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二十二章
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昼下がりのコンビニ帰り。
職場からの書類を受け取りに出ただけのはずなのに──
日常の空気が突然ひやりと揺れた。
「世那くん?」
背中のほうから聞こえたその名前に、
大我の足は反射的に止まった。
胸がどくん、と跳ねる。
(……いま……兄貴の……?)
振り向くと、スーツ姿の男性が目を丸くして立っていた。
「あ。いや。人違いです。すみません……」
男は慌てて頭を下げるが、
その目はじっと大我の顔を見つめている。
「……あの?」
「すみません、すみません……
ちょっと……知り合いに……いえ、えっと……」
言葉を探すように、男は額に手をやった。
「世那……名取世那なとりせな……ですよね。それ」
大我の心臓が一瞬止まる。
「……え……」
その反応に、男は確信したように目を細めた。
「名取世那は兄ですが……あなたは?」
大我の声は、自分でも驚くほど静かだった。
男は深く息を吸って──
仕事の顔に戻るように名刺入れを開いた。
「弟さん……。
どうりで似ていると思いました。」
差し出された名刺には、出版社の名前。
「わたし、世那くんの担当をさせてもらってました。
編集者の──
森園雄二と申します。」
大我の喉が、ごくりと鳴った。
(兄貴の……担当編集……?)
森園は名刺を渡したあと、
大我の表情を見てそっと声を落とした。
「……すみません。
突然お声をかけて、驚かせましたよね。」
「い、いや……大丈夫です。」
本当は大丈夫じゃなかった。
兄の名を、他人の口から
こんな鮮明に呼ばれるなんて思っていなかった。
森園は続ける。
「世那くんが亡くなったのは、頭では理解してるんです。でも、あの子の作品が…文字が…生きてて…僕にとって、彼は特別でした。あんな魂ごと優しさで包める文章を書ける作家はいない…。」
「やはりご兄弟ですね。世那くんと同じ空気を持ってらっしゃる。世那くんよりも強い眼差しと…あ。いえすみません…職業病というか」
森園は頭を掻きながら俯く。
「あの…俺、ずっと兄とは暮らしてなくて…よかったら教えてくれませんか?作家、名取世那の事。」
森園の目がほっと緩む。
「僕でよければ!
……話してもいいんですか?
ご家族の方にこうして直接聞かれるの、初めてで……なんだか嬉しいです。」
大我は小さくうなずいた。
「分かりました。
じゃあ……少し長くなりますが。」
コンビニの横の、風が通る細い道。
人通りが途切れたのを確認して、
森園はゆっくり話し始めた。
「世那くんは……とにかく“優しい”作家でした。
編集としてはもっとわがまま言ってほしいくらいに。」
「……優しい……」
「はい。
でもそれは“人に甘い”とかじゃなくて……
“読者を信じきっている”優しさなんです。」
森園の声は、どこか誇らしげだった。
「どんな苦しい描写を書いても、
その先に必ず救いを置こうとする。
“読んだ人がひとりでも、明日を信じられるならいい”
それが彼の口癖でした。」
大我の胸が熱く揺れる。
(兄貴……らしい……)
森園は続けた。
「それと……担当として、ずっと心に残ってることがあります。」
「……?」
「世那くん、打ち合わせの日……
必ず早く来てたんです。」
「え……?兄貴が……?」
「えぇ。30分、1時間は当たり前。
『弟が早く来るから、絶対先に着いて待ってるって癖が抜けない』って笑ってましたよ。」
大我の手がびくりと震えた。
(……そう言えば……俺…兄貴を待った事…ない…)
胸の奥で、懐かしい痛みがじんじん広がる。
森園は気づかないふりをして続ける。
「でね、話題になるのはいつも“弟さん”だったんです。」
「俺、の……?」
「えぇ。
『うちの弟、最近背が伸びてきたんです』
『頑張り屋なんで、俺よりすごいことするかもしれませんよ』
『ちょっと不器用だけど、あれがいいんですよ』
──こんなふうに、いつも誇らしそうで。」
大我の視界がにじんだ。
(……兄貴……
そんなふうに……俺を……)
森園は、少し遠くを見るような目で微笑む。
「だから……いまこうして弟さんと会えて……
なんだか僕も救われた気がします。」
大我は俯き、深く息を吸った。
「……俺……兄貴に……
何も返せなかったのに……」
「返すとかじゃないですよ。」
森園は大我の言葉を否定せず、
柔らかく包み込むように言った。
「世那くんはね。
あなたが“生きてる”ってだけで十分だったんです。」
大我の喉から、静かな息が漏れた。
(……生きているだけで……
十分……?)
