兄嫁〜あなたがくれた世界で〜

SAKU

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二十三章

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冴夢の誕生日の朝は、
いつもと変わらない光のはずなのに
今日だけは少しだけ冷たく見えた。

夜には大我との“約束”がある。
誕生日を祝ってくれる、大切な時間。

でもその前に——
どうしても、ひとりで来なきゃいけない場所があった。

区役所。

広いロビーは静かで、
住民票の機械の音だけが淡々と響いている。

冴夢は深呼吸をひとつして、
番号札を握りしめた。

手がすこし震えていた。

(……大我の苦しみを……少しでも……)

あの人の胸の奥に
ずっと刺さっている“無意識の罪悪感”。

兄の妻のまま隣に立つことが
大我を苦しめるなら——
わたしが動かなきゃいけない。

「……23番でお待ちの方~」

呼ばれて、窓口に歩く。

黒髪の優しそうな職員のお姉さんが
にこっと挨拶する。

「はい。本日はどうされましたか?」

冴夢は小さな声で言う。

「……分籍を、したくて……」

職員はペンを持つ手を止めた。
数秒だけ、静かな理解の時間。

目線がゆっくり冴夢の婚姻欄に落ちる。

そこには

名取世那なとりせな(死亡)
配偶者:名取冴夢なとりさゆ

わずか3日間だけ存在した
“夫婦”という文字。

職員は自然に、そっと声を落とした。

「……そうでしたか。」

責めるでもなく、哀れむでもなく。
その声音にはただ、敬意だけがあった。

「名字は……どうされますか?」

その問い。

一番聞かれたくて、一番聞かれたくなかった問い。

冴夢はほんの少しだけ息を吸い、
迷いのない声で答えた。

「名字は……そのまま、“名取”でいたいです。」

職員は優しく頷いた。

「……分かりました。
大切な方のお名前なんですね。」

その一言で——
冴夢の胸がきゅっと締め付けられた。

「……はい。
たった3日でも……わたしにとっては、大事な……」

声が少し震える。

職員はそっと書類を差し出す。

「では、こちらにご記入ください。
名取のまま“独立の戸籍”になります。」

冴夢はペンを持った。

紙の上で、自分の名前を書く。

名取 冴夢

それは“世那と歩んだ時間”を否定するんじゃなく、
大我と生きる未来へ進むための、静かなけじめ。

書き終わったとき——
胸の奥がじんわり温かくなった。

職員は優しく書類を受け取る。

「……お誕生日なんですね?」

「……え?」

「今日の日付。
二十歳の誕生日に来られる方、珍しくて。」

冴夢は小さく笑った。

「……今日がいい、って思って……。」

職員は深く頷いた。

「素敵だと思います。
どうか、これからたくさん幸せになってください。」

その言葉に、
冴夢は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

(……大我……
これで少しは……苦しみが軽くなるかな……)

外に出ると、
春の風がそっと頬を撫でた。

ポケットの中で、小さく震えるスマホ。
大我から届いたメッセージ。

『冴夢ちゃん。
仕事終わり、迎えに行く。
夜……楽しみにしてろよ。』

冴夢は空を見上げた。

(……うん。
わたしも楽しみ……)

