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三十一章
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ー夕方のリビング。
窓から差し込む夕日が、
冴夢の横顔と、その腕に抱かれた“紙の束”を照らしていた。
古びた封筒。
ノート。
バラバラのプロット。
世那の日記。
まだ終わっていない原稿。
冴夢へ宛てた手紙。
そして——
大我から世那へ送っていた手紙の束。
7歳の大我の震えた文字から、
兄が亡くなる直前まで続いていたもの。
(……大我……こんなに……)
玄関の鍵が回る音。
「……ただいま。冴夢?」
靴音が止まり、
大我はリビングへ足を踏み入れた。
冴夢が胸に抱いた紙束に気づいた瞬間、
大我の呼吸がふっと浅くなる。
「……それ……」
冴夢は唇を結び、
ゆっくり顔を上げた。
「大我……わたしね……」
抱えている紙をぎゅっと抱きしめる。
「……この小説、完成させたい……
世那くんの“最後の物語”……ちゃんと読んで、ちゃんと形にしたい……」
大我はしばらく黙った。
そして、息をゆっくり吐いた。
「……そっか。
ちょっと待ってて。」
大我は寝室へ向かい、
数秒後、ひとつの箱を抱えて戻ってきた。
その箱は、ずっと大我の部屋の奥にしまわれていた。
(……大我……それ……)
冴夢の目が自然と潤む。
大我は冴夢の前に膝をつき、
ゆっくり箱を開いた。
中に詰まっていたのは——
世那から大我へ宛て続けられた手紙の束。
10歳の世那が初めて書いた文字。
離れ離れになった日、大我への励まし。
高校受験の前に届いた手紙。
就職した日の祝い。
冴夢のことを話した日の返事。
そして……亡くなる数日前の手紙。
「……これ……全部……世那くんから……?」
冴夢の声が震える。
大我は小さく頷いた。
「俺……兄貴とずっと文通してた。
7歳から……兄貴が死ぬまで。」
冴夢の胸がつまる。
「……大我の……これは……大我の宝物じゃ……」
大我はゆっくり首を振った。
「冴夢が持ってるのは、俺から兄貴に送った手紙だろ。」
冴夢は抱えている紙束をそっと見下ろす。
兄ちゃんへと書かれた封筒。
大人になっても不器用なままの文字。
冴夢の誕生日に、兄へ相談した跡。
「……それが“俺の声”。
そしてここにあるのが……“兄貴の声”。」
大我は世那の手紙をひとつ、冴夢の手に乗せた。
——その瞬間、冴夢は気づいた。
大我の指先が、少し震えていることに。
「……冴夢。
兄貴の物語を完成させるには……
どっちも必要だろ。」
冴夢の視界が滲む。
「……いいの……?
大我の……大事な……兄弟だけの手紙なのに……」
大我は微笑んだ。
ほんの少しだけ、泣きそうに。
「冴夢になら……ぜんぶ見せていい。
兄貴の声も、俺の声も、俺たちの全部……おまえに託すよ。」
冴夢は胸がぎゅっと締めつけられて、
両手で二つの手紙の束を抱き寄せた。
初めて——
兄弟の往復書簡が揃った瞬間。
世那の人生と、
大我の成長と、
冴夢と繋がった物語がひとつになった瞬間。
夕日の中、冴夢は強く頷いた。
「……完成させる。
世那くんの物語……
大我の想いごと……全部、読んで、全部……書く。」
大我は冴夢の頭にそっと手を置いた。
「……頼んだ。」
夕日が沈む前の、静かで温かい時間。
三人の物語が、“同じ机の上”に揃っていた。
その日から、
ふたりの、いつもより静かな時間が流れ始めた。
机の上には——
兄弟の往復書簡が、山のように積まれている。
開かれた封筒。
少し黄ばんだ便箋。
インクがにじんだ子どもの文字。
大人になって落ち着いた筆跡。
それら全部が、
**“世那が生きていた時間”**そのものだった。
────でも。
冴夢は、大我が家にいない時は、
絶対にその紙束に触れなかった。