森園は名刺入れを閉じると、
ふっと表情を柔らかく緩めた。
「名取世那という作家は……
最後まで、弟さんを誇っていました。」
その言葉は、大我の胸の中心に
静かに、だけど深く沈んでいった。
ずっと抱えていた
“兄に何も返せなかった”という痛みが
少しずつ形を変えていく。
大我はゆっくりと息を吸い、小さく頭を下げた。
「……教えてくれて……
本当に、ありがとうございます。」
森園は首を横に振った。
「いえ。
こちらこそ……感謝しています。
それから──」
森園は鞄の中をごそごそと探り、
丁寧に布で包んだ小さな封筒を取り出した。
「これを。
ずっと手放せなくて……
でも、世那くんはきっと……弟さんに渡したかったのかもしれません。」
「……ッ! これ……」
震える指で封筒を受け取る。
触れた瞬間に分かった。
知っている──
この“紙”の厚み、兄の字の癖。
「世那くんの、最後の作品のプロットです。」
森園は静かに目を伏せた。
「形にはなりませんでした。
けれど……多分とても大切な人の話だった。
命を削って書いていた気がします。」
大我の胸が痛いほど跳ねた。
「兄貴……遺品の中に……書きかけの原稿が、あって……
これ……たぶん、その続き……?」
森園は頷いた。
「えぇ。
“彼女を守る物語を書きたい”って言ってました。」
大我の呼吸が止まる。
(……“彼女”……
兄貴の……大切な……)
春の風がふたりの間をそっと撫でる。
封筒の中にあるものは、
もう二度と増えることのない兄の“最後の物語”。
その物語の主人公が誰なのか──
考えるまでもなかった。
胸の奥が、苦しくて、痛くて、
でも……どこか温かい。
森園は大我の表情を見て、
優しく笑った。
「兄弟って、不思議ですよね。
どれだけ離れていても……
どれだけ別々の人生を歩んでも……
大事に思っているものは、似るものです。」
大我はプロットの封筒を胸に抱いた。
(兄貴……
冴夢ちゃんのこと、最後まで……)
そして小さく、決意を込めて思う。
(……冴夢ちゃんにも、ちゃんと伝えよう。
兄貴がどんな気持ちで生きて……
俺たちを、どう見てたのかを。)
長い間触れたくなかった痛みが、
ゆっくりと光に変わっていく。
胸に抱いた封筒の温度は、
大我には“重さ”ではなく
“不思議なあたたかさ”として伝わっていた。
兄の字。
兄の癖。
兄の息づかい。
そして──
兄が最後に守ろうとした“誰か”。
そのすべてが、
薄い紙の中に静かに息をしている。
森園は、その様子を穏やかに見守りながら言った。
「……もし、つらくなったら。
読むのをやめてもいいんです。
でも……世那くんはきっと、
“弟さんなら最後まで読んでくれる”って、
そう信じて書いていたと思います。」
大我はゆっくりと頷いた。
「……読みます。
ちゃんと……全部。」
声はかすれていた。
けれど迷いはなかった。
森園はほっと息をつき、
深く一礼した。
「今日は、本当にありがとうございました。
また……何かあればいつでも。」
そして静かに去っていく姿が角を曲がると、
大我はその場に立ち尽くしたまま、
しばらく微動だにできなかった。
(兄貴……
本当に……俺を……
こんなに……)
気づけば目のふちが熱い。
泣くつもりなんてなかったのに。
でも──
涙は痛くなかった。
初めて、
“救われる涙”だった。
胸に抱いた封筒が
ぽつ、と小さな音を立てたように思えた。
それはたぶん、
兄からの「ありがとう」だった。
そして同時に──
もうひとつの感情が胸に広がる。
(冴夢ちゃんにも……
早く見せてやりたい……
兄貴がどれだけ大事にしていたか……)
春の風が吹く。
その風は、
今日だけは冷たくなかった。
大我は静かに息を吸い、
胸の前で封筒をそっと握りしめた。
——兄の物語は終わってしまった。
でも
兄が守りたかった“彼女”との物語は、
いま俺が続きに触れている。
その事実が、
静かに優しく、大我の背中を押した。
(冴夢ちゃん……会いたい。
この気持ちを……
今すぐ伝えたい。)
誰もいない路地で、
恋人の名前が胸の中にそっと灯る。
その灯りは、過去の痛みも未来の不安も照らして──
やがてひとつの想いに形を変えた。
「……冴夢。」
小さく呟いたその名前は、春の風に揺れて消えていった。
でも大我の中には、
強く、やわらかく残っていた。
——帰ろう。
兄の想いを抱えたまま。
新しい恋を胸にしたまま。
大学の前の道は、夕方の光がゆっくり色を変えていく時間だった。
講義を終えた学生たちがぞろぞろ帰っていく中、
冴夢は門の前でスマホをしまおうとした——そのとき。
「冴夢ちゃん。」
あの声が、ふっと背中から落ちてきた。
振り返ると、
いつものスーツ姿の大我が立っていた。
でも——
いつもと違う。
表情が少し硬い。
でも目だけは、強く、優しく、揺れている。
冴夢は胸がぎゅっと縮む。
「大我……?どうしたの?」
大我はゆっくり近づいてきて、
ポケットの上を無意識に押さえた。
そこには——
今日受け取った、兄の最後のプロット。
「冴夢ちゃん。話があるんだ……」
静かな声だった。
でもその静けさが、
逆にどれだけ大事な話なのかを伝えてくる。
冴夢は一歩、大我に近づいた。
「……うん。いいよ。」
夕方の光がふたりの影を長く伸ばし、
その間に、ほんの少しだけ風が通った。
大我は息を吸い込み、
胸ポケットをそっと押さえたまま言った。
「今日……兄貴の“編集者”に会った。」
冴夢のまつげが小さく揺れる。
「……世那くんの……?」
「うん。」
大我の声は震えているようで、
でも、逃げる気配はまったくなかった。
「それで……兄貴が最後に書いてた“物語”を……
俺、預かってきた。」
冴夢の胸に、静かな影が落ちた。
(……世那くんの……最後……)
大我は自分の胸を押さえたまま、
言葉を探すように目を伏せる。
「冴夢ちゃん。
渡したいんだけど……」
そして、顔を上げる。
その目には、
痛みでも罪悪感でもなく——
覚悟 があった。
「……読むの、怖いんだ。」
冴夢は、はっと息をのむ。
「大我……」
「でも……冴夢ちゃんにも、知ってほしい。
兄貴がどんな気持ちで生きて……
最後に何を残そうとしてたのか。」
夕方の風に揺れながら、
大我は胸ポケットの封筒を、ゆっくり触れた。
「でもな……
今、ここで渡したら……
冴夢ちゃんが泣くんじゃねぇかって……」
冴夢の心臓が、痛いほど跳ねた。
大我は続ける。
「泣かせたくねぇんだよ。
今日……もう泣いてほしくねぇ。」
冴夢は小さく笑う。
「大我……いま、わたしのこと……
すごく大事にしてくれてる顔してる。」
大我は照れたように眉を寄せた。
「……してるよ。
大事に決まってんだろ……。」
冴夢は、その言葉だけで涙がにじみそうになった。
それを見た大我が、慌てて言う。
「ほら……!
