【完結】想いはピアノの調べに乗せて

衿乃 光希

文字の大きさ
30 / 70
第三話 桐生蓮音(きりゅう れおん) ~噓と真実~

脱却

しおりを挟む
 大澤響子さんはすごい人ね。

 世界のクラシック界で活躍している人の中に日本人がいることを知ると、母はピアニストに限らずCDを買ってきた。
 大澤響子さんはその中でも一番のお気に入りで、週に何度も聴いているし、聴くたびにいいわぁとうっとりしている。
 日本でのコンサートは年に一回あるかないか。くじ運の悪い母は抽選に外れてばかり。

 そんな母の憧れのピアニストの娘が目の前にいる。

 僕でも驚いて大声を上げてしまったのに、母はまったく声も出さず、身動きすらしなかった。
 どうしたんだろうと思って母を見ると、母は完全に固まっていた。

 当たり前だよね。母は大澤響子さんが取り上げられている音楽雑誌があれば買う。
 香さんが一緒に写っていたこともあったから、疑うよりも先に顔を思い出して本人だと気がついて、びっくりしたんだろうな。

 僕が母の身体を揺さぶって意識を戻すと、母は香さんの手を突如両手で掴んで、強引な握手を求めた。
 響子さんの大ファンですと。

 香さんがびっくりする番だったけど、母のやりたいようにさせてくれていた。

 それから母と香さんのスマホの電話番号と、メールアドレスとラインを交換して、お礼を遠慮する香さんと別れた。

 僕が中学生になってスマホを買ってもらうまでは、母のスマホで香さんとやり取りをして、主にピアノに関する悩みや疑問などいろいろ教えてもらった。
 年に数回会って食事をしたり、映画や観劇に連れて行ってもらったり、香さんが出演するコンサートに呼んでくれたりもした。

 麗華音大の年度末コンサートで聴いたチャイコフスキーの「悲愴」は、今でも忘れられない。
 暗く重苦しく、寂しくて切なくて、死とはこういうものなのかと、怖れを抱いた。

 演奏後、僕はしばらく立てなかった。
 この曲は自分の耳で聴けて本当に良かった。素晴らしい演奏だった。

 僕はといえば、クラスではまだ孤立していたけれど、ピアノには触れるようになった。
 香さんの演奏を聴き、香さんとまた弾きたい、香さんに少しでも近づきたい。
 そう願ったら自然と演奏できるようになっていた。
 あんなに悩んでいたことが嘘みたいに、堰き止めていた物がスコンと抜けて水が通ったように、なんの違和感もなく、すんなりと弾けた。

 より環境を整えるため、僕は音楽科のある学校への中学受験を目指した。

 塾にも通った。両立はかなり大変だったけど、父の言う通り、ピアノだけに偏ってはいけないと思ったから。

 父はちゃんと勉強をするならと、受験を許してくれた。
 英会話スクールにも通った。海外に出たいから、英語は必須だ。
 香さんは海外生活が長いから、日本語と英語とイタリア語の他に、日常会話ならフランス語ドイツ語を話せるそうだ。ピアノだけじゃなくて、そういうところも見習いたかった。

 六年生になって僕をからかっていた子たちは、飽きたのか放っておいてくれた。
 僕も受験に集中していたから、彼らを気にする余裕がなかった。

 無事に合格し、僕は極度の緊張状態で入学を迎えた。
 緊張していたのは、これまでの接し方を変えないといけないと思っていたから。
 多くなくていいから、同年代の友達を作りたかった。そのためには僕が変わらないといけない。

 つまらないと決めつけていた、同年代がハマっているものに目を向けるようにもした。
 弟に教えてもらってアニメや漫画を見、一緒にスポーツ観戦もした。
 その中から自分が好きだと思えたものを掘り下げていくと、話しをするクラスメイトがちらほらとできた。

 本を貸してもらったり、レッスンがないときには遊びに行ったりと、ピアノだけに偏らないように心がけた。

 人との交流を始めると、ときには意見が合わなかったり、言い合いになることもあったけど、他人の考え方を知って自分の考えを再認識したり、間違っていることに気が付いて反省したり、伝え方を考えるようになった。

 勉強とピアノをきっちりとしていると、遊びに行っても何も言われなかった。
 僕は中学生になってようやく、ピアノ以外のことを楽しめるようになった。

 ピアノでもクラシックやジャズ・オーケストラだけじゃなくて、今流行っている邦楽や洋楽も聴き、耳コピをしてピアノで弾いたりもしている。

 練習の時間は前より減ったけれど、今までしてこなかった経験をしたからか、表現力の幅が広がったと評価されるようになった。

 僕を苦しめていた審査員の言葉は、もう気にならなくなった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

なほ
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模るな子。新入社員として入った会社でるなを待ち受ける運命とは....。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...