胸の奥に
昨日とは違う、静かな強さが灯っていた。

“名取冴夢”として生きる決意。
そして“大我の恋人”として未来へ進む決意。

その二つを抱えたまま、
冴夢はゆっくり家へ歩き出した。

──────────────────────────


大我が玄関の鏡の前でネクタイを整えていた。
誕生日の夜、ふたりで出かける準備。

冴夢はコートを脱ぎながら、
胸の奥にしまっていた“言葉”をそっと握りしめた。

「……大我、話があるの。」

大我は振り返る。
誕生日を祝う夜のつもりだったのに、
冴夢の声が少しだけ真剣で、眉を寄せた。

「……? うん。」

冴夢は一歩近づいて、
胸の前でそっと手を重ねる。

「今日、私……20歳になったの。」

「……うん。知ってる。お祝いするんだろ?」

大我は笑おうとしていた。
でも冴夢の“真っ直ぐすぎる目”に気づいて、
その笑みが少しずつほどける。

冴夢は続けた。

「それでね……ちゃんと“大人”になろうと思ったの。」

大我の喉が、かすかに動く。

「……どういう意味?」

冴夢は視線をそっと落とし、
震える指先で胸元を握った。

「……世那くんが、心配しないように。」

大我の呼吸が少しだけ止まった。

冴夢は顔を上げる。
もう泣く目じゃない。
まっすぐ前だけ見ている、大人の目。

「今日、自分で選んだの。」

「……選んだ……?」

「今日、区役所で……」

その言葉を聞いた瞬間。
大我の心臓がどくん、と跳ねた。

玄関の空気が、静かに凍る。

「……冴夢ちゃん……何を……したの……?」

冴夢は少しだけ微笑む。
泣く代わりに、
誰かのために強くなろうとする笑み。

「……分籍したの。
 名取のまま、ひとりの戸籍になったの。」

大我の目が、驚きで大きく揺れた。

「──……え……?」

「名取をやめたくないから。
 でも……世那くんの“妻”のままでいると、大我を苦しめちゃうから。」

冴夢の声は震えてない。
でもその強さが逆に胸を締めつける。

「だから……ちゃんと“けじめ”をつけたの。
 大我が少しでも、楽になれるように。」

大我の手が、ゆっくり下がる。

ネクタイを締める手も止まって、
ただ、冴夢を見つめていた。

「……冴夢ちゃん……
 そんな大事なこと……俺のため……ひとりで?」

冴夢はこくりと頷いた。

「うん。
 だって……わたし、大我と生きたいんだもん。」

その一言で——
大我の目に、じわりと光が溢れた。

「……ひとりで頑張ったんだなぁ……」

大我はもう我慢できなかった。

冴夢を腕の中に引き寄せ、
ぎゅっと抱きしめた。

「……ありがとう……冴夢ちゃん」

冴夢は小さく笑いながら、
大我の胸に顔を預けた。

「ううん。
 ちゃんと“未来の冴夢”のためにしたんだよ。」

大我は震える声で囁く。

「……冴夢…
 俺……お前と……ずっと一緒にいるから……」

冴夢の心臓が跳ねた。

でも、怖くなかった。

むしろ、当たり前みたいに胸が温かくなった。

「……わたしも……」

玄関の薄い明かりの中。
ふたりの影がゆっくり重なる。

大我は冴夢の頭を抱きしめたまま、
深く、深く息を吸った。

「……ありがとう。
 俺……絶対お前の人生、大事にする。」

冴夢は目を閉じて、
その胸の音にそっと寄り添った。

「……うん。
 大我なら、大丈夫。」

その瞬間──
たったひとつの“けじめ”が、
ふたりの未来を静かに開いていった。

──────────────────────────

大我は冴夢を抱きしめたまま、
胸の奥で静かに噛み締めていた。

冴夢の決意。
冴夢の勇気。
冴夢の未来を、
誰より先に“大我”へ向けてくれたこと。

ゆっくり腕をほどき、
冴夢の頬に触れる指先が
ほんの少し強くなった。

「……冴夢。」

呼び方が変わった。
“ちゃん”が消えていた。
優しい音の奥に、
今まで隠していた熱が、確かにあった。

冴夢は、はっと息をのむ。

大我の視線はもう迷っていなかった。
まっすぐで、強くて、
冴夢の全部を見ている目だった。

「……今日のこと、絶対に忘れない。俺、お前の覚悟に……ちゃんと応える。」

冴夢の心臓が、どくん、と跳ねる。

大我はそっと冴夢の髪を耳にかけ、
その仕草すら、今までよりずっと“男”だった。

「……冴夢。覚悟しろ。
 これからは遠慮しないから。」

冴夢の呼吸が止まる。

さっきまで優しく抱いていた腕の温度が、
ゆっくりとした“情熱”に変わっていた。

ほんの一瞬。
世那に似ていた気配が
完全にーー消えた。

そこにいるのは、
兄の影を背負った男じゃない。

冴夢を選んだ、
太陽みたいに熱い 大我そのもの だった。

冴夢は思わず胸元を押さえる。

(……あれ……?
 なんか……雰囲気……違う……
 え……大我……?)

大我は微かに笑って言う。

「とりあえず…いくぞ。忘れらんない誕生日にしてやるから。」

その声に、
冴夢は一瞬、本気で思った。

(……え……?
 わたし……選択……間違えた……?
 いや……違う……でも……え……??)