だから言っただろ……今渡したらこうなるって……!」
冴夢はくすっと笑って、
大我の胸にそっと手を添えた。
「……大我。
泣いてもいいよ。
泣かされても……いいよ。」
大我の目がゆっくり揺れる。
冴夢は真っ直ぐに見つめた。
「世那くんのことなら……
一緒に泣くよ。
一緒に読むよ。
一緒に受け止めるよ。」
大我は息を飲んだ。
そして──
胸ポケットから封筒をゆっくり取り出した。
薄い紙が、夕方の光でほんの少し透ける。
大我の声は、震えながらも優しかった。
「……冴夢ちゃん。
一緒に……読んでくれる?」
冴夢は迷いなく、静かに頷いた。
「うん。読むよ。
大我と一緒に。」
その瞬間。
大我の肩から、長い間抱えていた重りの一部が
音もなく落ちた気がした。
ふたりの間に、
春の風がそっと通り抜けた。
兄が残した最後の物語へ。
ふたりで歩き出すために——。
──────────────────────────
冴夢の部屋の窓から、
夕方の光がゆっくりと夜へ変わっていく。
テーブルの上には──
森園から渡された、
世那の最後のプロット。
薄い封筒なのに、
大我にとっては重くて重くて仕方なかった。
「……大我。ゆっくりでいいよ。」
冴夢の声は、
春みたいに柔らかかった。
大我は深く息を吸って、
封筒を両手で開いた。
紙が、かすかに震えている。
大我の指も、同じように震えていた。
冴夢は黙って隣に座り、
ただ、その震えを見守った。
紙を取り出し──
大我は最初の一行を見た。
たった一行。
たったそれだけなのに。
瞬間、
大我の呼吸が止まった。
「……あ……」
声にならない息が漏れる。
紙が手の中で、くしゃりと揺れた。
冴夢はそっと覗き込む。
そこに書かれていたのは──
『――彼女は、笑った。
泣きながら、それでも笑った。
この世界でいちばん守りたい子だった。』
その“彼女”が誰かなんて
考えるまでもなかった。
冴夢も、
胸がきゅうっと締め付けられた。
でも──
大我は違った。
その瞬間。
大我の中で何かが耐えきれなくなった。
「……っ……う……」
肩が震える。
目をぎゅっとつむったのに、
涙が零れた。
ぽたり。
ぽたり。
止まらない。
「……俺……さ……
兄貴の……こういうの……
ずっと……知らなくて……」
冴夢はそっと大我の背中に手を回した。
「うん……」
大我は唇を噛みながら続ける。
「なんで……
なんで言ってくれなかったんだよ……兄貴……」
涙が紙に落ちる。
字が滲む。
それでも大我は目を離せない。
「……こんな……
こんな大事な……気持ち……
俺……知らねぇまま……
兄貴、いなくなって……」
冴夢は大我の肩に頬を寄せる。
「大我……」
「……知らなかった……
全部……
何も返せなかった……
俺……兄貴のこと、何も……」
そこで──
完全に声が潰れた。
大我の身体が崩れ落ちるように揺れ、
頬に伝った涙が冴夢の首筋に落ちる。
冴夢は何も言わず、
ぎゅっと大我を抱きしめた。
小さな身体で、
震える大我を包むように。
「……大我。
返せなかったんじゃないよ。」
「……っ……」
「世那くんね……
大我のこと、ずっと好きだったよ。
大我が生きてるだけでいいって……
きっとそう思ってたよ。」
大我は肩を震わせながら
冴夢にしがみついた。
まるで、
今やっと兄と繋がれた子どものように。
「……冴夢ちゃん……
ごめん……泣いて……
止まらねぇ……」
冴夢は大我の頭に手を添え、
静かに撫でた。
「泣いていいよ。
今日は……泣いていい日だよ。」
大我は喉の奥で小さく声を漏らす。
「……兄貴……
俺……冴夢ちゃん……守るよ……
絶対……絶対……」
冴夢は大我の背中を引き寄せ、
胸の奥でそっと微笑んだ。
「……大我なら、大丈夫。」
涙で濡れた大我の頬。
震える腕。
胸に押し当てられた温度。
それは、
兄の物語の続きへ
ふたりで進む“決意の涙”だった。
しばらくして、
大我の呼吸がゆっくり落ち着くまで、
冴夢は一度も離れなかった。
静かな部屋に
二人の呼吸だけが重なり──
その重なりが、
新しい温度になっていった。
──────────────────────────
大我が落ち着いてきた頃、
冴夢はそっと涙を指で拭ってあげた。
「……続き、読もうか。」
大我は深く息を吸って、
震える手のまま紙をめくった。
薄い紙が、静かに重なり合う。
その文字は、
世那のくせ字で、けれど迷いがなくて──
読んだ瞬間、胸を掴まれるような力があった。
冴夢が隣でそっと寄り添う中、大我は読み上げた。
*
――第一章・導入
『
風の音が止まった。
泣きじゃくる少女が、小さな手で瞼をぬぐった。
夜に置き去りにされた子どもは、
自分の名前を呼んでくれる人の影を
ずっと探し続けていた。
彼女の世界を守るためだけに
大人になった青年は、
その小さな肩に触れた瞬間──
すべてを悟った。
「あぁ、この子を守るために、
俺は生まれたんだ」と。
自分の幸せよりも、
自分の未来よりも、
まず彼女の明日が優先だった。
その笑顔ひとつで、
今日までの全部が報われる。』
*
冴夢の指先が震えた。
(……これ……