手を伸ばせば読める距離にあるのに、
指先が触れたら泣いてしまいそうなくらい気になるのに、
それでも触れなかった。
それが、冴夢の“誠実”だった。
大我が受け取った痛み。
大我が閉じ込めてきた時間。
それを勝手に開ける気には、どうしてもなれなかった。
(……大我にとっては……
これ、きっと地獄と天国の間みたいな場所だ……)
世那の想いも、大我の想いも——
止まったまま残されているから。
だからこそ、大我が「見ていい」と言ってくれた時、
冴夢は胸の奥がぎゅっと熱くなった。
(……託してくれたんだ……
大我の大事な“兄との時間”全部……)
そんなある日の夕方。
ふたりは机の前に並んで座っていた。
「……大我、この手紙……」
冴夢がそっと持ち上げた一枚に、
大我は露骨に顔をひきつらせた。
「げ……それは……」
“兄さんへ
麗美に告白された。ずっと友達だと思ってたから、驚いたんだ。けど、あの子を見てると元気が出るんだよな…付き合ってみようと思う。ー大我”
冴夢は目をぱちぱちさせる。
「……麗美さん……
この前会った人……でしょ……
……付き合ってたんだ……」
沈黙。
大我は額を押さえ、天井を仰いだ。
「……あのなぁ……
それは違ういや。違くないけどもっ……
なんでお前が読むんだよ……」
「だ、だって……手紙の束に……」
「兄貴が捨てねぇからこうなるんだよ……ッ!!」
顔が真っ赤。
八重歯を見せて睨んでるのに、全然こわくない。
むしろ……かわいい。
冴夢はくすっと笑った。
「……大我にも……
いろいろあったんだね……」
その言い方が、あまりに優しくて、
一切責めてなくて、
大我の過去をそのまま受け止めてて。
大我は視線をそらし、耳まで赤く染めた。
「……やめろ……
そういう“よしよし受け止めます”みたいな目……」
「え、そんな目してないよ……?」
「してる!!」
冴夢はそっと手紙を重ねて戻しながら言った。
「……いいよ。
大我がどんな過去でも。
黒歴史でも。
……全部含めて、大我だもん。」
一瞬、大我の動きが止まった。
そして、
冴夢が触れた“麗美の黒歴史”の手紙よりもずっと、
大我の胸の奥に刺さる言葉が落ちた。
「……冴夢……」
声が低く震えた。
「……おまえ……
そんなこと言われたら……
……俺がどうなるかわかってんのか……?」
触れたいけど触れられない距離。
泣きそうな笑顔。
ほんの少し震える呼吸。
冴夢はそっと笑った。
「……大我は大我だよ。」
その一言で、
世那の時間も、大我の時間も、
止まっていたページがゆっくり動き出すようだった。
机の上の手紙は、過去。
でも、冴夢と大我が並んで読むその時間は、未来。
静かで温かくて、
少し笑えて、
すこし泣ける日々が続いていった。
ー深夜、リビング。
机の上に置かれた往復書簡の山は、
今日もまだ読まれる順番を待っていた。
静かな照明の下、
冴夢は一枚ずつ丁寧に封筒を開いていく。
大我は隣に座っていた。
けれど、さっきからずっと沈黙している。
冴夢の指先が、ひとつの手紙の端に触れた瞬間——
大我の肩が、微かに揺れた。
(……これ……)
“結婚前夜・大我への手紙” の封筒だった。
冴夢は迷った。
けれど、大我がそっと頷いた。
「……読んでいいよ。」
声は落ち着いているのに、
手だけが少し震えていた。
冴夢は便箋を開き、
ゆっくり文字を追う。
──冴夢は息を詰めた。
そこに書かれていたのは、
兄が最後に残した“真実の気持ち”。
◆世那 → 大我
(結婚前夜)
“守りたいだけじゃない。
責任だけでもない。
……ただ、彼女と生きたいと思った。”
冴夢の胸に、静かな衝撃が落ちた。
(……世那くん……)
恋なんて言わないまま、
好きだとも言わずに、
ただ“隣で生きたい”と決めた兄。
その決意の静かさが、
冴夢の心に深く深く染みた。
便箋を読み進める。
“さゆは、俺の人生を奪わなかった。