玄関の灯りの下で、
ふたりの影がもう一度重なり──

“優しい大我”の物語は終わり、
“本当の大我”の物語が静かに始まった。

────────────────────────
大我に連れられて辿り着いた店は──
落ち着いた照明に木の香りが混じる小さなレストラン。

扉を開けると、奥から気だるい声が聞こえた。

「おー……やっと来た。遅いんだよ大我。予約の意味わかってる?」

大我が苦笑しながら手を上げる。

「聖、悪い。こいつが色々……頑張ってくれたからさ。」

冴夢は“こいつ”に軽くむっとしつつも、
なにこの距離感……と戸惑う。

「はじめまして。彼女ちゃん?
 俺、笹本聖ささもとひじり。大我と高校からの腐れ縁ね。当レストランへようこそ。誕生日だって?おめでとう。」

冴夢がぺこりと頭を下げると──

聖は、大我を親指で指してニヤッと笑った。

「で、そこのヘタレに
 覚悟決めさせた子が君ね?」

「……えっ」

「聖!おまえ……言い方!!」

聖は肩をすくめる。

「いやいや?俺この間、居酒屋で背中押した時
こいつマジで震えてたからね?」

「震えてねぇよ。」

「冴夢ちゃんの話になると
 声のトーン三段階くらい下がるからね?」

「……うるせぇな。」

その言い合いが、あまりに自然で。
兄弟でも友達でもない“特別な距離”って感じで。

冴夢はぽかんとしてしまう。

すると聖が、冴夢を指さした。

「ほら、顔に書いてあるよ。
 “あれ?大我ってこんな人?”って。」

「っ……!」

冴夢の心がズキュンと跳ねる。

聖は大笑いする。

「そう、それそれ。
 その戸惑いがめちゃ正しい。」

そして冴夢へ、いたずらっぽい目で言った。

「こいつの本質、全然上品じゃないよー。」

「聖てめぇ!!!」

「え~?散々“お兄ちゃん”の殻かぶってたのに、
 やっと剥けたんじゃん。
 俺はむしろ祝福してんだけど?」

「……猫被り…?」

聖はニコッと笑った。

「こいつの愛し方、たぶん君が思ってるようなもんじゃない。
ただ、君を守るために、猫っ…てか“世那”に寄せてただけ。
大我はさ、陽だまりの世那さんとは真逆。
本来は“太陽”だよ。
 熱いし、重いし、誠実だし。
 君が動揺するのもそりゃ当然。」

「………………」

「おまえッいい加減に…
冴夢、信じなくていいからな!?」

「いや信じたほうがいいって。本気出した大我、めっちゃ一途だから。」

そして、少しだけ真面目な目をして、

「居酒屋でな……
 “大事にしたい子がいる”って
 初めてこいつが言ったんだよ。」

冴夢が瞬きした。

大我は顔を赤くして、

「言うな……マジで言うな……!」

聖は悪戯っぽく笑って続ける。

「で、誰か聞いたら
 “冴夢だ”って。
 目、死ぬほど真剣だった。」

冴夢の胸が、ぎゅうぅっと熱くなる。

聖は手を広げた。

「だから──
今日ここに連れてきたって時点で大我、本気中の本気。」

「……ここ?……」

「うん。ここ、俺の店だから。俺に紹介したかったんだよなぁ。大我?」

「…るせぇ…」

聖は冴夢を優しく見る。

「困惑するだろうけど、
 それでいいんだよ。
 ゆっくり馴染めばいい。」

冴夢は小さくうなずく。

「……はい……」

でも胸の中は、それどころじゃない。

(……大我……の本質……?なんか……落差で……心臓もたないよ)

聖はキッチンに戻りながら振り向く。

「料理出すまでゆっくりしてな~。大我、変なことして泣かせたらマジで許さんからなー。」

「しねぇよ!!」

そのツッコミの鋭さが
さっきまでの“優しい大我”じゃなくて、本性の大我だった。

冴夢は思わず、そっと大我の横顔を見る。

(…いつもの落ち着いた優しさじゃない……もっと……熱い……
 なんかドキドキする……)