完全に……わたしと……世那くん……)
大我は紙を握る手が強張るのを感じた。
「……兄貴……」
冴夢はそっと大我の手に触れた。
「大我……読むの、やめてもいいよ。」
「……いや。読む。」
大我はまぶたを一度閉じて、
次の行へ視線を落とした。
*
――青年の独白
『
守ると言ったのは、
少女の未来が欲しかったからではない。
少女の笑顔が、
自分の世界の全部だったからだ。
彼女は知らないだろう。
どれほど自分が救われていたのか。
少女が笑うたび、
青年の世界は息を吹き返した。
それを伝えようとしたことはない。
伝えたら、
彼女が困るだろうから。
想いは、胸の奥に沈めるもの。
それで十分だった。』
*
読み進めるたびに、
冴夢の息が浅くなる。
「世那くん……そんな……」
大我も喉が詰まる。
(兄貴……
そんなこと、一言も言わなかったくせに……)
冴夢の肩がふるえた。
でも泣いてはいなかった。
むしろ、
世那の想いが胸の奥に静かに溶けていくようだった。
大我は続きを読んだ。
*
――未完の章
『
もし、青年がいなくなったあとも、
少女が笑って生きていけるなら──
それが青年の願いだった。
少女がもう一度、
誰かを信じてくれるのなら。
少女がいつか、
“守りたいと思える人”に
出会えるのなら。
その時は──
青年の存在は、
ただの“過去”でいい。
少女の人生の邪魔をするくらいなら、
名前を忘れてもらっていい。
』
*
そこで、文章はふっと途切れていた。
最後の一行だけ、
掠れるように書き殴られていた。
『――どうか、幸せに。』
読み終えた瞬間。
大我は紙を胸に押し当てて、
声を殺すように息を吸った。
冴夢は震える声で言った。
「……世那くん……
最初から……全部……わかってたんだ……」
大我は首を振る。
「兄貴……本当は……
最後まで……冴夢ちゃんの未来を願って……
……それだけ考えて……」
言葉にならなかった。
冴夢はそっと大我の胸に身体を寄せた。
「……大我。
この物語……
わたし、読めてよかった。」
大我は涙を拭いながら、
紙を崩れそうな手で握る。
「兄貴……最後に……
冴夢ちゃんの“未来”を書いてたんだ……」
冴夢はそっと微笑んだ。
「……でもね。
その“未来”は……
いま、わたしたちが生きてる未来なんだよ。」
大我の肩が、ゆっくり震えた。
「……冴夢ちゃん。」
「うん……」
大我の声は震えていた。
でも、逃げていなかった。
「……兄貴……亡くなる直前……
俺に……最後に言った言葉……覚えてる。」
冴夢の心臓が、ぎゅっと縮む。
大我はまっすぐ冴夢を見られなくて、
でも視線だけは逃げないようにして続けた。
「“さゆ……幸せに”って……言ったんだ。」
冴夢の呼吸がそこで止まった。
世界がふっと揺れたように感じる。
「……え……」
「……血だらけで……目もたぶん見えてなくて…
声も……もう出なくて……
ほとんど息みたいで……
でも……それだけは言った。」
大我は唇を強く噛んだ。
涙を堪えるように。
「息を引き取る瞬間まで冴夢ちゃんを想ってた。」
冴夢の視界が一瞬で滲む。
(……世那くん……そんな……
最後の最後に……わたし……)
「“さゆ……幸せに”」
大我はその言葉を、
まるで兄から託された宝物のように大切に口にする。
「……それが……兄貴の願いだったんだよ……」
冴夢の頬を、涙がひとすじ落ちた。
声にならない声で、
胸の奥の痛みが静かに溢れていく。
大我はそっと冴夢の肩を抱いた。
強くじゃなく、壊れないように。
「……俺、ずっと……
この言葉……言えなかった。」
「……うん……」
「冴夢ちゃんを、余計に苦しめると思って……
俺が言う資格なんてないって思って……」
冴夢は大我の胸に額を寄せた。
涙がぽとぽと落ちる。
でも、それは悲しいだけの涙じゃなかった。
「……言ってくれて……
ありがとう……」
冴夢は震える声で、
大我の胸の前で指をきゅっと握った。
「……世那くん……
わたしのこと、最後まで……」
大我はそっと冴夢の頭に手を添える。
「……兄貴なりに……
ちゃんと未来を願ってたんだ。」
冴夢は顔を上げる。
涙の跡がきらきら光る。
「……ねぇ、大我。」
「……ん?」
冴夢はゆっくり言った。
「世那くんの願い……
わたしたちが叶えていこう。」
大我の胸が熱く震える。
冴夢の手が、大我の手をそっと包む。
「わたし……大我と生きたい。
大我が隣にいる未来が、ほしい。」
大我はもう堪えられなかった。
冴夢を抱きしめ、
その耳元で小さく、深く囁く。
「……冴夢ちゃん。
兄貴が願った“幸せ”、
これから全部……俺が作る。」
冴夢は目を閉じ、
胸の奥で静かに笑った。
「……うん。
わたしも……大我を幸せにしたい。」
ふたりの影が重なり、
涙と温度の混じる抱擁の中で、
世那の最後の願いが、
確かに受け継がれていった。
職場からの書類を受け取りに出ただけのはずなのに──
日常の空気が突然ひやりと揺れた。
「世那くん?」
背中のほうから聞こえたその名前に、
大我の足は反射的に止まった。
胸がどくん、と跳ねる。
(……いま……兄貴の……?)