むしろ……取り戻してくれた。”
冴夢の指がふるっと震えた。
(……そんなふうに……
そんなふうに思っていてくれたんだ……)
そして隣の大我は——
冴夢よりもずっと深いところで息を呑んでいた。
その表情は、
“弟として読んでいた頃”には絶対にしなかった顔だった。
少し苦しそうで、
泣きそうで、
だけどどこか嬉しそうでもあった。
冴夢はそっと大我の横顔を見た。
「……大我……」
大我は一度だけまぶたを閉じて、
ゆっくり呼吸を整えた。
「……兄ちゃん……
さゆちゃんのこと……
こんなふうに……思ってたんだな。」
声がかすかに震えていた。
「……当時は……
普通に、応援できたんだよ。」
大我は指先に力を込めた。
「兄ちゃんが誰かを大事にできて……
誰かを好きになれたの……
すげぇ嬉しかった。」
冴夢は黙って、大我の言葉を受け取る。
「でも……今読むと……」
ふっと笑ったが、
その笑顔は痛いほど優しかった。
「……きついな。
兄ちゃんの気持ちと……
冴夢の位置が……
全部そのまま書いてあって。」
冴夢の胸がぎゅっと締め付けられた。
世那が冴夢を“人生を救ってくれた人”と思い、
同時に“大切な女の子”として見ていたこと。
その真実を、
大我は弟として応援もしていたし、
今は恋人として突きつけられる。
苦しくないはずがない。
冴夢は便箋をそっと閉じ、
大我の手に重ねた。
「……ごめん……大我……」
大我は静かに首を振った。
「違うよ、冴夢。
謝ることじゃない。」
そして、大我はまっすぐ冴夢を見る。
「兄ちゃんが冴夢を想ってたこと……
俺は、ちゃんと受け止めたい。」
声が震えながらも、
しっかりと言った。
「兄ちゃんが守りたいと思った子を……
今、俺がこんなに好きなんだ。
それって……なんか……すげぇだろ。」
冴夢の目が熱くなる。
「兄ちゃんが好きだったものを、
俺も好きになるのは……
なんか自然なんだよ。」
大我は、そこで小さく息をついた。
「でも……痛いな。
やっぱ痛い。」
冴夢はそっと大我の肩に寄り添った。
「……痛いなら、痛いって言っていいんだよ……」
大我は目を閉じて、
額を冴夢の髪に預けた。
「……言うよ。
冴夢……今だけ言っていい?」
「うん……」
「……やきもち妬く……
死んだ兄ちゃんにすら。」
その声は、
大我が初めて“弟ではなく男として”漏らした弱さだった。
冴夢はそっと手を握り返した。
静かで、
優しくて、
すこし痛い夜。
兄の想い。
弟の痛み。
冴夢の受け止める覚悟。
その全部が重なり、
未来へゆっくり進んでいった。
──結婚前夜の手紙を閉じたあと。
冴夢は、しばらく言葉を出せなかった。
便箋に指を置いたまま、
そっと大我の横顔を見る。
沈黙の中で、
大我は泣きも怒りもしない。
ただ——
兄の恋と、弟としての痛みと、
恋人としてのやきもちを
すべて飲み込むように静かに呼吸していた。
その表情があまりにまっすぐで、
すこし苦しくて、
胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
(……大我……)
冴夢は、そっと便箋から手を離した。
そして——
珍しく、自分から大我の体に腕を回した。
「……冴夢……?」
驚いたように、大我の声が震える。
冴夢はぎゅっと抱きしめたまま、
ゆっくり言葉を探した。
「……大我。
苦しかったら……苦しいって言っていいよ……」
大我は少し迷うように息を吸って、
冴夢の背に手を添えた。
だけど冴夢は、首を振るように
彼の胸元に顔を埋めた。
「……ねぇ、大我。」
「……ん……」
「私が……愛してるのは……大我だよ。」
大我の呼吸が止まった。
冴夢の声は小さいのに、
しっかり大我の胸を震わせる強さがあった。
「世那くんが……私を守ってくれたのは本当。
あの時間は、大事で……
今の私を作ってくれた“ひとかけら”……
……ううん、“一部”。」
