 泣きながら、それでも笑った。
 この世界でいちばん守りたい子だった。』

その“彼女”が誰かなんて
考えるまでもなかった。

冴夢も、
胸がきゅうっと締め付けられた。

でも──
大我は違った。

その瞬間。
大我の中で何かが耐えきれなくなった。

「……っ……う……」

肩が震える。

目をぎゅっとつむったのに、
涙が零れた。

ぽたり。

ぽたり。

止まらない。

「……俺……さ……
 兄貴の……こういうの……
 ずっと……知らなくて……」

冴夢はそっと大我の背中に手を回した。

「うん……」

大我は唇を噛みながら続ける。

「なんで……
 なんで言ってくれなかったんだよ……兄貴……」

涙が紙に落ちる。
字が滲む。
それでも大我は目を離せない。

「……こんな……
 こんな大事な……気持ち……
 俺……知らねぇまま……
 兄貴、いなくなって……」

冴夢は大我の肩に頬を寄せる。

「大我……」

「……知らなかった……
 全部……
 何も返せなかった……
 俺……兄貴のこと、何も……」

そこで──
完全に声が潰れた。

大我の身体が崩れ落ちるように揺れ、
頬に伝った涙が冴夢の首筋に落ちる。

冴夢は何も言わず、
ぎゅっと大我を抱きしめた。

小さな身体で、
震える大我を包むように。

「……大我。
 返せなかったんじゃないよ。」

「……っ……」

「世那くんね……
 大我のこと、ずっと好きだったよ。
 大我が生きてるだけでいいって……
 きっとそう思ってたよ。」

大我は肩を震わせながら
冴夢にしがみついた。

まるで、
今やっと兄と繋がれた子どものように。

「……冴夢ちゃん……
 ごめん……泣いて……
 止まらねぇ……」

冴夢は大我の頭に手を添え、
静かに撫でた。

「泣いていいよ。
 今日は……泣いていい日だよ。」

大我は喉の奥で小さく声を漏らす。

「……兄貴……
 俺……冴夢ちゃん……守るよ……
 絶対……絶対……」

冴夢は大我の背中を引き寄せ、
胸の奥でそっと微笑んだ。

「……大我なら、大丈夫。」

涙で濡れた大我の頬。
震える腕。
胸に押し当てられた温度。

それは、
兄の物語の続きへ
ふたりで進む“決意の涙”だった。

しばらくして、
大我の呼吸がゆっくり落ち着くまで、
冴夢は一度も離れなかった。

静かな部屋に
二人の呼吸だけが重なり──
その重なりが、
新しい温度になっていった。

──────────────────────────

大我が落ち着いてきた頃、
冴夢はそっと涙を指で拭ってあげた。

「……続き、読もうか。」

大我は深く息を吸って、
震える手のまま紙をめくった。

薄い紙が、静かに重なり合う。

その文字は、
世那のくせ字で、けれど迷いがなくて──
読んだ瞬間、胸を掴まれるような力があった。

冴夢が隣でそっと寄り添う中、大我は読み上げた。



――第一章・導入


 風の音が止まった。
 泣きじゃくる少女が、小さな手で瞼をぬぐった。

 夜に置き去りにされた子どもは、
 自分の名前を呼んでくれる人の影を
 ずっと探し続けていた。

 彼女の世界を守るためだけに
 大人になった青年は、
 その小さな肩に触れた瞬間──
 すべてを悟った。

 「あぁ、この子を守るために、
  俺は生まれたんだ」と。

 自分の幸せよりも、
 自分の未来よりも、
 まず彼女の明日が優先だった。

 その笑顔ひとつで、
 今日までの全部が報われる。』




冴夢の指先が震えた。

(……これ……
 完全に……わたしと……世那くん……)

大我は紙を握る手が強張るのを感じた。

「……兄貴……」

冴夢はそっと大我の手に触れた。

「大我……読むの、やめてもいいよ。」

「……いや。読む。」

大我はまぶたを一度閉じて、
次の行へ視線を落とした。


――青年の独白


 守ると言ったのは、
 少女の未来が欲しかったからではない。

 少女の笑顔が、
 自分の世界の全部だったからだ。

 彼女は知らないだろう。
 どれほど自分が救われていたのか。

 少女が笑うたび、
 青年の世界は息を吹き返した。

 それを伝えようとしたことはない。
 伝えたら、
 彼女が困るだろうから。

 想いは、胸の奥に沈めるもの。
 それで十分だった。』



読み進めるたびに、
冴夢の息が浅くなる。

「世那くん……そんな……」

大我も喉が詰まる。

(兄貴……
 そんなこと、一言も言わなかったくせに……)