振り向くと、スーツ姿の男性が目を丸くして立っていた。
「あ。いや。人違いです。すみません……」
男は慌てて頭を下げるが、
その目はじっと大我の顔を見つめている。
「……あの?」
「すみません、すみません……
ちょっと……知り合いに……いえ、えっと……」
言葉を探すように、男は額に手をやった。
「世那……名取世那なとりせな……ですよね。それ」
大我の心臓が一瞬止まる。
「……え……」
その反応に、男は確信したように目を細めた。
「名取世那は兄ですが……あなたは?」
大我の声は、自分でも驚くほど静かだった。
男は深く息を吸って──
仕事の顔に戻るように名刺入れを開いた。
「弟さん……。
どうりで似ていると思いました。」
差し出された名刺には、出版社の名前。
「わたし、世那くんの担当をさせてもらってました。
編集者の──
森園雄二と申します。」
大我の喉が、ごくりと鳴った。
(兄貴の……担当編集……?)
森園は名刺を渡したあと、
大我の表情を見てそっと声を落とした。
「……すみません。
突然お声をかけて、驚かせましたよね。」
「い、いや……大丈夫です。」
本当は大丈夫じゃなかった。
兄の名を、他人の口から
こんな鮮明に呼ばれるなんて思っていなかった。
森園は続ける。
「世那くんが亡くなったのは、頭では理解してるんです。でも、あの子の作品が…文字が…生きてて…僕にとって、彼は特別でした。あんな魂ごと優しさで包める文章を書ける作家はいない…。」
「やはりご兄弟ですね。世那くんと同じ空気を持ってらっしゃる。世那くんよりも強い眼差しと…あ。いえすみません…職業病というか」
森園は頭を掻きながら俯く。
「あの…俺、ずっと兄とは暮らしてなくて…よかったら教えてくれませんか?作家、名取世那の事。」
森園の目がほっと緩む。
「僕でよければ!
……話してもいいんですか?
ご家族の方にこうして直接聞かれるの、初めてで……なんだか嬉しいです。」
大我は小さくうなずいた。
「分かりました。
じゃあ……少し長くなりますが。」
コンビニの横の、風が通る細い道。
人通りが途切れたのを確認して、
森園はゆっくり話し始めた。
「世那くんは……とにかく“優しい”作家でした。
編集としてはもっとわがまま言ってほしいくらいに。」
「……優しい……」
「はい。
でもそれは“人に甘い”とかじゃなくて……
“読者を信じきっている”優しさなんです。」
森園の声は、どこか誇らしげだった。
「どんな苦しい描写を書いても、
その先に必ず救いを置こうとする。
“読んだ人がひとりでも、明日を信じられるならいい”
それが彼の口癖でした。」
大我の胸が熱く揺れる。
(兄貴……らしい……)
森園は続けた。
「それと……担当として、ずっと心に残ってることがあります。」
「……?」
「世那くん、打ち合わせの日……
必ず早く来てたんです。」
「え……?兄貴が……?」
「えぇ。30分、1時間は当たり前。
『弟が早く来るから、絶対先に着いて待ってるって癖が抜けない』って笑ってましたよ。」
大我の手がびくりと震えた。
(……そう言えば……俺…兄貴を待った事…ない…)
胸の奥で、懐かしい痛みがじんじん広がる。
森園は気づかないふりをして続ける。
「でね、話題になるのはいつも“弟さん”だったんです。」
「俺、の……?」
「えぇ。
『うちの弟、最近背が伸びてきたんです』
『頑張り屋なんで、俺よりすごいことするかもしれませんよ』
『ちょっと不器用だけど、あれがいいんですよ』
──こんなふうに、いつも誇らしそうで。」
大我の視界がにじんだ。
(……兄貴……
そんなふうに……俺を……)
森園は、少し遠くを見るような目で微笑む。
「だから……いまこうして弟さんと会えて……
なんだか僕も救われた気がします。」
大我は俯き、深く息を吸った。
「……俺……兄貴に……
何も返せなかったのに……」
「返すとかじゃないですよ。」
森園は大我の言葉を否定せず、
柔らかく包み込むように言った。
「世那くんはね。
あなたが“生きてる”ってだけで十分だったんです。」
大我の喉から、静かな息が漏れた。
(……生きているだけで……
十分……?)