冴夢はそっと大我の胸に手を当てた。
「でも……いま私が生きてる世界も、
笑ってる理由も、
どこに帰りたいかも……」
大我が、ゆっくり冴夢の肩を抱きしめ返す。
手のひらが震えているのが分かる。
冴夢は、さらに強く言った。
「……全部……大我なんだよ。」
大我は息を吸った。
まるで堪えていた何かが溢れそうに。
「……冴夢……」
声が低く、震えて、
泣きそうなのに、泣かない。
「俺……そんなこと言われたら……
……冴夢の全部守りたいって……
余計に思っちまう……」
冴夢は大我の胸元に腕を回しながら、
小さく笑った。
「……守られてるよ。
ずっと。
いまも。」
大我は冴夢の頭に手を添え、
額をそっと寄せた。
「……兄ちゃんの想いが痛いんじゃない。
冴夢失う未来が……怖いだけだ。」
その言葉に、冴夢の胸がじんわり熱くなる。
「……失わないよ。
だって……大我が好きなんだよ。」
大我の喉が震えた。
強く抱きしめ返された腕が、
すこし乱暴で、
でもとても優しかった。
「……俺も……
お前しか……好きじゃねぇよ……」
二人の影がひとつに重なった。
机の上には、兄弟の往復書簡。
過去の愛と、守ろうとした想いと、
まだ語られていない痛みが積まれている。
けれど——
冴夢が抱きついたその瞬間、
大我の未来は、もう揺らがなかった。
冴夢が“私を選んでいい”と言ってくれた夜。
静かであたたかく、
涙がこぼれそうなほど優しい夜が、
ゆっくり流れていった。
窓から差し込む夕日が、
冴夢の横顔と、その腕に抱かれた“紙の束”を照らしていた。
古びた封筒。
ノート。
バラバラのプロット。
世那の日記。
まだ終わっていない原稿。
冴夢へ宛てた手紙。
そして——
大我から世那へ送っていた手紙の束。
7歳の大我の震えた文字から、
兄が亡くなる直前まで続いていたもの。
(……大我……こんなに……)
玄関の鍵が回る音。
「……ただいま。冴夢?」
靴音が止まり、
大我はリビングへ足を踏み入れた。
冴夢が胸に抱いた紙束に気づいた瞬間、
大我の呼吸がふっと浅くなる。
「……それ……」
冴夢は唇を結び、
ゆっくり顔を上げた。
「大我……わたしね……」
抱えている紙をぎゅっと抱きしめる。
「……この小説、完成させたい……
世那くんの“最後の物語”……ちゃんと読んで、ちゃんと形にしたい……」
大我はしばらく黙った。
そして、息をゆっくり吐いた。
「……そっか。
ちょっと待ってて。」
大我は寝室へ向かい、
数秒後、ひとつの箱を抱えて戻ってきた。
その箱は、ずっと大我の部屋の奥にしまわれていた。
(……大我……それ……)
冴夢の目が自然と潤む。
大我は冴夢の前に膝をつき、
ゆっくり箱を開いた。
中に詰まっていたのは——
世那から大我へ宛て続けられた手紙の束。
10歳の世那が初めて書いた文字。
離れ離れになった日、大我への励まし。
高校受験の前に届いた手紙。
就職した日の祝い。
冴夢のことを話した日の返事。
そして……亡くなる数日前の手紙。
「……これ……全部……世那くんから……?」
冴夢の声が震える。
大我は小さく頷いた。
「俺……兄貴とずっと文通してた。
7歳から……兄貴が死ぬまで。」
冴夢の胸がつまる。
「……大我の……これは……大我の宝物じゃ……」
大我はゆっくり首を振った。
「冴夢が持ってるのは、俺から兄貴に送った手紙だろ。」
冴夢は抱えている紙束をそっと見下ろす。
兄ちゃんへと書かれた封筒。
大人になっても不器用なままの文字。
冴夢の誕生日に、兄へ相談した跡。
「……それが“俺の声”。
そしてここにあるのが……“兄貴の声”。」
大我は世那の手紙をひとつ、冴夢の手に乗せた。
——その瞬間、冴夢は気づいた。
大我の指先が、少し震えていることに。
「……冴夢。
兄貴の物語を完成させるには……
どっちも必要だろ。」
冴夢の視界が滲む。
「……いいの……?
