古民家ベーカリー&カフェ とまり木 ~美味しいパンとやすらぎを~ 〈何気ない暮らしの景色賞〉受賞

衿乃 光希

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三章 新しい仕事

5.失敗したけど

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「沙耶さんは、巻いた卵を包丁で割るやつって、できるんですか」
 ふわっととろける、あの美味しそうなオムライス。

「できないよ。無理むり。素人でもできる人はいるだろうけど、あたしは無理。巻けない」
「やっぱり難しいんですね」

 私よりずっと長く料理をしている沙耶さんならできるのかも、と期待してしまったけど、プロの技だもんね。だからこそ、魅了されるんだろう。

「巻くのは無理だけど、スクランブルエッグみたいな状態の卵をひっくり返せば、割ったあとの状態になるよ」
「あ、なるほど。割るっていう行為がなくても、ふわとろになりますよね」

「やってみる?」

「やってみましょう」
 なんて無茶を、と思わないでもなかったけれど、失敗してもその卵を乗せればオムライスとして食べられると思って早速とりかかる。

 チキンライスとは別のフライパンに油を入れて温めてから火を小さくし、混ぜておいた卵液を流し込む。
「混ぜて混ぜて。穴が開かないようにね」
 菜箸で卵をかき混ぜる。ぐるぐるぐるぐる。
 なかなか固まらない卵をかき混ぜ続けていると、少しずつ固まり始め、

「あ、穴が」
「埋めて埋めて」
 フライパンを傾けて、固まる前の卵液を穴の部分に流していったけれど――

「失敗しました」
 ふわとろではなくなった、火が入って固まった卵が出来上がった。しかも埋めきれなかった穴がところどころ空いている。

「火を消せば良かったね」
「あ、そうでしたね」
 二人ともパニックになり、火を消すという単純なことにすら頭が回らなかった。

「まーでも、食べられるんだし、このままチキンライスに乗っけちゃおう」
 ふわとろの巻いた卵は失敗したけど、チキンライスの上にひっくり返せば、見た目はオムライス。

「お皿の上で巻けばいいんだよ」
 沙耶さんはキッチンペーパーを使って形を整えていった。

 凝りもせず、もう一つも同じようにやってみた。こっちはフライパンを火から離してゆっくりやっていったからか、それっぽいものになった。
 巻くのは難しくて、ふっくらした卵にはならなかったけど。

 チキンライスの上の、へなっとした卵を包丁で割る。ぷるんとは落ちなくて、剥がすように下としていった。
「失敗しました」
「いいじゃない。これだってオムライスだよ」
 実践してみると、想像していたより難しかった。

 朝の残りのポトフを温めて、ケチャップをかけたオムライスとテーブルに運んで、向かい合わせで席に着く。
 初めて作ったオムライスをぱくり。

「どう? 自分で作ってみて」
 何口か食べてみて、沙耶さんからの質問に答えた。

「ん……美味しいとは思います。けど、普通っていうか。沙耶さんや店長が作ったものなら、もっと美味しいんだろうなって思います」

 焦げてもいないし、べちゃっともしていない。卵のとろふわがなくても、美味しいオムライスができた。でも、特別美味しいとは思わなかった。いたって普通のオムライス。

「それはね、食べる人の顔を考えて作るから、美味しくできあがるんだよ」
「食べる人の顔、ですか」

 食べるのは私と沙耶さん。だけれど、顔なんて思い浮かべる余裕はなかった。失敗したくなくて、作ることに集中していた。

「かっこつけ過ぎた?」
「や、なんか、わかる気がします。私は、作るのに必死でした。焦がさないようにって。食べるときのことは、何も考えてなかったです」

 沙耶さんの言うことは、わかる気がした。
「母に、何が食べたい? ってよく聞かれてて、何でもいいって答えていました。あれって、私に美味しいものを食べさせたいから、訊かれていたのかなって」

「メニューを考えるのが大変っていうのもあるけど、自分が作ったものを食べて、嬉しい顔をしてくれると、報われるんだよね。良かった、次も喜んでくれるものを作ろう。ってなるんだよね。依織ちゃんのお母さんも、そうなのかもね」