森園は名刺入れを閉じると、
ふっと表情を柔らかく緩めた。
「名取世那という作家は……
最後まで、弟さんを誇っていました。」
その言葉は、大我の胸の中心に
静かに、だけど深く沈んでいった。
ずっと抱えていた
“兄に何も返せなかった”という痛みが
少しずつ形を変えていく。
大我はゆっくりと息を吸い、小さく頭を下げた。
「……教えてくれて……
本当に、ありがとうございます。」
森園は首を横に振った。
「いえ。
こちらこそ……感謝しています。
それから──」
森園は鞄の中をごそごそと探り、
丁寧に布で包んだ小さな封筒を取り出した。
「これを。
ずっと手放せなくて……
でも、世那くんはきっと……弟さんに渡したかったのかもしれません。」
「……ッ! これ……」
震える指で封筒を受け取る。
触れた瞬間に分かった。
知っている──
この“紙”の厚み、兄の字の癖。
「世那くんの、最後の作品のプロットです。」
森園は静かに目を伏せた。
「形にはなりませんでした。
けれど……多分とても大切な人の話だった。
命を削って書いていた気がします。」
大我の胸が痛いほど跳ねた。
「兄貴……遺品の中に……書きかけの原稿が、あって……
これ……たぶん、その続き……?」
森園は頷いた。
「えぇ。
“彼女を守る物語を書きたい”って言ってました。」
大我の呼吸が止まる。
(……“彼女”……
兄貴の……大切な……)
春の風がふたりの間をそっと撫でる。
封筒の中にあるものは、
もう二度と増えることのない兄の“最後の物語”。
その物語の主人公が誰なのか──
考えるまでもなかった。
胸の奥が、苦しくて、痛くて、
でも……どこか温かい。
森園は大我の表情を見て、
優しく笑った。
「兄弟って、不思議ですよね。
どれだけ離れていても……
どれだけ別々の人生を歩んでも……
大事に思っているものは、似るものです。」
大我はプロットの封筒を胸に抱いた。
(兄貴……
冴夢ちゃんのこと、最後まで……)
そして小さく、決意を込めて思う。
(……冴夢ちゃんにも、ちゃんと伝えよう。
兄貴がどんな気持ちで生きて……
俺たちを、どう見てたのかを。)
長い間触れたくなかった痛みが、
ゆっくりと光に変わっていく。
胸に抱いた封筒の温度は、
大我には“重さ”ではなく
“不思議なあたたかさ”として伝わっていた。
兄の字。
兄の癖。
兄の息づかい。
そして──
兄が最後に守ろうとした“誰か”。
そのすべてが、
薄い紙の中に静かに息をしている。
森園は、その様子を穏やかに見守りながら言った。
「……もし、つらくなったら。
読むのをやめてもいいんです。
でも……世那くんはきっと、
“弟さんなら最後まで読んでくれる”って、
そう信じて書いていたと思います。」
大我はゆっくりと頷いた。
「……読みます。
ちゃんと……全部。」
声はかすれていた。
けれど迷いはなかった。
森園はほっと息をつき、
深く一礼した。
「今日は、本当にありがとうございました。
また……何かあればいつでも。」
そして静かに去っていく姿が角を曲がると、
大我はその場に立ち尽くしたまま、
しばらく微動だにできなかった。
(兄貴……
本当に……俺を……
こんなに……)
気づけば目のふちが熱い。
泣くつもりなんてなかったのに。
でも──
涙は痛くなかった。
初めて、
“救われる涙”だった。
胸に抱いた封筒が
ぽつ、と小さな音を立てたように思えた。
それはたぶん、
兄からの「ありがとう」だった。
そして同時に──
もうひとつの感情が胸に広がる。
(冴夢ちゃんにも……
早く見せてやりたい……
兄貴がどれだけ大事にしていたか……)
春の風が吹く。
その風は、
今日だけは冷たくなかった。
大我は静かに息を吸い、
胸の前で封筒をそっと握りしめた。
——兄の物語は終わってしまった。
でも
兄が守りたかった“彼女”との物語は、
いま俺が続きに触れている。
その事実が、
静かに優しく、大我の背中を押した。
(冴夢ちゃん……会いたい。
この気持ちを……
今すぐ伝えたい。)
誰もいない路地で、
恋人の名前が胸の中にそっと灯る。
その灯りは、過去の痛みも未来の不安も照らして──
やがてひとつの想いに形を変えた。
「……冴夢。」
小さく呟いたその名前は、春の風に揺れて消えていった。
でも大我の中には、
強く、やわらかく残っていた。
——帰ろう。
兄の想いを抱えたまま。
新しい恋を胸にしたまま。
大学の前の道は、夕方の光がゆっくり色を変えていく時間だった。
講義を終えた学生たちがぞろぞろ帰っていく中、
冴夢は門の前でスマホをしまおうとした——そのとき。
「冴夢ちゃん。」
あの声が、ふっと背中から落ちてきた。
振り返ると、
いつものスーツ姿の大我が立っていた。
でも——
いつもと違う。
表情が少し硬い。
でも目だけは、強く、優しく、揺れている。
冴夢は胸がぎゅっと縮む。
「大我……?どうしたの?」
大我はゆっくり近づいてきて、
ポケットの上を無意識に押さえた。
そこには——
今日受け取った、兄の最後のプロット。
「冴夢ちゃん。話があるんだ……」
静かな声だった。
でもその静けさが、
逆にどれだけ大事な話なのかを伝えてくる。
冴夢は一歩、大我に近づいた。
「……うん。いいよ。」
夕方の光がふたりの影を長く伸ばし、
その間に、ほんの少しだけ風が通った。
大我は息を吸い込み、
胸ポケットをそっと押さえたまま言った。
「今日……兄貴の“編集者”に会った。」
冴夢のまつげが小さく揺れる。
「……世那くんの……?」
「うん。」
大我の声は震えているようで、
でも、逃げる気配はまったくなかった。
「それで……兄貴が最後に書いてた“物語”を……
俺、預かってきた。」
冴夢の胸に、静かな影が落ちた。
(……世那くんの……最後……)
大我は自分の胸を押さえたまま、
言葉を探すように目を伏せる。
「冴夢ちゃん。
渡したいんだけど……」
そして、顔を上げる。
その目には、
痛みでも罪悪感でもなく——
覚悟 があった。
「……読むの、怖いんだ。」
冴夢は、はっと息をのむ。
「大我……」
「でも……冴夢ちゃんにも、知ってほしい。
兄貴がどんな気持ちで生きて……
最後に何を残そうとしてたのか。」
夕方の風に揺れながら、
大我は胸ポケットの封筒を、ゆっくり触れた。
「でもな……
今、ここで渡したら……
冴夢ちゃんが泣くんじゃねぇかって……」
冴夢の心臓が、痛いほど跳ねた。
大我は続ける。
「泣かせたくねぇんだよ。
今日……もう泣いてほしくねぇ。」
冴夢は小さく笑う。
「大我……いま、わたしのこと……
すごく大事にしてくれてる顔してる。」
大我は照れたように眉を寄せた。
「……してるよ。
大事に決まってんだろ……。」
冴夢は、その言葉だけで涙がにじみそうになった。
それを見た大我が、慌てて言う。
「ほら……!