大我の……大事な……兄弟だけの手紙なのに……」
大我は微笑んだ。
ほんの少しだけ、泣きそうに。
「冴夢になら……ぜんぶ見せていい。
兄貴の声も、俺の声も、俺たちの全部……おまえに託すよ。」
冴夢は胸がぎゅっと締めつけられて、
両手で二つの手紙の束を抱き寄せた。
初めて——
兄弟の往復書簡が揃った瞬間。
世那の人生と、
大我の成長と、
冴夢と繋がった物語がひとつになった瞬間。
夕日の中、冴夢は強く頷いた。
「……完成させる。
世那くんの物語……
大我の想いごと……全部、読んで、全部……書く。」
大我は冴夢の頭にそっと手を置いた。
「……頼んだ。」
夕日が沈む前の、静かで温かい時間。
三人の物語が、“同じ机の上”に揃っていた。
その日から、
ふたりの、いつもより静かな時間が流れ始めた。
机の上には——
兄弟の往復書簡が、山のように積まれている。
開かれた封筒。
少し黄ばんだ便箋。
インクがにじんだ子どもの文字。
大人になって落ち着いた筆跡。
それら全部が、
**“世那が生きていた時間”**そのものだった。
────でも。
冴夢は、大我が家にいない時は、
絶対にその紙束に触れなかった。
手を伸ばせば読める距離にあるのに、
指先が触れたら泣いてしまいそうなくらい気になるのに、
それでも触れなかった。
それが、冴夢の“誠実”だった。
大我が受け取った痛み。
大我が閉じ込めてきた時間。
それを勝手に開ける気には、どうしてもなれなかった。
(……大我にとっては……
これ、きっと地獄と天国の間みたいな場所だ……)
世那の想いも、大我の想いも——
止まったまま残されているから。
だからこそ、大我が「見ていい」と言ってくれた時、
冴夢は胸の奥がぎゅっと熱くなった。
(……託してくれたんだ……
大我の大事な“兄との時間”全部……)
そんなある日の夕方。
ふたりは机の前に並んで座っていた。
「……大我、この手紙……」
冴夢がそっと持ち上げた一枚に、
大我は露骨に顔をひきつらせた。
「げ……それは……」
“兄さんへ
麗美に告白された。ずっと友達だと思ってたから、驚いたんだ。けど、あの子を見てると元気が出るんだよな…付き合ってみようと思う。ー大我”
冴夢は目をぱちぱちさせる。
「……麗美さん……
この前会った人……でしょ……
……付き合ってたんだ……」
沈黙。
大我は額を押さえ、天井を仰いだ。
「……あのなぁ……
それは違ういや。違くないけどもっ……
なんでお前が読むんだよ……」
「だ、だって……手紙の束に……」
「兄貴が捨てねぇからこうなるんだよ……ッ!!」
顔が真っ赤。
八重歯を見せて睨んでるのに、全然こわくない。
むしろ……かわいい。
冴夢はくすっと笑った。
「……大我にも……
いろいろあったんだね……」
その言い方が、あまりに優しくて、
一切責めてなくて、
大我の過去をそのまま受け止めてて。
大我は視線をそらし、耳まで赤く染めた。
「……やめろ……
そういう“よしよし受け止めます”みたいな目……」
「え、そんな目してないよ……?」
「してる!!」
冴夢はそっと手紙を重ねて戻しながら言った。
「……いいよ。
大我がどんな過去でも。
黒歴史でも。
……全部含めて、大我だもん。」
一瞬、大我の動きが止まった。
そして、
冴夢が触れた“麗美の黒歴史”の手紙よりもずっと、
大我の胸の奥に刺さる言葉が落ちた。
「……冴夢……」
声が低く震えた。
「……おまえ……
そんなこと言われたら……
……俺がどうなるかわかってんのか……?」
