STEOP ふたりの天使

弧川ふき@ひのかみゆみ

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宿の夜

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 風呂から上がって、浴衣に着替える。
 それが済んですぐ、記念に撮っておいた。宿での自分たち。いつもと違う格好で、どうせなら楽し気にした写真。いい思い出になるはず。嫌なことも思い出すかもしれない、でも、嬉しいこともきっと思い出す。
 ある時、ちあちゃんが言った。
「ちょっとトイレ」
「じゃああたしも」
 一緒に行った。
 そしてその帰り。
「あっ」
 広い談話用のスペースの横の廊下を通っている時に、ちあちゃんがそんな声を上げ、体勢を崩した。
「ちあちゃ……!」
 あたしが手を伸ばしても届かない。
 ちあちゃんが自分で自分をかばうことはギリギリできたようで、顔や頭を床に打つことはなかった。ちあちゃん自身の腕が下敷きではあるけど。
「大丈夫…? なんで――!」
「分からないけど、スリッパが勝手に――」
 辺りを見た。仲居が遠くにいたり、談話スペースの椅子に男がひとりいたりしているけれど、どうも彼らではなさそう――今の出来事に驚いているみたいだった。
 一応警察に連絡。誰かがSTEOPスティープ能力を使った可能性は記録された。
 数分後、偽名で泊まっている男がいたのが分かったようで、影ながら顔認証が行なわれた…ということが知らされた。
 調査の結果として、談話スペースのあの男が捕まった。
「ち、違う! 頼まれて…!」
 不穏な言葉はその男のものだった。
「ちあちゃん……」
 あたしはちあちゃんを抱き締めた。もしかしたら気を失っていたかもしれない。今のちあちゃんの温かさを、あたしは確かめた。
 ちあちゃんはあたしをそっと抱き返した。
「私は無事だよ、気にしないで」
 イケメンスマイルが愛おしい。
 廊下の遠くに同級のボスがいるのが見えた。彼女は嘲笑うような顔をこちらに見せると、階段へ向かい、そして上がっていった。
 ――いい思い出を作りに来たのに……。
 あたし達はしばらく抱き合っていた。
 部屋へ戻った時、床に布団が敷かれているのが眼鏡越しに目に飛び込んできた。ふたつ並んでいる。
「色々あって……疲れちゃったね」
「うん……」
「もう、寝よっか」
「…うん」
 あたしは簡単な返事ばかりをして、それから布団に入った。ちあちゃんもイン。ただし、ちあちゃんはあたしの布団に入って、隣の枕を引っ張ってきた。
 今日みたいなことはもうないといい。帰ったら安心できるかも。あの同級のボスも、あたしの今の住所を知っているワケではなさそうだし――もちろん、ちあちゃんの住所も。ただ……今も安心したい――。
 あたしがそう思った時、ちあちゃんが起き上がった。布団の中で、あたしに覆いかぶさるようにすると――。
「あんなこと忘れよう。私のことだけ考えて、私のことだけ触れて――」
 あたしの胸が、どんどん高鳴っていった。
 唇同士が触れ合った。
 忘れよう、今はこんな大事な人が目の前にいるんだから――あたしがそう思った時、ちあちゃんの腰が、あたしの腰に密着した。
 瞬間あたしの脳裏に浮かんだのは男の顔だった。ちあちゃんの顔じゃない。
 嫌だと思った。こんなのじゃ嫌だと。
 怖くなった。
「いやっ……! やっ……!」
 つい、ちあちゃんを押しのけてしまった。
 泣きたくなってしまう。「ふっ…」と声が出た。何の感情がどれだけ乗ったのかさえ自分ではよく分からない。吐息のような弱い声だった。
 ――ちあちゃんは悪くない。
 ちあちゃんは悪くないのに、やっぱり浮かんでしまう――自分が幼少の時のあの男の行ない、女の行ない、こうして女になってからの…された行ない、今までの嫌なこと全部が――。
 ――今目の前にいるのは、ちあちゃんなのに。ちあちゃんだ…って思いたいのに。浮かぶ…!
 鼻が、ズッという音を出した。
「忘れさせて」
 あたしは必死に言葉にした。
「忘れたい。なんでもないって思わせて…!」
 その時には身を起こしていたあたしを、ちあちゃんはそっと抱き締めて、そして何もしなかった。まるで、あたしが普通にしていられるのを待ってくれているみたいに。
 言っておきながら怖がる自分自身を、あたしは、まだ、どうにもできなかった。
 ちあちゃんも、あたしにどうしたらいいか、分からないみたいだった。
 だから、せいぜいできたのは、元の位置に枕と布団を戻し、最初の並びで寝るということだけだったらしい……ちあちゃんがそうした。あたしは、身動きできなくて、何も忘れられなかった。
 あたしはあの人とは違う。そのはず。なのに浮かぶ。忘れられない。早くどっか行って。
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