だから言っただろ……今渡したらこうなるって……!」
冴夢はくすっと笑って、
大我の胸にそっと手を添えた。
「……大我。
泣いてもいいよ。
泣かされても……いいよ。」
大我の目がゆっくり揺れる。
冴夢は真っ直ぐに見つめた。
「世那くんのことなら……
一緒に泣くよ。
一緒に読むよ。
一緒に受け止めるよ。」
大我は息を飲んだ。
そして──
胸ポケットから封筒をゆっくり取り出した。
薄い紙が、夕方の光でほんの少し透ける。
大我の声は、震えながらも優しかった。
「……冴夢ちゃん。
一緒に……読んでくれる?」
冴夢は迷いなく、静かに頷いた。
「うん。読むよ。
大我と一緒に。」
その瞬間。
大我の肩から、長い間抱えていた重りの一部が
音もなく落ちた気がした。
ふたりの間に、
春の風がそっと通り抜けた。
兄が残した最後の物語へ。
ふたりで歩き出すために——。
──────────────────────────
冴夢の部屋の窓から、
夕方の光がゆっくりと夜へ変わっていく。
テーブルの上には──
森園から渡された、
世那の最後のプロット。
薄い封筒なのに、
大我にとっては重くて重くて仕方なかった。
「……大我。ゆっくりでいいよ。」
冴夢の声は、
春みたいに柔らかかった。
大我は深く息を吸って、
封筒を両手で開いた。
紙が、かすかに震えている。
大我の指も、同じように震えていた。
冴夢は黙って隣に座り、
ただ、その震えを見守った。
紙を取り出し──
大我は最初の一行を見た。
たった一行。
たったそれだけなのに。
瞬間、
大我の呼吸が止まった。
「……あ……」
声にならない息が漏れる。
紙が手の中で、くしゃりと揺れた。
冴夢はそっと覗き込む。
そこに書かれていたのは──
『――彼女は、笑った。
泣きながら、それでも笑った。
この世界でいちばん守りたい子だった。』
その“彼女”が誰かなんて
考えるまでもなかった。
冴夢も、
胸がきゅうっと締め付けられた。
でも──
大我は違った。
その瞬間。
大我の中で何かが耐えきれなくなった。
「……っ……う……」
肩が震える。
目をぎゅっとつむったのに、
涙が零れた。
ぽたり。
ぽたり。
止まらない。
「……俺……さ……
兄貴の……こういうの……
ずっと……知らなくて……」
冴夢はそっと大我の背中に手を回した。
「うん……」
大我は唇を噛みながら続ける。
「なんで……
なんで言ってくれなかったんだよ……兄貴……」
涙が紙に落ちる。
字が滲む。
それでも大我は目を離せない。
「……こんな……
こんな大事な……気持ち……
俺……知らねぇまま……
兄貴、いなくなって……」
冴夢は大我の肩に頬を寄せる。
「大我……」
「……知らなかった……
全部……
何も返せなかった……
俺……兄貴のこと、何も……」
そこで──
完全に声が潰れた。
大我の身体が崩れ落ちるように揺れ、
頬に伝った涙が冴夢の首筋に落ちる。
冴夢は何も言わず、
ぎゅっと大我を抱きしめた。
小さな身体で、
震える大我を包むように。
「……大我。
返せなかったんじゃないよ。」
「……っ……」
「世那くんね……
大我のこと、ずっと好きだったよ。
大我が生きてるだけでいいって……
きっとそう思ってたよ。」
大我は肩を震わせながら
冴夢にしがみついた。
まるで、
今やっと兄と繋がれた子どものように。
「……冴夢ちゃん……
ごめん……泣いて……
止まらねぇ……」
冴夢は大我の頭に手を添え、
静かに撫でた。
「泣いていいよ。
今日は……泣いていい日だよ。」
大我は喉の奥で小さく声を漏らす。
「……兄貴……
俺……冴夢ちゃん……守るよ……
絶対……絶対……」
冴夢は大我の背中を引き寄せ、
胸の奥でそっと微笑んだ。
「……大我なら、大丈夫。」
涙で濡れた大我の頬。
震える腕。
胸に押し当てられた温度。
それは、
兄の物語の続きへ
ふたりで進む“決意の涙”だった。
しばらくして、
大我の呼吸がゆっくり落ち着くまで、
冴夢は一度も離れなかった。
静かな部屋に
二人の呼吸だけが重なり──
その重なりが、
新しい温度になっていった。
──────────────────────────
大我が落ち着いてきた頃、
冴夢はそっと涙を指で拭ってあげた。
「……続き、読もうか。」
大我は深く息を吸って、
震える手のまま紙をめくった。
薄い紙が、静かに重なり合う。
その文字は、
世那のくせ字で、けれど迷いがなくて──
読んだ瞬間、胸を掴まれるような力があった。
冴夢が隣でそっと寄り添う中、大我は読み上げた。
*
――第一章・導入
『
風の音が止まった。
泣きじゃくる少女が、小さな手で瞼をぬぐった。
夜に置き去りにされた子どもは、
自分の名前を呼んでくれる人の影を
ずっと探し続けていた。
彼女の世界を守るためだけに
大人になった青年は、
その小さな肩に触れた瞬間──
すべてを悟った。
「あぁ、この子を守るために、
俺は生まれたんだ」と。
自分の幸せよりも、
自分の未来よりも、
まず彼女の明日が優先だった。
その笑顔ひとつで、