大我はその視線にすぐ気づいて、
少し照れたように髪を掻いた。

「……悪い。
 聖、ああ見えて気遣いの塊だから。冴夢の前で調子乗ってんだよ。」

「……ううん。
 あの……さっきの……本当の大我、って……」

言った瞬間、空気が変わった。

大我がゆっくり冴夢の方へ向き直る。

目が、真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐで。

「……本当の俺が怖い?嫌?」

心臓が跳ねた。

「こ、怖いとかじゃなくて……
 なんか……違って見えて……」

大我は苦笑して、一歩近づく。

「違って見えるのは当たり前だよ。冴夢の前じゃずっと……
 “兄貴”に寄せてたから。」

「……やっぱり、そうなんだ……」

大我は冴夢の髪を、指でそっと触れた。

優しく触れるのに、
その指先は今までよりずっと“熱い”。

「……でも、もう誤魔化さない。
 冴夢。
 お前が今日、大人になるって
 俺のためにあんな決断して……隠せるわけ、ねぇだろ。」

「っ……」

熱が、一気に近かった。

「冴夢。
 俺、本当は……世那みたいな見守る優しさじゃなくて、
 お前を丸ごと包むの方が性に合ってる。」

冴夢(……まるごと…!?)

大我は静かに微笑む。

「選択間違ったって思った?」

「えっ……!」

さっき心で思ったことを、言い当てられたように感じて
冴夢は耳まで真っ赤になる。

「い、いや!違うの……!
 ただ……急に強くなったというか……
 あの……ギャップというか……!」

大我はくすっと笑って、
冴夢の頬にそっと触れた。

「大丈夫。
 ゆっくり慣れればいい。
 俺の“本気”も、
 俺の“熱さ”も、
 全部……時間をかけて知っていけばいい。」

「……大我……でもね。ずっとそばにいてくれた“あの大我”も大我だとおもうから、だから大我をもっと知りたい!義弟じゃない、彼氏の大我を。」

大我が、ふわりと笑う

「逃げる気、ないな?」

その声に、冴夢の心臓が本当に止まりそうになる。

(……逃げ……ない……
 むしろ……近づきたい……)

冴夢は小さく首を横に振る。

大我の目が、ほんの少しだけ嬉しそうに細まった。

「ならいい。」

その“ならいい”の破壊力ときたら。

聖が後ろから料理を運びながら言う。

「ほらねー冴夢ちゃん。
 こいつ、こっちのモードが本性。」

「黙れ。冴夢が引くだろ。」

「引かせたらそれはお前が原因!俺のせいじゃねーよ。」

「………………。」

大我は顔を赤くしながらも、
逃げずに冴夢を見た。

「……冴夢。
 これから慣れてね。俺本気でいくから。」

その言葉に、冴夢は確信する。

(……ああ……
 覚悟決めたんだ……
 大我……)

皿を持ったまま、聖が超真顔で言い放った。

「なぁ、イチャつくのメシの後にしてくれね?」

空気が一瞬で凍りつく。

「っ……!!?」

「誰がいちゃついてんだよ!!」

聖はノータイムで切り返す。

「この距離感で言うな?
 てか冴夢ちゃん、息あんま吸ってなくない?
 大我の圧すごくて呼吸奪われてね?」

「テメェ……マジで!!」

ケラケラ笑いながら皿を置く聖。

「いや~でもさ。
 大我がこんな顔するの初めて見たわ。
 学生時代なんて全然モテてたくせに、全員スルー。」

「え……大我……モテてたの……?」

「あ!?いや、あの、違──」

「告られ慣れすぎて、
 “あ、無理っす”って即答。
 オブラート皆無。」

「ひど……。」

「やめろ!!!」

にやにや笑いのまま、聖は続ける。

「でもさ、冴夢ちゃんのことになると
 途端に不器用すぎてさ。
 今日なんて見てみ?
 顔ずっと赤いから。」

「は!?赤くねぇよ!!」

(いや赤い……耳も……めっちゃ赤い……)

聖はクスクス笑いながら、

「ま、安心しな冴夢ちゃん。
 本気の相手にはこいつ、
 優しいクセに熱量えぐいタイプだから。

 そのうち“普通の大我”が恋しくなるくらいな。」

「っ……そ、それは……困る……」

大我は一瞬固まり、ゆっくりと微笑んだ。

その微笑みはさっきまでよりずっと深く、そして熱かった。

「困らせる気はないよ……
 でも……お前が離れないなら、
 俺はもう遠慮しねぇ。」

「……っ……」

「本気の大我おもしれーな!!
 初めて見たわ。その調子でがんがん行け!!」

「お前ほんと……あとで覚えとけよ。」

「あー怖い怖い。
 冴夢ちゃん守られてるから安心だわ~」

大我と聖の掛け合いを眺めながら、
冴夢の胸はずっとざわざわしていた。

(……太陽みたい。
 あったかいのに、近づくと熱い……
 なんか……ドキドキが止まらない)