「やってもらって当たり前だ、って思ってました。もちろん感謝はしてますけど、お手伝いすれば良かったって、思ってます。私は出来上がった料理を食べるだけでした」
「甘えさせてくれてたんだね」

 そう。私は母に甘えていた。自分から手伝うことをしなかったし、手伝ってと言われないから、やらなかった。高校時代は帰宅部だったから、時間はあった。大学時代はアルバイトをしていたから、家事は母任せにしていた。母も仕事をしていたのに。

「お母さんとの関係は良好?」
「はい」

「転職したことは、話したの?」
「あ、まだです。落ち着いたら、報告します」

「言いにくい?」
「そんなことはないですけど、心配すると思うので」

「まあ、知らない女と同居だなんて、心配しかないよね」
「シェアハウスみたいなものだと言えば、わかってもらえるんじゃないかなと、思ってます」

 頭が固い人ではないし、厳しい人でもない。見た目も中身もふんわりしているから、叱られたり反対されたりはないと思う。心配はするだろうけど。

「お母さん何歳?」
「たしか、五十三歳だったと思います」

「同世代か。理解してくれるといいけど、家を見にきてもらってもいいからね。あたしも会って話すのOKだし」
 同世代という言葉に、私は食べる手を止めた。

「あ、あの、ちょっと待ってください。同世代? って誰と誰がですか?」
「え? あたしと依織ちゃんのお母さん」

「嘘ですよね。沙耶さん、三十代だと思ってたんですけど」
 私より少しお姉さん。福留さんと変わらない年齢だと思っていた。まさかの美魔女だったなんて。

「五十五だよ。ええー、なに? ショック受けたみたいな顔して。ドン引きしてんじゃーん。若作りしすぎって思ってる?」
「いえいえいえ、ぜんぜん。ぜんぜんそうじゃなくて。五十代には見えなくて、ほんとに、三十代だと思ってました。若作りとかじゃなくて、自然っていうか……」

 若作りしているとは思ってない。肌がきれいだし、スタイルもいいし、白髪もないし、中年っぽい雰囲気を感じなかった。
 ただびっくりして、しどろもどろになってしまう。

「若く見えてたってことかな? ありがとう。実は店長よりも年上なんだよ」
「店長の方が年下なんですか? 店長は何歳なんですか」

「五十一歳。見えないよね。貫禄ありすぎでしょう?」
「母よりも下なんですね。六十歳近いのかなって思っていました」

「前職でばりばり仕事してたらしい、それでじゃないかな」
「ずっとパン屋さんなんですか」

「ううん。前職は百貨店のバイヤーだったらしいよ」
「バイヤー。全国飛び回ってそうですね」

「うん。飛び回って、美味しいものを探していたらしいよ。脱サラしてパン屋さんを始めたのは、趣味が高じてなんだって」
「へえ……趣味だったんですね」

 趣味から始めて、あんなに美味しいパンを作れるようになるなんて。才能なのか、努力なのかわからないけど、すごいなと思う。

 店長が仕事を続けていて、パン屋さんをしていなかったら、私の味覚は今も治らないままだっただろう。
 環境から逃げる思考にもならず、合わない仕事を続けて。その先にあったかもしれない未来に、ぞっとした。

「私は、とまり木に救われました。店長のパンに出会えてすごく感謝しています」

 スプーンを口に運ぶ。トマトケチャップの酸味を卵がまろやかに包み込む、普通だけど美味しいオムライス。この味を感じられるのは、店長のお陰。

 食べる楽しみを教えてくれたとまり木と、沙耶さんの家は、私にやすらぎをくれる。

 あの日、いつもの駅で電車を降りなくて良かった。
 たまたま降りた駅で、ぶらり散歩でとまり木に出会えて良かった。
 とまり木が求人募集をしていて良かった。
 思い切って退職をする決断をして良かった。
 迷惑をかけただろうけど、私に合わない環境から抜け出せなくなるほど疲弊する前に、抜け出せて良かった。

 明日も店長のパンが食べられる。
 今の私の最大の楽しみは、店長が作るパンを食べられることだった。


 次回⇒四章 田舎の人の距離間 1.寝坊
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