今日までの全部が報われる。』
*
冴夢の指先が震えた。
(……これ……
完全に……わたしと……世那くん……)
大我は紙を握る手が強張るのを感じた。
「……兄貴……」
冴夢はそっと大我の手に触れた。
「大我……読むの、やめてもいいよ。」
「……いや。読む。」
大我はまぶたを一度閉じて、
次の行へ視線を落とした。
*
――青年の独白
『
守ると言ったのは、
少女の未来が欲しかったからではない。
少女の笑顔が、
自分の世界の全部だったからだ。
彼女は知らないだろう。
どれほど自分が救われていたのか。
少女が笑うたび、
青年の世界は息を吹き返した。
それを伝えようとしたことはない。
伝えたら、
彼女が困るだろうから。
想いは、胸の奥に沈めるもの。
それで十分だった。』
*
読み進めるたびに、
冴夢の息が浅くなる。
「世那くん……そんな……」
大我も喉が詰まる。
(兄貴……
そんなこと、一言も言わなかったくせに……)
冴夢の肩がふるえた。
でも泣いてはいなかった。
むしろ、
世那の想いが胸の奥に静かに溶けていくようだった。
大我は続きを読んだ。
*
――未完の章
『
もし、青年がいなくなったあとも、
少女が笑って生きていけるなら──
それが青年の願いだった。
少女がもう一度、
誰かを信じてくれるのなら。
少女がいつか、
“守りたいと思える人”に
出会えるのなら。
その時は──
青年の存在は、
ただの“過去”でいい。
少女の人生の邪魔をするくらいなら、
名前を忘れてもらっていい。
』
*
そこで、文章はふっと途切れていた。
最後の一行だけ、
掠れるように書き殴られていた。
『――どうか、幸せに。』
読み終えた瞬間。
大我は紙を胸に押し当てて、
声を殺すように息を吸った。
冴夢は震える声で言った。
「……世那くん……
最初から……全部……わかってたんだ……」
大我は首を振る。
「兄貴……本当は……
最後まで……冴夢ちゃんの未来を願って……
……それだけ考えて……」
言葉にならなかった。
冴夢はそっと大我の胸に身体を寄せた。
「……大我。
この物語……
わたし、読めてよかった。」
大我は涙を拭いながら、
紙を崩れそうな手で握る。
「兄貴……最後に……
冴夢ちゃんの“未来”を書いてたんだ……」
冴夢はそっと微笑んだ。
「……でもね。
その“未来”は……
いま、わたしたちが生きてる未来なんだよ。」
大我の肩が、ゆっくり震えた。
「……冴夢ちゃん。」
「うん……」
大我の声は震えていた。
でも、逃げていなかった。
「……兄貴……亡くなる直前……
俺に……最後に言った言葉……覚えてる。」
冴夢の心臓が、ぎゅっと縮む。
大我はまっすぐ冴夢を見られなくて、
でも視線だけは逃げないようにして続けた。
「“さゆ……幸せに”って……言ったんだ。」
冴夢の呼吸がそこで止まった。
世界がふっと揺れたように感じる。
「……え……」
「……血だらけで……目もたぶん見えてなくて…
声も……もう出なくて……
ほとんど息みたいで……
でも……それだけは言った。」
大我は唇を強く噛んだ。
涙を堪えるように。
「息を引き取る瞬間まで冴夢ちゃんを想ってた。」
冴夢の視界が一瞬で滲む。
(……世那くん……そんな……
最後の最後に……わたし……)
「“さゆ……幸せに”」
大我はその言葉を、
まるで兄から託された宝物のように大切に口にする。
「……それが……兄貴の願いだったんだよ……」
冴夢の頬を、涙がひとすじ落ちた。
声にならない声で、
胸の奥の痛みが静かに溢れていく。
大我はそっと冴夢の肩を抱いた。
強くじゃなく、壊れないように。
「……俺、ずっと……
この言葉……言えなかった。」
「……うん……」
「冴夢ちゃんを、余計に苦しめると思って……
俺が言う資格なんてないって思って……」
冴夢は大我の胸に額を寄せた。
涙がぽとぽと落ちる。
でも、それは悲しいだけの涙じゃなかった。
「……言ってくれて……
ありがとう……」
冴夢は震える声で、
大我の胸の前で指をきゅっと握った。
「……世那くん……
わたしのこと、最後まで……」
大我はそっと冴夢の頭に手を添える。
「……兄貴なりに……
ちゃんと未来を願ってたんだ。」
冴夢は顔を上げる。
涙の跡がきらきら光る。
「……ねぇ、大我。」
「……ん?」
冴夢はゆっくり言った。
「世那くんの願い……
わたしたちが叶えていこう。」
大我の胸が熱く震える。
冴夢の手が、大我の手をそっと包む。
「わたし……大我と生きたい。
大我が隣にいる未来が、ほしい。」
大我はもう堪えられなかった。
冴夢を抱きしめ、
その耳元で小さく、深く囁く。
「……冴夢ちゃん。
兄貴が願った“幸せ”、
これから全部……俺が作る。」
冴夢は目を閉じ、
胸の奥で静かに笑った。
「……うん。
わたしも……大我を幸せにしたい。」
ふたりの影が重なり、
涙と温度の混じる抱擁の中で、
世那の最後の願いが、
確かに受け継がれていった。
0
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