触れたいけど触れられない距離。
泣きそうな笑顔。
ほんの少し震える呼吸。
冴夢はそっと笑った。
「……大我は大我だよ。」
その一言で、
世那の時間も、大我の時間も、
止まっていたページがゆっくり動き出すようだった。
机の上の手紙は、過去。
でも、冴夢と大我が並んで読むその時間は、未来。
静かで温かくて、
少し笑えて、
すこし泣ける日々が続いていった。
ー深夜、リビング。
机の上に置かれた往復書簡の山は、
今日もまだ読まれる順番を待っていた。
静かな照明の下、
冴夢は一枚ずつ丁寧に封筒を開いていく。
大我は隣に座っていた。
けれど、さっきからずっと沈黙している。
冴夢の指先が、ひとつの手紙の端に触れた瞬間——
大我の肩が、微かに揺れた。
(……これ……)
“結婚前夜・大我への手紙” の封筒だった。
冴夢は迷った。
けれど、大我がそっと頷いた。
「……読んでいいよ。」
声は落ち着いているのに、
手だけが少し震えていた。
冴夢は便箋を開き、
ゆっくり文字を追う。
──冴夢は息を詰めた。
そこに書かれていたのは、
兄が最後に残した“真実の気持ち”。
◆世那 → 大我
(結婚前夜)
“守りたいだけじゃない。
責任だけでもない。
……ただ、彼女と生きたいと思った。”
冴夢の胸に、静かな衝撃が落ちた。
(……世那くん……)
恋なんて言わないまま、
好きだとも言わずに、
ただ“隣で生きたい”と決めた兄。
その決意の静かさが、
冴夢の心に深く深く染みた。
便箋を読み進める。
“さゆは、俺の人生を奪わなかった。
むしろ……取り戻してくれた。”
冴夢の指がふるっと震えた。
(……そんなふうに……
そんなふうに思っていてくれたんだ……)
そして隣の大我は——
冴夢よりもずっと深いところで息を呑んでいた。
その表情は、
“弟として読んでいた頃”には絶対にしなかった顔だった。
少し苦しそうで、
泣きそうで、
だけどどこか嬉しそうでもあった。
冴夢はそっと大我の横顔を見た。
「……大我……」
大我は一度だけまぶたを閉じて、
ゆっくり呼吸を整えた。
「……兄ちゃん……
さゆちゃんのこと……
こんなふうに……思ってたんだな。」
声がかすかに震えていた。
「……当時は……
普通に、応援できたんだよ。」
大我は指先に力を込めた。
「兄ちゃんが誰かを大事にできて……
誰かを好きになれたの……
すげぇ嬉しかった。」
冴夢は黙って、大我の言葉を受け取る。
「でも……今読むと……」
ふっと笑ったが、
その笑顔は痛いほど優しかった。
「……きついな。
兄ちゃんの気持ちと……
冴夢の位置が……
全部そのまま書いてあって。」
冴夢の胸がぎゅっと締め付けられた。
世那が冴夢を“人生を救ってくれた人”と思い、
同時に“大切な女の子”として見ていたこと。
その真実を、
大我は弟として応援もしていたし、
今は恋人として突きつけられる。
苦しくないはずがない。
冴夢は便箋をそっと閉じ、
大我の手に重ねた。
「……ごめん……大我……」
大我は静かに首を振った。
「違うよ、冴夢。
謝ることじゃない。」
そして、大我はまっすぐ冴夢を見る。
「兄ちゃんが冴夢を想ってたこと……
俺は、ちゃんと受け止めたい。」
声が震えながらも、
しっかりと言った。
「兄ちゃんが守りたいと思った子を……
今、俺がこんなに好きなんだ。
それって……なんか……すげぇだろ。」
冴夢の目が熱くなる。
「兄ちゃんが好きだったものを、
俺も好きになるのは……
なんか自然なんだよ。」
大我は、そこで小さく息をついた。
「でも……痛いな。