冴夢の肩がふるえた。
でも泣いてはいなかった。

むしろ、
世那の想いが胸の奥に静かに溶けていくようだった。

大我は続きを読んだ。



――未完の章


 もし、青年がいなくなったあとも、
 少女が笑って生きていけるなら──
 それが青年の願いだった。

 少女がもう一度、
 誰かを信じてくれるのなら。

 少女がいつか、
 “守りたいと思える人”に
 出会えるのなら。

 その時は──
 青年の存在は、
 ただの“過去”でいい。

 少女の人生の邪魔をするくらいなら、
 名前を忘れてもらっていい。




そこで、文章はふっと途切れていた。

最後の一行だけ、
掠れるように書き殴られていた。

『――どうか、幸せに。』

読み終えた瞬間。
大我は紙を胸に押し当てて、
声を殺すように息を吸った。

冴夢は震える声で言った。

「……世那くん……
 最初から……全部……わかってたんだ……」

大我は首を振る。

「兄貴……本当は……
 最後まで……冴夢ちゃんの未来を願って……
 ……それだけ考えて……」

言葉にならなかった。

冴夢はそっと大我の胸に身体を寄せた。

「……大我。
 この物語……
 わたし、読めてよかった。」

大我は涙を拭いながら、
紙を崩れそうな手で握る。

「兄貴……最後に……
 冴夢ちゃんの“未来”を書いてたんだ……」

冴夢はそっと微笑んだ。

「……でもね。
 その“未来”は……
 いま、わたしたちが生きてる未来なんだよ。」

大我の肩が、ゆっくり震えた。

「……冴夢ちゃん。」

「うん……」

大我の声は震えていた。
でも、逃げていなかった。

「……兄貴……亡くなる直前……
 俺に……最後に言った言葉……覚えてる。」

冴夢の心臓が、ぎゅっと縮む。

大我はまっすぐ冴夢を見られなくて、
でも視線だけは逃げないようにして続けた。

「“さゆ……幸せに”って……言ったんだ。」

冴夢の呼吸がそこで止まった。

世界がふっと揺れたように感じる。

「……え……」

「……血だらけで……目もたぶん見えてなくて…
 声も……もう出なくて……
 ほとんど息みたいで……
 でも……それだけは言った。」

大我は唇を強く噛んだ。
涙を堪えるように。

「息を引き取る瞬間まで冴夢ちゃんを想ってた。」

冴夢の視界が一瞬で滲む。

(……世那くん……そんな……
 最後の最後に……わたし……)

「“さゆ……幸せに”」

大我はその言葉を、
まるで兄から託された宝物のように大切に口にする。

「……それが……兄貴の願いだったんだよ……」

冴夢の頬を、涙がひとすじ落ちた。

声にならない声で、
胸の奥の痛みが静かに溢れていく。

大我はそっと冴夢の肩を抱いた。
強くじゃなく、壊れないように。

「……俺、ずっと……
 この言葉……言えなかった。」

「……うん……」

「冴夢ちゃんを、余計に苦しめると思って……
 俺が言う資格なんてないって思って……」

冴夢は大我の胸に額を寄せた。

涙がぽとぽと落ちる。
でも、それは悲しいだけの涙じゃなかった。

「……言ってくれて……
 ありがとう……」

冴夢は震える声で、
大我の胸の前で指をきゅっと握った。

「……世那くん……
 わたしのこと、最後まで……」

大我はそっと冴夢の頭に手を添える。

「……兄貴なりに……
 ちゃんと未来を願ってたんだ。」

冴夢は顔を上げる。
涙の跡がきらきら光る。

「……ねぇ、大我。」

「……ん?」

冴夢はゆっくり言った。

「世那くんの願い……
 わたしたちが叶えていこう。」

大我の胸が熱く震える。

冴夢の手が、大我の手をそっと包む。

「わたし……大我と生きたい。
 大我が隣にいる未来が、ほしい。」

大我はもう堪えられなかった。

冴夢を抱きしめ、
その耳元で小さく、深く囁く。

「……冴夢ちゃん。
 兄貴が願った“幸せ”、
 これから全部……俺が作る。」

冴夢は目を閉じ、
胸の奥で静かに笑った。

「……うん。
 わたしも……大我を幸せにしたい。」

ふたりの影が重なり、
涙と温度の混じる抱擁の中で、
世那の最後の願いが、
確かに受け継がれていった。
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