皿を並べ終えた聖が、ふっと優しい目を向ける。

「じゃ、ゆっくり食べて。
 こっちは祝う気満々なんだから。」

「……ありがとうございます……」

「いいっていいって。
 こっちも大我が幸せになるの初めて見るからさ。
 いいもん見せてもらった。」

「……聖……」

「大我。冴夢ちゃん大事にしろよ?
 じゃないとマジで俺に殴られるから。」

「……分かってる。」



店を出ると、夜気がふっと冷たく冴夢の頬を撫でた。

背中越しに、聖が遠慮なく叫ぶ。

「おーい大我!泣かせんなよー!あとで報告しろー!」

「誰がするか!!」

大我の怒鳴り声が通りに響き、
冴夢は思わずくすっと笑った。

(……なんか……ふたりともすごい……)


大我はそのまま冴夢の手を取って歩き出す。

「……え、どこ行くの?」

「ちょっとサプライズ。」

「サプライズ……?」

期待と不安が混ざる中、
連れてこられたのは——夜空を映す巨大なガラス張りのビルだった。

「ここ……?」

「うん。着いてこい。」

大我はためらいもなく社員証をタッチして入っていく。

「ちょ、え!?勝手に入って怒られな——」

「しっ。見てて。」

その声は今までより低くて大人で、
冴夢は黙ってついていくしかなかった。

 ー屋上

扉が開いた瞬間、夜風がふわりと髪を揺らした。

広大な屋上。
眼下には街の光が果てなく続いている。

「……すご……」

「まだ早い。」

大我が腕時計に視線を落とした、その瞬間。

——ぱぁん。

夜空が破裂音に震え、
目の前いっぱいに大輪の花火が咲いた。

近い。
音が胸に刺さるほどの距離。

「っ……!」

冴夢は思わず胸に手を当てた。

(……こんな近い……)

大我は横顔を見て、優しく笑う。

「特等席。
 ここ、KURURUGIの本社ビルだから。誰も来ない。」

「えっ……ここ、大我の会社なの……?」

「そう。花火の日調べたら今日でさ。
 冴夢の誕生日にどうしても見せたかった。」

冴夢の指が震えた。

「……わたしのために……?」

「当たり前だろ。」

花火の光がふたりの影を揺らす。

大我は一歩近づき、
花火の光を受ける冴夢をまっすぐに見つめた。

「……20歳になった冴夢を祝いたかった。
 今日、ここで。」

今までの優しさとは違う、
“男の顔”。

その変化に気づいた時には——
もう遅かった。

大我の瞳に、
ふっと、抑えていた熱が灯った。

次の瞬間にはもう——
頬にそっと触れる手があった。

指先は優しいのに、
そこに隠された“男の体温”は隠せなかった。

「……冴夢。」

呼ぶ声が、花火より近い。

「誕生日おめでとう。」

言い終わると同時に——
距離が消えた。

唇が触れた瞬間、世界が音を失った。

世那のキスは、
ふわりと包む“安心”そのものだった。

でも大我のキスは——違う。

深く、重く、まっすぐで、
胸の奥を鷲づかみにされるみたいに苦しい。

「……っ……」

冴夢は震えて大我の胸の服をぎゅっと掴んだ。

離れようとしたわけじゃない。
支えが欲しかっただけ。

大我はその反応に気づき、
ほんの一拍だけ、唇を深く押し当てた。

優しさではなく——“求める熱”。

花火の音が完全に遠くなった。

唇が離れたとき、冴夢は息を失っていた。

大我がそっと頬に手を添える。

「……冴夢。息、して。」

冴夢は小さく吸い込み、
その拍子に一粒、涙が零れた。

大我は驚かず、
その涙を親指で拭った。

「……泣くなよ。嬉しいのは俺の方なんだから。」

冴夢は震える声で言う。

「……大我……
 キス……苦しいくらい……」

大我はふっと笑った。

「我慢、ずっとしてたんだよ。」

額をそっと合わせる。

「これからは……俺が全部教える。
 冴夢が震えなくなるくらい……
 ちゃんと、大事にする。」

冴夢の胸が熱く揺れた。

(……大我……
 こんなに……わたし……)