やっぱ痛い。」
冴夢はそっと大我の肩に寄り添った。
「……痛いなら、痛いって言っていいんだよ……」
大我は目を閉じて、
額を冴夢の髪に預けた。
「……言うよ。
冴夢……今だけ言っていい?」
「うん……」
「……やきもち妬く……
死んだ兄ちゃんにすら。」
その声は、
大我が初めて“弟ではなく男として”漏らした弱さだった。
冴夢はそっと手を握り返した。
静かで、
優しくて、
すこし痛い夜。
兄の想い。
弟の痛み。
冴夢の受け止める覚悟。
その全部が重なり、
未来へゆっくり進んでいった。
──結婚前夜の手紙を閉じたあと。
冴夢は、しばらく言葉を出せなかった。
便箋に指を置いたまま、
そっと大我の横顔を見る。
沈黙の中で、
大我は泣きも怒りもしない。
ただ——
兄の恋と、弟としての痛みと、
恋人としてのやきもちを
すべて飲み込むように静かに呼吸していた。
その表情があまりにまっすぐで、
すこし苦しくて、
胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
(……大我……)
冴夢は、そっと便箋から手を離した。
そして——
珍しく、自分から大我の体に腕を回した。
「……冴夢……?」
驚いたように、大我の声が震える。
冴夢はぎゅっと抱きしめたまま、
ゆっくり言葉を探した。
「……大我。
苦しかったら……苦しいって言っていいよ……」
大我は少し迷うように息を吸って、
冴夢の背に手を添えた。
だけど冴夢は、首を振るように
彼の胸元に顔を埋めた。
「……ねぇ、大我。」
「……ん……」
「私が……愛してるのは……大我だよ。」
大我の呼吸が止まった。
冴夢の声は小さいのに、
しっかり大我の胸を震わせる強さがあった。
「世那くんが……私を守ってくれたのは本当。
あの時間は、大事で……
今の私を作ってくれた“ひとかけら”……
……ううん、“一部”。」
冴夢はそっと大我の胸に手を当てた。
「でも……いま私が生きてる世界も、
笑ってる理由も、
どこに帰りたいかも……」
大我が、ゆっくり冴夢の肩を抱きしめ返す。
手のひらが震えているのが分かる。
冴夢は、さらに強く言った。
「……全部……大我なんだよ。」
大我は息を吸った。
まるで堪えていた何かが溢れそうに。
「……冴夢……」
声が低く、震えて、
泣きそうなのに、泣かない。
「俺……そんなこと言われたら……
……冴夢の全部守りたいって……
余計に思っちまう……」
冴夢は大我の胸元に腕を回しながら、
小さく笑った。
「……守られてるよ。
ずっと。
いまも。」
大我は冴夢の頭に手を添え、
額をそっと寄せた。
「……兄ちゃんの想いが痛いんじゃない。
冴夢失う未来が……怖いだけだ。」
その言葉に、冴夢の胸がじんわり熱くなる。
「……失わないよ。
だって……大我が好きなんだよ。」
大我の喉が震えた。
強く抱きしめ返された腕が、
すこし乱暴で、
でもとても優しかった。
「……俺も……
お前しか……好きじゃねぇよ……」
二人の影がひとつに重なった。
机の上には、兄弟の往復書簡。
過去の愛と、守ろうとした想いと、
まだ語られていない痛みが積まれている。
けれど——
冴夢が抱きついたその瞬間、
大我の未来は、もう揺らがなかった。
冴夢が“私を選んでいい”と言ってくれた夜。
静かであたたかく、
涙がこぼれそうなほど優しい夜が、
ゆっくり流れていった。
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