大我は小さな箱を取り出し、
カチ、と開く。

シルバーのチェーンが静かに光る。

「動くなよ。」

背後でカチャ、と留め具が閉じ、
首すじをなぞる指が熱い。

「……大我、これ……」

「誕生日プレゼント。」

大我は冴夢の左手を取って、薬指を軽くつつく。

「ほんとはここにつけるやつ、渡したかったけどな。」

冴夢の心臓が跳ねる。

大我は照れたように笑いながらも、真剣に続けた。

「俺のは重いから。
 今つけたら……冴夢が困る。」

冴夢の胸元に軽く触れながら言う。

「そのチェーンに……兄貴の形見、つけてほしい。」

冴夢の目が揺れた。

「……世那くんの……?」

「冴夢が“名取でいる”って決めたなら……
 兄貴の想いも一緒に連れていけばいい。
 兄貴ごと——冴夢を抱く覚悟、俺がする。」

花火の光が冴夢の視界を揺らす。

胸が熱くて、痛くて、でも嬉しい。

「……っ……大我……」

大我はそっと抱き寄せ、耳元で囁いた。

「……今日から先の人生は、俺と。」

その声に冴夢は目を閉じ、
静かにその胸に額を寄せた。

「……うん……
 大我と、生きる……」

花火が夜空に咲き乱れていた。

──────────────────────────

 -帰り道
大我は階段へ向かいながら、
冴夢の手を、花火の時より少し強く握っていた。
触れているだけなのに、胸の奥がまた熱くなる。
花火を見終えて駅に向かうころには、
夜の街はすっかり人で溢れていた。

 -駅
ホームに降りると、電車のアナウンスが響く。

『ただいま混雑しております。奥までお詰めくださ──』

大我は苦い顔をした。

「……最悪。混んでる。」

「大丈夫だよ、大我。乗れなかったら次──」

「いや、乗る。」

「……え?」

「冴夢、寒そうだし。帰り遅くしたくない。」

言い終わる前に、
来た電車のドアがガッと開き、
波のように人が押し寄せる。

「わ、ちょ……!」

一瞬で押し込まれそうになった冴夢の腕を、
大我が迷いなく掴んだ。

「こい。」

そのままぐいっと引き寄せられて、
大我の胸にしっかり抱き込まれる形で電車に押し込まれた。

「っ、大我……!?」

大我は冴夢の頭上に手をついて、
完全に“壁”を作る。

自分の体で、冴夢のまわりを囲う。

腕も胸も背中も、触れてる。
触れない場所がない。

冴夢の息が止まる。

「動くな。守りきれない。」

その声が、
キスの余韻をまだ引きずった低さで、
耳に直接落ちてくる。

(……っ……ち、近すぎ……!)

すぐ横のサラリーマンのバッグがぶつかりかけた瞬間、
大我が冴夢の腰を支えるように手を回した。

「触らせねぇよ。」

低い声。
完全に男の顔。

冴夢の心臓が跳ね上がる。

「た、大我……あの、手……」

「嫌か?」

「……っ、嫌じゃ、ない……けど……!」

「ならいい。」

そう言って、
大我はほんの少し冴夢の肩に顔を寄せた。

熱い息がかかる。
その温度に冴夢の体はまた震える。

「……花火のあとからずっと、
 お前に触れたいの我慢してんだよ。」

囁く声が甘すぎて、
耳元が一瞬で熱くなる。

「こ、こんな満員電車で言うこと!?!」

「混んでる方が言いやすい。」

「意味わかんない!!」

「誰にも聞かれないし。」

「聞こえるよ!?!」

大我は少し笑って、
冴夢の額に軽く唇を触れさせた。
(見えない角度で、誰にもわからない。)

「……キスしねぇだけ褒めて。」

「っ……!!」

「冴夢、顔赤い。」

「大我のせい!!」

「知ってる。」

満員電車の中、
ふたりだけの距離は他よりずっと近かった。

冴夢は胸の奥で思う。

(……この距離で……隠せるわけない……
 ほんとに大我の恋人になったんだ……)

大我は冴夢の髪にそっと触れ、
耳元で囁いた。

「……安心しろ。
 どんな場所でも、俺が絶対守る。」

その言葉が
花火より強く響いた。
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